何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

地球Bもないが、人生Bもないんだけど?

 

マクロン氏「プランBはない。地球Bはないからだ」:朝日新聞デジタル

マジで最低な表現。地球Bはないだろうが人生Bはないんだよ?で、その選択は少なくとも公平に行われるべき。同調圧力で成しえるものではない。温暖化対策は大事だしやるべきだが、だからといて全てを正当化はできんよ

2017/06/03 02:47

 

彼には人生Bがあるのかもしれんが、私にはないらしい。

 

温暖化の取り組みは個人的には進めるべきだと思うし、こういった事の結果は残念ながら私が生きている間に結果は出づらく、何に対する投資であるかという事を自身で理解し納得しながら進めるしかない。

 

トランプ氏の公約もその実行も賛同はしない。

が、私はマクロン氏のこの物言いにも賛同はしない。

むしろマクロン氏のこの物言いの方が個人的には怒りを覚える。

 

何かを判断、選択するというのは、これは一人ひとりが行う事で、他人の意見は参考にはするとしても、最後はその人の事情や環境によって、その人自身が行う事でしかない。

 

少なくともトランプ氏の支持者というのは、現状の枠組みについて否定的な人達であり、将来の投資よりも今の生活をどうにかしてほしいという人達なわけで、そこは理解しなければならない。

 

もっとも、だいぶトランプ氏の支持率も下がっているので、その支持者がどの程度いるのか、というのは多少疑問は残るが。

 

温暖化対策の為に、政府や企業は何かしらの負担をしているわけで、その影響は少なくともわれわれにも何らかの形で影を落とす。

ただ、少なくとも温暖化対策が必要であると考え、その負担を許容できる人であったり、そういった事よりも極端に優先順位が高くない人にとってはそれは容易に受けいれられるだろうし、それ以上に、むしろ受け入れる事が当然であるとすら考えていると思う。

 

が、中には将来の地球の事よりも、今日の自分の生活の方が深刻である人もいる。

そういった人が、少なくともわれわれとは違う決断をしたとして、それを受け入れる事は難しいとしても、だからといって全てを否定してよいわけではない。

 

特に、選挙によって選ばれるという事は、選挙公約であったりあらかじめ定めている方針であったりに大して一定の信任を得ているわけで、それが仮にクレイジーな公約であったとしても、それを望む人達が一定数いるという事は事実であって、どんな綺麗ごとを並べてもなかった事にはならない。

 

先進国の貧困層と、発展途上国の一般層ではどちらが幸せなのだろうか。

 

私は、精神的には先進国の貧困層の方が辛く、肉体的には発展途上国の一般層の方がつらいのだと思う。

 

しかし、実際には発展途上国の人はわれわれが思うような事には辛さを感じていないという事もありますがね。

 

精神的な負担と、肉体的な負担はどちらを優先すべきだろうか。

 

実際問題、アメリカの富の配分状況を見れば、そもそもアメリカ経済で潤っているというのはかなりの偏りがあり、単純に先進国という言葉で括ってはならない事は明らかだ。

 

日本も同じで、ただ「日本」というだけで誰しもが幸せな生活をおくっているわけではないし、貧困問題も残念ながら未だに解決をみずそこに当然のように存在する。

 

富の偏りが顕著になるほど、こういったクレイジーな意見が当然のように受け入れられるようになる。

それは至極当然な事で、そのことを理解しないとこの状況はより深刻な状態となる。

 

「プランBはない。地球Bはないからだ」

 

一見すると非常にすばらしく、そのとおり、と勘違いしてしまいそうなフレーズだ。

 

だが、それはわれわれの人生も同じだ。

誰かの為に自分が犠牲になるというのは非常にすばらしい事であるかもしれない。

その犠牲も、誰かにとってはさほど負担ともならず気にする事がない程度のものかもしれない。

 

だから?

 

それはあなたにとっての解釈・理解であり、私であったり、誰かの理解ではない。

 

私は大抵の負担は耐えうる。

経済的にもそれなりに潤っており、年齢もまだ限界を感じる年でもないため、肉体的な負担にもまだ耐えうる。

 

が、全ての人がそうではない。

その人にとって、これ以上誰かの為に自分の人生を犠牲にすることができない、と感じた人がいたならば、それはその人の限界なのであって、それを無理強いする事はできない。

 

確かに、共有財産である地球というものや、環境というものをどうするのか?という問題は残る。

さらに言えば、アメリカという大国が行き過ぎた保護主義をより表立って主張し始めたとき、そのほかの国がそれに同調する危険性もある。

 

が、それであっても、これはダメ。

 

本当に将来に投資すると考えるなら「犠牲はみんな等しく」ではなく、「負担できる人から負担する」としなければ絶対に続かない。

 

俺も負担しているのだから、お前も負担するのは当然だ、というのはもはやただの強制でしかない。

 

私は、既に国という単位でこういった問題と取り組む事に限界があるのだと思う。

個人の所得や資産といった経済的耐性であったり、場合によっては発展途上国であれば生活の違いから先進国とは異なる負担が可能であったりする。

そういった、もっと個の違い、環境・境遇の違い、ストレスの受け方の違い、そういったものとちゃんと向き合わないと、これだけ格差が進行した世界が、同じ目的に投資するというのは難しいと思う。

 

私だっていろいろな場面で「それは不公平だ」と思う事はあるし、実際言葉にすることもあるし、ブコメにもそういったことは述べる事もある。

 

が、ただ、不公平である、と率直にいうことと、尤もらしい言葉で相手を全否定することは違うし、それは流石にアウトだと思う。

 

そういった意見がでている背景であったり、なぜそういった事になったのかを考える必要は、少なくとも犠牲を強いる側である政治家はより真剣に考えるべきだと思う。

 

それができないのであれば、ただの理想主義者でしかないよ。

いろいろありましたがこれで終わり。

 

今日。 - 渡辺明ブログ

当然の事ではあるし、時間もかかりすぎた。けどもまずはその一歩をちゃんと踏み出したことは評価する。自己の考えが受け入れられない事は誰にでもある。その時にちゃんと向き合えることも一つの大事な事だと思うよ。

2017/05/25 12:43

 

まぁ、最終的には成るべく形になったのかと。

 

唯一、ブコメIDコールでいくつかご意見をいただいていたものの、レスをしなかったのが本件です。

 

理由はいろいろあるのですが、当事者以外の意見に耳を傾ける事には基本は意味がないので、そこで盛り上がる事にはあまり加担したくないな、という点も多少あり、あえてどのような形であれ結論がでるまでは意見としてそれ以降はまとめない事としていました。

 

今回こうやって渡辺棋士自身が結果を報告していますので、個人的にはこの結果があるべき形であるとは思いますし、まぁ、欲を言えばできればもう少し早く実現すべきであったとは思います。

 

あくまでも個人的な意見や考えですが、僕個人は渡辺棋士は心の底から全ての事について納得はしていないとは思います。

その事自体はやむをえないと思いますし、逆に僕がそういった立場であっても、葛藤、つまり自分は正しいはず、という気持ちであったり、自分は将棋の為に、という気持ちであったりと、渡辺棋士自身の正しさに基づき行動し、それを信じていた、いまもいるのであろうとは思います。

あくまでも僕がそう思っているだけで、そうでない事も当然ありますが、そう思われていてもそれは間違いではないという事ですね。

 

その事は何人も否定する意味がないのですが、その話と、組織としての立ち居振る舞いとは別であると考えます。

 

将棋を個人間で指すだけであれば、将棋というルールのみで良いですが、将棋連盟という一つの団体があり、その組織の中に属する以上は、結果として組織が一つの決着をつけたのであれば、それはそれに組織人としては従うしかないという意見です。

 

また、繰り返しになりますが、今回の一件はやはり権利を剥奪するまでのプロセスがあまりにも稚拙過ぎます。

 

これほど強引に進めるのであれば、せめて第三者委員会では覆せないぐらいの客観的な証拠を複数提示するぐらいの状況でなければなりませんが、伝わってくる限りでは、結果から推測されるものであったり、限りなくそう思われるという程度のものに過ぎません。

 

当然、棋士にのみ公開されている情報もあるので、全てを知りえているわけではありませんが、ただ、その情報を用いても結果的に第三者委員会としては黒とは断定しないと結論付けているわけで、その結果としてプロセスの杜撰さ、言い換えれば、なぜ第三者委員会が黒といえないようなものを、異例の形で認めるようなプロセスを踏んだのか、何度も言いますが、剥奪する前に、第三者委員会の設置と検証をすべきであって、それ以外のなにものでもありません。

 

先日、ドルトムントのバスが爆破されるという事件がありました。

私はあれをリアルタイムで追っていたのですが、あのCLの開催日の設定でも思いましたが、その結果を誰が望んでいるのかと。

選手が不安定な状態で戦う事に何が意味があったのかとも思うし、その結果、サッカー界に残るのは金が最優先であるという結論でしかありません。

 

竜王戦についても止むを得なかったという意見もありますが、私は、棋士にとって最高峰である竜王戦の対極という真剣勝負の場を、不正という棋士にとってもっとも不名誉な形で権利を剥奪するというのは、まさに選手やファンの気持ちを置き去りにした運営の怠慢でしかなかったと思います。

 

事実、対戦相手の丸山棋士は「日本将棋連盟の決定には個人的には賛成しかねますが」という意見を述べるという異例の事態になっていました。

 

当然、組織としての問題という一面もあったと思います。

なぜ、一部の棋士の一部の意見のみでここまで杜撰なプロセスでこれだけの事を進めてしまったのか。

連盟とは特定棋士の私物化したものではないのか、もっと言えば、不正疑惑すら連盟の派閥争いに利用するのか、という疑念すら沸く状況です。

 

また、棋士であったからこそ不正が許せないという気持ちはわかります。

が、棋士であるからこそ、その不正という行為を告発するのであれば、慎重な判断、適切なプロセスが必要であって、それは自分にとって万全であればよいわけではなく、連盟という組織全体にとって、少なくとも、連盟の多くの棋士にとって納得がいくかたちのものでなければならず、それが結果的に軽んじられたのであれば、それはどんな理由であれ仕方なかった、というレベルでは済まされません。

 

例え疑念をもったとしても、それを疑念であるうちは、断定できるまではそれは結局はただの疑念であり、個人の意見、一部の棋士の意見であるに過ぎず、であればそれこそ臨時の会合を開き、一部の理事や棋士が勝手に判断するのではなく、ちゃんとそういった疑念があり検討しなければならないことを明らかにし、最初から第三者を踏まえて行うべきだったのです。

 

正直、今回の一件は、関係者が違えばおそらく違った結果であったと思います。

不幸、偶然、過去のやり取り、派閥、いろいろなものが絡んでのこの結果です。

 

ただ、それであっても、やはり組織として一つの結論がでた以上は、組織に属するのであれば、やはりその方針と結論に対して、本心は別としても沿った対応をすべきであって、それ以外に連盟にも、連盟に所属する棋士にも現状は選択肢はありません。

 

ともあれ、記者会見も開かれ、三浦棋士自身の口から、それ以上に表情からみてもこれで終わりであるという事が良くわかる記者会見であったと思います。

 

当然、万人にとってこの結果が納得いくものでない事はわかります。

ただ、それを蒸し返すというのは、おそらくはサプライズであったという渡辺棋士の謝罪すら無にする行為でもあるので、僕はこれはこれで議論は終わりであるとの考えです。

 

不満、情報不足、怠慢、杜撰さ、どこをとっても、誰にとっても非常に不満足で最低なやり取りではありました。

当事者にとっても、関係者にとってもです。

 

が、であっても終わりです。

 

個人的には、次、三浦棋士と渡辺棋士が直接戦う事があったとき、この事件について話題が先行せず、一つの対極として扱われ、平穏な環境が戻る事を願います。

 

渡辺棋士にとっても辛い時期ではあったと思いますし、それは間違いないことだと思います。

 

だからこそ、これで綺麗に手打ちとして終わりにし、関係者、ファン、全ての人が将棋というものでのみ話せる環境にもどっていただければと、一ファンとして切に願います。

実にはてならしいやり取りだけど中身は結構深刻な話

 

TwitterとMastodonで書き込みを同期する最悪なサービス - ゆっくりしてない

なんだろうな。本題の話の意図が理解できないと言う人がわざわざ絡む意味がわからんし、そもそもお前らこの問題はマストドンの成長上結構ガンになる話なんだぞ?こういう話と向き合えない人はお帰り願う話ではないの

2017/05/12 12:12

 

マジ激おこですよね。

 

まず、ブコメは本当にどうしようもないコメントなんだけど、記事の作り方としては確かに微妙ではある(人の事は私もいえませんが・・・)。

が、まぁはてなの面白い所はそれでも読むという所が非常に味わい深い。

 

まぁ、大半の人はマストドンなんかやってないので、ヘイトを吐き出すためだけのブコメなんだけど、そこははてなの文化なので個人的にはどうでもいいです。

むしろ平常運転で平和な日本に生まれてよかったと思います。

 

で、記事中の話は結構深刻で、同期するサービスは私の周りでも速攻で作った人がいたけど、速攻で否定したんだよね。

 

理由は単純で、そもそもマストドンTwitterと同期する意味を考えるべきで、そこに意味があるのかと。

さらに言えば、記事でも(別記事の方が読みやすいのでそちら参照)言及しているように、仕組みの違いにより起こる問題があるわけですが、少なくともそのサービスのファンとしてツールやサービスを作るのであれば、その仕組みについてはちゃんと考えて作らないと、元のサービス自体を腐らせるガンにしかならない。

 

ある人にとっては「あー、マストドンはおわっちゃったねー」でも良いかもしれないが、当然そこに期待やまじめに向き合っている人もいるので、自分が成長を期待する人間であるならば、やっぱり作り手としてはそこはちゃんと考えて関わらないとだめ。

 

とはいえ、そこを何も考えない人が勝手にどんどん作ってしまうので、逆を言えば、そこまで考えたサービスを作る事で悪貨を駆逐する事もカウンターとしては有り。

 

そんな話をしました。

 

こんなことを書いたり、話したりしている私ですが、私自身は当初から一貫して「おもしろいサービスはあるが、サービスとしては(一般に広く普及するという形での)成功はしない」と断言しております。

 

ただ、一般受けしない=失敗ではありませんからね。

 

マストドンにはいろいろとマストドンとしての良い点があります。

一応建前上はTwitterの代替という表現がありますが、僕はそれも一つの可能性に過ぎなくて、もっと別な可能性、つまり併存もあるし、統合もあるのだろうなと考えています。

 

TwitterにはTwitterの良さがあって、マストドンにはマストドンの良さがあって、両方受け入れられる人もいれば、どちらかしか受け入れられない人もいるので、これは結局、「普及した」という結論でしか図れません。

 

ただ、普及する為には様々な課題を乗り越えなければならないのですが、その一つがこういった問題なんだろうとは思います。

 

逆を言えば、こういった問題をコアなファンが一つ一つ可視化し、議論の土台に乗せ、様々な視点で議論し、結果としてマストドンとしてはどうあるべきか(Twitterでどうあるべきかは、それはTwitterユーザーが考えるべき話なので)の答えを出し、それを文化として(場合に寄ってはインスタンス毎の文化として)積み上げるしかないのだろうとは思います。

 

そういった意味で、こういった意見は、書き慣れていない人がかけば、読みづらい、分かり難い、ブログ向いてないという意見も多分に指摘されるのだと思いますが、そういった事は気にせず、まずは気づいた人が可視化する事が大事です。

 

どんな形であればまずは問題提起し可視化する事で、インターネットというところは、それこそTwitterマストドンのようなツールを使い、話が拡散され、課題として認知されることで、次はそれをより理解しやすい形に変換し発信してくれる人が現れます。

 

なので、気にすることなくどんどん発信すれば良いでしょう。

 

所詮は個人のブログは個人の殴り書き程度のであり、雑記です。

文字が汚い人がいたり、言葉遣いが悪い人がいるように、それらの表層的な事は、実際のところ中身の価値は関係ありません。

 

ただ、文字が綺麗であったり、言葉遣いが適切であるほうが、相手に伝わりやすい、正しく伝わるという利点もありますので、何かしらのツールで誰かに伝えるときは、多少は配慮してもよいとは思います。

 

が、それは書く事が前提で、文字が汚いから書かない、言葉遣いが悪いから話さないという選択はすべきではないでしょう。

 

敬語が使えない若手の意見でも、妥当な意見であったり、有益な意見であれば聞き手がその意図を理解すればいいだけの事ですからね。

 

繰り返しますが、僕はマストドンは残念ながら一般層への普及は難しいと思っていますので、マストドンファンの敵かもしれませんが、マストドンというサービスが進む過程を眺める事は技術者として好きですので、そんな身勝手な人間の戯言だと思って頂ければと思います。

1度目でも10度目でも同じでしょ?

 

何度産休したらクビに出来るの?

よくわからんが、いきなり明日から産休入るわけではないよね?数ヶ月は準備期間あると思うんだけど?その時間で準備できないのはなぜ?そんな高度で複雑な業務を余剰人員無しでやってるほど貴方の職場は過酷なのか?

2017/05/11 10:09

 

実に味わいぶかい。

 

釣り針にしても下手過ぎるので、本音じゃないかと思わなくもない。

 

で、そもそもこの手の意見には大きな疑問が湧くんですが、通常の職場で1度目の引き継ぎと、2度目、4度目、10度目の引き継ぎの負担の割合って変わるんだろうか。

 

大抵の場合、出産後は育児にあわせた仕事量になっている事が多いのだけど、まぁそれも1年〜3年程度で終わると。

で、仮に3年後に通常のシフトでフルタイムでバリバリに残業どんとこいで働いていたとして、その人が仮に出産するとなったとして、3年に1度の引き継ぎなんて職場によっては普通よね?

 

いや、1年毎に出産してるんです!と言った場合、そもそも子供が生まれて1年間なんて大変な時期であって、その人に引き継ぎが困難な仕事を受け持たせているのは、流石にハードルが高いと思うけど。

確かに、昨今では女性の立場からしても、出産して育児中だとはいえ私は単純労働をするような人間ではないのだ!という意見はあるので、産後の職場復帰においても、そういった配慮が違う意味で行われて、復帰前の仕事に戻すという事も取り組まれていますね。

 

という前提で考えたとして、それは確かに毎年だと大変ではあるものの、それでも大丈夫じゃない?

 

だって、出産するとなっても、そもそもいきなり明日生んでくる!っていってないよね?

 

最低でも3ヶ月から半年程度は引き継ぎ期間とれると思うんだけど、その時間で引き継ぎが大変って、どんな職場だろうか。

 

そもそも仕事は、出産に限らず、あす僕が事故死する可能性もあるよね。

だとすると、全ての業務を並列化する事は合理性に欠くとしても、僕がどんなことをどんなサイクルでやっているのか程度の全体像は仕事として会社側が理解する必要はある。

 

で、当然世の中そんなホワイトな職場ばかりではないのが実情ですから、途方もない分量の仕事をスタンドアロンでこなしているとしますよね。

 

で?

 

 

それは出産の問題ではなくて、職場の労働環境の問題じゃないの?

 

その問題が、出産というイベントにより可視化されただけでしょ。

 

あなたが今やるべき事は、そういった問題を抱えている職場、または、もしかすると貴方自身のダメな仕事の仕方であったり、もしくは育児中の同僚がこなせている仕事を引き継げないというなら、貴方自身のスキルを上げる事も必要なんじゃないの?

 

むしろ4回も出産による引き継ぎできたんだったら、もっと環境や対応が改善されているべきで、改善してもダメならもっと改善が必要なんだよ。

改善されないなら、それは結局職場の問題。

 

もし出産を否定できるとすれば、いきなり「ごめん、明日出産予定日でその後産休入るね」といった場合だけだよ。

流石にそれは僕も辛いね。

 

それ以外は例えば事故にあって入院した同僚がいて、その人にむかって「なんでおまえ事故にあったんだよ!自己管理できていない証拠だよ!」と言えるなら言っとけばいいんじゃないでしょうか。

 

何れにせよ、出産の問題ではなくて環境の問題だよ。

id:ken530000 氏へのご返事

FUNDINNOで口座開設を否決されました - 何気ない記録

リスクが大きいとはっきり書いてますし、「実際出資するかどうかは慎重に考えたい」とも元記事中で書いているわけですが・・・ろくに読まずに言及するのもいかがなものかと

2017/05/02 11:07


コメントありがとうございます。

 

冒頭に「それほどよんでない。」と書いていますが、全部ちゃんと読んでますよ。

「それほどよんでない。」の意図は、僕にとっては読んだ結果、(私にとっては)それほど中身がなかったという期待と得た情報のギャップに起因する表現であり、その点が「読みもせず言及するんじゃねーよ」という誤解を招いたのであればお詫びします。

 

ただ、こう言った記事(貴方の書かれた記事であったり)は、そもそも個人の第一印象が書かれている事が多いですので、タイトルから興味をもって読んだなら中身は薄い記事だったとしても、まぁそれは仕方ないと、が、それに言及したいときはその気持ちをどこにぶつけて良いかわからない点(つまり、タイトルから生まれた興味や関心を消化できないもやもや感)を可能な限り詰め込んで「それほどよんでない」という感じの表現にしています。

 

個人のブログですからね、いちいち全ての記事に途方もない熱量を込めて書くなんて現実的に無理ですし、私の記事も文字数のわりに薄っぺらいですし、それ以上に、ブログなんて自由に書きたいですからね。

 

良いものはよいと感じましたと書かれるのは自由ですから、それを「中身の薄っぺらい記事を書くな!」なんていちいち煽るのは世知辛い気もするんですよね。

 

なので、それほどあおらない程度に私の気持ちを多くの記事では冒頭に「よんだ」「よんでない」「それほどよんでない」など、実際には読んでいても、例えば読むほどでもなかった、という意味を遠回しに表現する為に記載しています。

 

もっとも、もうこうやって書いてしまったので、今後どう表現するか一度考えねばなりませんが・・・。

 

その点は私のマイルールであって、読み手にはわかりようもない事ですから、誤解を招いたのであればお詫びします。

 

その他「読んでいるのにこんな書き方するんじゃねーよ」というご意見は引き続き受付いたしますので、何かあればご自由にコメントいただければと思います。

 

なお、「実際出資するかどうかは慎重に考えたい」という意見ですが、貴方自身に対する意見だけでいえば確かにそうでしょう。

ただ、私はどちらかというと貴方と同様にFUNDINNOを利用したい人がいた際、もしも上場益を目的として投資を行うという事であれば、それは夢としても中々難しいものですよ、という意見をそれら全ての方に対して発信したつもりです。

 

それ自体は、貴方が「このサービスいいよね!」と感じたことと同じで、私も「いいねと感じるものの、同じだけ不安もあるよね」という事を意見したに過ぎないつもりです。

 

その言及が貴方の記事を切っ掛けにして行われた事について不満であると言われると、大変申し訳なく思いますが、それをもって「みんな肯定意見以外は禁止!」とするのはちょっとどうかなと思います。

 

私の記事にも「文字の割に中身ねーじゃねーか」と、偶にしかないブコメで言及されて、それこそ辛い日も(偶に、年に1回ぐらい、それぐらい言及はありませんので・・・)ありましたが、それ自体については私は受け入れています。

 

だからといって、貴方のそれを受け入れろ!というつもりはありませんが、そういうのが僕の中ではインターネットだと思うんですよ。

 

そんな感じです。

 

FUNDINNOで口座開設を否決されました

 

株式投資型クラウドファンディングって何?リスクやリターンは? - 私の戦闘力は53万マイクロです

ちなみに私はこの会社のこのサービスでの口座開設は否決されましたよ。今までそういった対応は基本なかったので微妙ですね。まぁ、否決の理由は当然わかりませんが、金融関係者には見せられないという事ですかねぇ。

2017/05/02 09:42

 

それほどよんでない。

 

金融事業に関わっている影響であったり新興サービス系ですと場合により同業という事でまれに確認が入る事はあるものの、問答無用で即時否決されたのはFUNDINNOが初めてでしたね(笑)。

 

一応私自身はそういったサービスの紹介(このブログではありませんが)であったり、インフルエンサー的な事もやっているので実情を知りたいという興味はあったのですが、それ以前に門前払いでした。

 

内部的な契約や実際のリターンに関する詳細が読めないので、投資系ブログでは触れられない(投資系のブログでは基本マイナスの話はそれほど人気がないので)為、折角なのでコチラで弄っておきます。

 

まず、上場益を狙うという話については、基本無理でしょう。

発行株式の内容の詳細がわかりませんが、資金をベンチャーキャピタルから調達せず自前資金で運用が難しい状況の中で上場までこぎ着けるというのはかなり至難の業です。

 

そもそもベンチャーキャピタルが行っている事は、当然資金の提供もあるのですが、それ自体が呼び水となり、追加の出資の手配であったり、事業が拡大、安定させる為に必要なリソースへのアクセスであったりと、上場に至るまで、例えば財務面だけに限定してもそれなりに支援・助言を受ける事となります。

 

逆にいうと、ベンチャーキャピタルが出資を引き受ける場合は、同業他社のお手つきの状況や借り入れ、株式の発行状況なども勘案されますので、この手の事業で複数の株主が既に存在する状況下で大口の出資をしてくれるとは思えませんので、一度この手の方法で資金を集めると、おそらくはよほどな優良事業でないかぎりはもうベンチャーキャピタルからの出資を集める事は難しいのではないかと思います。

 

もっとも、資金的に余裕があれば特にそういったものについても全て自前で行ったり、また、逆に経験が豊富な経営陣や事務方を抱えている場合も、そういった支援なく自己の力のみで上場まで進める事はできなくありませんが、逆に、経験していればしているほど、そもそも上場前に環境を整える意味でもそれなりの条件で資金を集め、整えた状態で上場手続きにはいる事を選びます。

 

当然、1000万程度の出資ですので余程現時点で有力な事業でないかぎりはベンチャーキャピタルからの支援は受けられないでしょうが、言い換えると、ベンチャーキャピタルでなくそれ以外を選択しているという事は、つまりは多くの場合でそういう事だと考えるべきです。

 

未公開株の話でもありましたが、基本的に我々の界隈でもうまい話は回ってきますが、多くの場合、それは誰かにとってうまい話であって、その利益をある人が受け取る為にだれか犠牲になる人が必要で、多くの投資話はリスクの引き受けを喜んでしてくれる人を探しているわけです。

 

また、ベンチャーキャピタルのイグジットについても上場益による手段ばかりをイメージしがちですが、そもそも上場による手段で利益を受け取るケースはおそらく全体でも1割にも見たいない案件であると思いますよ。

 

さらに言えば、あくまでも個人的な意見としては、株式の発行による資金の調達は素人目にはよい手段のように思えますが、一度株式の発行による手段で資金を調達した場合、発行方法にもよるものの、基本的には煩わしい手続きや、その後の資金調達にも影響するのでよほどの事がないかぎりおいそれとは選びません。

 

もっといえば、上場にいたる為には、そもそもその投資により構築される事業が収益性が高く、継続的な成長が見込める必要があります。

短期的に収益が確保できる場合は、そもそも株式の発行ではなく借り入れによる方法の方が煩わしさがないわけですが、その手段を選ばない(選べない)という事は、それなりに事情があるという事ですからその点からみても短期的に上場に結びつく可能性は非常に低いでしょう。

 

今回でいえば国際特許の取得費用云々がありますが、そもそも国際特許の取得についてはおおよそ半分程度の費用は補助を受けられますし、雇用の創出も見込める場合、低利での借り入れも可能です。

ですので、資金使途の一つである費用部分はそもそもこの手段で集める必要はなかったわけですが、素人目には国際特許の出願というのはなんかすごく可能性があるように見えますからね。

 

何れにせよ、仮に上場による回収を見込んだとしても少なくとも数年のお付き合いは当然ですからまぁ、3年〜5年程度で結果がでてくれればまぁ良い方ではないでしょうか。

一番きついのは、次から次に株式による方法で資金を調達したあげく、利益があがらない状況におちいると、もはや事業を継続する事も、たたむ事も難しくなるので解散すら選択できなくなる点です。

 

大口であれば事業を売却させるなどで回収も可能ですが、小粒での出資となると事実上経営への関与は不可能ですので、そういった点もよほど緻密に契約上保護されていないと、大口の事情に振り回される事になるでしょう。

 

という感じで、基本的には投資目的の人は宝くじを買うようなもので、投資というよりはベンチャーに対して無償投資をするようなものであると考えるべきです。

 

当然、可能性はゼロではありませんが、まぁ、限りなくゼロに近い、ゼロではない割合というのが事実ではないかと思います。

 

内部的な契約の立て付けや詳細を確認できれば投資する側へのメリットも紹介できたのですが、残念ながら否決されてしまったので、外から見る感じの違和感のみお伝えする感じですかね。

 

やっぱり投資関連のサービスは詳細がわからないとどうしてもマイナス面しかかけないですね。

 

むしろあれだけしか情報がない中でポジティブな記事が書けることが本当にうらやましいです。

 

今年は私ももう少し盛った記事が書けるように頑張ってみたいなと思います。

 

定義を否定すると議論は成立しない

 

傑作かどうかを周りの評価で判断する愚かしさ - orangestarの雑記

いやこれはちょっと批判しすぎでしょ。傑作の定義に売り上げや絶対的な評価を含めている場合という話で、結局いっている根っこのところは同じだよ。この記事だって、別な人の定義では批判の対象なわけで。落ち着けよ

2017/04/27 05:52

 

よんだ。

 

まず、前提として作品の価値は結局のところ視聴者、読者など受け手一人ひとりが絶対的に持つものであって、自分以外の評価や、作品に対する市場を通した相対的な評価など意味はありませんし、私は興味もありません。

 

ただ、その意見を是とするためには、言い換えると自分以外の意見についても、例えば表現のまずさや、言葉の間違いについてはやり取りや意見の交換はあるものの、それをのぞくと、そういった異なる評価、感想についても基本は受け入れることが求められます。

 

私自身、これはなかなか難しいことで、実際に別な方の感想について、その部分は違うんじゃないのか?という意見もしたことがあるのですが、それも、意見の範囲としては作品の解釈自体ではなく、作品の意味であったり、それの持つ意味のような部分に限定しているつもりです。

もっとも、意見することの多くは、作品というよりは、作品論や監督や製作に関する認識の部分のほうがおおいですが。

 

さて、本題に戻すと、これは元記事も含め、双方の考え方の問題なので、周りの批評を気にしない、ということであれば双方の意見が是とされなければやはりいけません。

 

もっとも、そもそも元記事が id:orangestar 氏の作品に関するお話についての意見であった部分もあるので、その応酬になっている感もありますが、もしもその方向性であれば、価値観の持ち方や批評の仕方という部分での反論ではなく、あくまでも作品の感想についての解釈についての議論とすべきでしょう。

 

というのも、記事中でもご自身が触れているように、価値というのは結局その人本人が自分の尺度で決めるもので、他人の尺度や定義などまったくもって無意味ですし、聞き入れる余地はありません。

 

結局、「私はこうおもった」、ということが全てで、せいぜい反論すべきは「あの監督は」みたいな、お前は監督のことをそんなにしっとるんかい、みたいな、作品から受け手が勝手に定義した監督像のような批評を軸としている部分程度で、それ以外、極論いえば、作画崩壊のようなものであっても、私は別にそれはそれで言いと思うし、まぁ、話の腰が折れていなければいいんじゃないの?としか思いません。

 

結局、この両者の記事は、どちらも私はこういった定義で作品を評価しました。

私はあなたのこの評価については同意しません。という内容の応酬にすぎなくて、個人的にはどちらも同意、批判すべきものでもないのかなと。

どちらかを是とするなら、それこそ、作品の評価の基準に絶対的なものを持ち込むことになりますからね。

 

周囲の人間としてできることは、私はこっちの感想にどういだなぁ、程度の話で、作品の感想自体や感想の評価方法自体については踏み込むのは御法度であるとの認識です。

 

ただ、あえてこれを記事にしたのは、この記事では、作品の感想ではなく、作品の感想の定義方法に反論しており、それはつまり、あなたのものの考え方はまちがっている、だから私の感想と異なるんだ、という領域の一歩手前まできていると感じたからです。

 

当然、文中でもそういった事を直接は書いていませんが、ただ、文章全体から感じることは、結局、お前の定義は間違っている、といっているわけで、それって人それぞれの価値観や価値観に基づく定義を否定するってことだと思うんですよ。

 

なんとなく、それはこの記事がいわんとする事と完全に相反することになっていて、個人的には、この文章を読んで、この記事を賞賛するってのはなんか矛盾してないか?と思うわけです。

 

全般的には同意ですよ。

価値観に介入する余地などないわけで。

 

でも、だからこそ、誰かの価値観のありように否定をしてはならんのではないの?という矛盾がうまれるんですよ。

 

なかなか最近だと珍しいやり取りなんですが、個人的にはこういった流れは古きよきはてな(悪い意味でも、良い意味でも)なエントリーだなぁと思いつつ、ちょっと触れてみました。