何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

はぁちゅう氏と考えるハラスメントの線引き

 

はぁちゅう氏が書いている事は、結論として今回の騒動の原因を理解できていないのでこういった方向の発言になっていると思います。

先日の謝罪に批判的な意見を述べた方の多くの突っ込み内容とこの意見の集約結果は同じものですね。

 

ご自身が認識しているように、今はまだわからないのだと思います。

ですので、少し私も考えてみたいと思います。

 

なお、以下の文章では意図的に性的な属性を男女に限定しているなど特定のケースに焦点をあてている点ご容赦ください。

 

例えば、私がある人に「肌とっても白いね」と言ったとします。 

これはハラスメントでしょうか?

 

では同様に「肌とっても黒いね」と言ったらこれはハラスメントでしょうか?

 

少し変えてみます。

私が部署の女性に「○○さんの肌はとっても白いね」といったらこれはハラスメントでしょうか?

 

同様に「○○さんの肌はとっても黒いね」といったらこれはハラスメントでしょうか?

 

まず、1つの「肌とっても白いね」はおそらくそれほど騒動にはならないでしょう。但し、相手が黒人の方や、発言者が白人でそれ以外の人に向けた発言でなければ。

 

次に2つめの「肌とっても黒いね」といった場合、相手が黒人の方に向けて発した場合は、限りなくハラスメントとして解釈される可能がありますね。

 

ところで、そもそも白人の方の肌が白いのは当たり前ですし、黒人の方の肌が黒い事は当然で何もおかしくありません、どちらも当然のことなのになぜハラスメントなのでしょうか?

 

前提として、こういった場合はその言葉が意図する事、つまり社会がその言葉や表現をどのように解釈するのか?という所がポイントとなります。

歴史的に見ても「黒い」という表現を意図的に悪意をもって使っている事があります。

例えば「ブラック企業」というのは、少なくとも好意的な表現ではなく、所謂従業員を酷使する企業や悪質な就労環境の企業を指すモノです。

これに限らず、明確に差別の意図は無くとも「黒い」や「ブラック」という表現が、社会的に「悪い」「劣る」「劣悪」のようなイメージで語られることがあります(ありました/今は差別用語としてだいぶ認識され言葉の定義の変更が随時行われています)。

 

その為、「黒い」という言葉を使う場合、使う場面であったり聞き手と話し手がその意図をずれる事なく理解できていない場合は少なくとも聞き手や周囲の人間にはハラスメントとして誤認される場合もあります。

 

では「○○さんの肌はとっても白いね」や「○○さんの肌はとっても黒いね」はどうでしょうか。

これはどちらもハラスメントとなる可能性が高いです。

当然、シチュエーションと聞き手と話し手の関係にもよりますが、前提として職場の女性に向けてという事にしていますので、これはセクハラとして訴えられるケースは否定できません。

 

そもそも、仕事の関係において肌の色は問題とはなりません。仮に外見上制約のある仕事であった場合も、採用の制限として肌の色を規定する事自体が問題です。

例外としてあげるならば、例えば俳優や女優が撮影期間中に休暇をとり、肌を焼いてしまった場合などは仕事に支障がでますので、そういったケースであれば許容されるでしょうが、そういった事情も無いときに、肌の色を話題にするというのは非常に危険です。

 

では「○○さんの肌はとっても白いね」であってもなぜダメなのでしょうか?

前述のとおり、話し手である自分と聞き手である相手(女性)の間で、話すべき事情(ここでは仕事)において、「肌の色」は本来不要な話題です。

当然人と人が関係を持つ上で、仕事とはいえ、業務に関係のない話しを一切しないという事はありませんので、それだけでは「肌の色」の話題がハラスメントになるわけではありません。

但し、社会的に男性が女性に向けて「肌の色」の話しを振るというのは、これは外見についての話題をするという事であり、外見=容姿についての話題を異性にふるということになるわけで、その結果、場合によってはハラスメントとなるわけですね。

わかりやすく言えば「○○さんはとってもかわいいね」と言うことと、「○○さんの肌はとっても白いね」という事に話しの目的としての違いはありませんし、さらに踏み込むと「○○さんのおっぱいはとっても大きいね」という言葉と受け手によっては同じ話題として受け取られかねません(かなり極論ですが・・・)。

 

当然、「肌が白い」という言葉を褒め言葉として使うケースもあります。

それでもハラスメントとなる理由は上記のように「それが容姿に関する話題」である為、聞き手と話し手の関係によってはハラスメントになるというわけです。

 

ハラスメントとは、自分の意図する言葉の意味で判断されるものではありません。

社会的にその言葉やその言葉の使われる状況や、多くの方がどのように考えているのかという社会的に共有される意味や目的によって評価されます。

 

では「おっぱい」という言葉を連呼している場合はどうでしょうか。

まず「おっぱい」という言葉は、性的な意味でも使われますし、一方でそうでない場合にも使われます。

ただ「黒い」という言葉の目的と同じく、少なくとも性的な意味が含まれるケースが少なくないというのもありますので、言葉自体は使用する場合に注意が必要です。

はぁちゅう氏は「おっぱい」という単語について思考されていますが、ハラスメントとして単語のみで成立させるのは、かなり状況が限定されます。

ただ、はぁちゅう氏の「嫌」という意見は、少なくとも事実でありそう感じるという事には私も理解できますし、はぁちゅう氏に限らず女性が「おっぱい」という言葉に男性とは異なる意見を持つ事は当然だと思います。

ただ、前述のとおり「おっぱい」自体は実はただの部位の名称に過ぎませんので、その言葉がどのような目的で、例えばどのような流れで発せられたのかがある程度特定されないとなかなかハラスメントとして取り扱う事は難しいでしょう。

 

例えば「童貞」という言葉ですが、はぁちゅう氏がただ一言「童貞」とひたすらつぶやいていたのであればそれ自体はハラスメントとしてクレームをつける事はなかなか難しいでしょう。

なぜなら「童貞」とは造語でもなんでもなく、一般的に存在する言葉であるからです。

一方で、誰か特定のフォロワーに「童貞」とだけ書かれたメッセージを毎日おくりつけるような事をすれば、これはハラスメントになるでしょう。

さらに考えると「童貞って最高だよね!」と言った場合、これは受け手に誤解されればよりハラスメントと解釈される可能性は高くなります。

 

基本的に、異性間では同性間のコミュニケーションとは異なり、様々な点でハラスメントとして解釈されてしまう恐れがあります。

 

当然、「異性間では」という前提に限られません。あくまでもそのケースでは同性間よりもよりそう解釈される可能性が高いというだけであって、同性間でも普通にハラスメントとなる場合もありますね。

 

例えば女性が女性に向けて「おっぱい大きいよね!うらやましい!」と言った場合は多くのケースでハラスメントとはならないでしょうが、男性が女性に向けて「おっぱい大きいよね!うらやましい!」と言った場合は大抵アウトです。

これは、言葉の解釈が同性間と異性間では受け取られ方や使われる目的が一般的には異なる為です。

 

つまり「黒い」や「ブラック」と同じで、社会的に「童貞」という言葉にそれほどポジティブな意味が少なくとも広くは浸透していないと思われる事もあり、その点を考えても女性が男性に対して「童貞って最高だよね!」という言葉を送りつけた場合、それが嫌みや差別でないとするのは難しいでしょう。

特に、はぁちゅう氏自身は「童貞は欠陥だから」という主旨の発言もしていたので、さすがに「褒め言葉として」というのは難しいものがあります。

 

このように「童貞」という言葉をつかった表現は、少なくとも異性間で使う場合は、細心の注意を払わないと、つまり場所や関係性が特定されない限りはハラスメントとして認識される可能性が高いでしょう。

同様に「おっぱい」という言葉についても、「童貞」どうようにどのようなメッセージとして誰に送ったかという内容次第ではハラスメントとして解釈されるでしょう。

 

ネットでは「貴方に向けていったわけではない」という意見もあるり、見に来た側が悪いという意見も少なくなく、それはそれでそのような事をいいたくなる気持ちはわかります。

が、それはネットビジネスに関わらない人であれば多少はその言い訳も通じますが、ブロガーやメディアの人間、少なくとも仕事や公の手段としてその場(TwitterFacebook等の手段)を利用している人が、公開メッセージをプライベートな関係の人間との会話ですというのは難しいものがあります。

 

また、ハラスメント行為や差別というものは、公にならなければ問題ではない、というものではありません。

 

例えば、政治家の不謹慎な発言というのは、公になった事が問題なのではなく、そのような考えを持っている事自体が問題なのです。

 

彼らも冗談で言っていることもあるでしょうし、その場の勢いで言ってしまったというものもあるでしょうが「雰囲気」という言葉や「身内」という言葉だけで許されるような時代ではありません。

そのような発言が出てしまうという事は、自分の内側でそういった事について何かしらの差別意識を持っているという事を疑わなければなりません。

 

線引きが曖昧であるというのは事実で、私もその意見には同意します。

 

が、ネットは特別、という意見は持っておらず、ネットで差別と解釈される表現をしているという事は、誤認であったとしても町中で多くの人が聞いている前でその言葉やメッセージを発信している事と基本は同じです。

 

むしろネットは駅前で叫ぶよりもより多くの方に言葉を届けます。

勘違いしてはいけないのは、ネットの方が多種多様な価値観、人々にその言葉が届くという事です。

 

駅前であれば、時間帯、駅、出口の選択、発言のタイミング、声の大きさなどで伝えるべき相手をコントロールする事ができます。

 

ですが、ネットではそれができません。

 

基本的にはネットに向けて情報を発信するというのは、テレビ中継にのせてメッセージを発信するのと同じぐらい視聴者(聞き手)がいるという事です。

 

自身の発信力をビジネスに使うという事は、意図しない人へも自分のメッセージが届く可能性が高いという事ですので、その点はビジネスとしてネットを活用されるのであれば注意すべきポイントでもあると思います。

 

なお、それはフォローワーの数が多い、少ないという話しではありません。

ネット上にながされる情報とは、2次的な手段を用いて、自分の意思にそわずに勝手に拡散されます。

例えフォロワーが5人であっても、検索エンジンであったり、リツィートされる等の手段により、そのメッセージに触れる人はその数倍、数百倍と膨れ上がり、国さえこえて時には翻訳されて広く発信される事もあります。

 

ネットに情報を流すという事、ネットにメッセージを発信するという事は、誰にもコントロールはできず、聞き手も選別する事はできないという事を理解すれば、その言葉は誰かに誤解されることはないのかという少しだけ考えてから発信する事ができると思います。

 

ハラスメントの線引きは本当に難しく、会社の中でもAさんは許されてもBさんは許されないというなかなか悩ましい状況とも遭遇します。

こういったものも、今回はぁちゅう氏が「おっぱい」はいいのか?という意見と同じで、誰が誰に向けて発した言葉はNGとされるのか?という結局は聞き手/受け手次第の状況という非常に曖昧な線引きの象徴でもあると思います。

 

明確になるもの、明確にならないもの、人によって解釈が分かれるモノ、いろいろなモノがあるのが現状である点は気持ち悪さがありますが、それを理解して付き合うしかないのが現代の主流ですので、そこは止むを得ないと考えます。

 

私も社会や時代の変化に合わせて自分の考え方も変えていかなければならないと思っていますしね。

 

なお、上記は私の理解の範疇であって正しいものではありません、もしも「それはおかしいよね?」という意見があれば是非ご指摘いただければと思います。

セクハラの構造が議論されていないと揶揄する人自身がセクハラの構造を理解していない残念さ

 

セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄|深津 貴之 (fladdict)|note

はいこれね、一番ダメな奴です。"大企業のセクハラ体質や、それを隠蔽する構造にメスが入るはず"もうね、違うんだよ、だから日本のこう言った運動はおわってるんだよ。大企業や大きな組織だけの問題じゃねーんだよ。

 

 

おわってるなぁ。

 

まず、セクハラ問題と大企業の組織問題は基本別物です。

当然、構造としての欠陥があり、それがセクハラ、パワハラへ大きく影響しているのは事実ですが、それは一つの要因に過ぎません。

 

そもそも、組織が大きい=セクハラが多発しているわけでもありません。

 

あえて言うならば、組織が大きい=インパクトが大きい、程度の話しで、むしろ数や被害の程度のような「どうしようもないも」ので比較するというならば、大企業のそれよりも中小企業で起きている問題の方がよほど社会問題となるでしょう。

 

ただ、そもそもそれらを比較する事自体に意味はありません。

なぜならば、何れも個別の事案であり、どちらも等しく裁かれるべきですから。

 

私たちがセクハラ問題を議論するときに、組織の欠陥を議論するのは、あくまでもその一要因としてのみの議論です。

 

大組織の闇を暴く事にメディアや一部のブロガーは熱を帯びるかもしれませんが、それは本質ではありません。

 

当然、はぁちゅう氏個人としては、個としての岸氏、そして組織としての電通に対して嫌悪感や怒りがあり、それを問題として捉える事は自由ですが、それはセクハラ全般の議論ではなく、あくまでも個人の議論に過ぎません。

にも関わらず、いつの間にか、はぁちゅう氏の告発=セクハラ問題の本丸のような神輿を担ぎ、その神輿の為にはいかなる犠牲も問わないというのは、あまりにも横暴すぎるでしょう。

 

少なくともはぁちゅう氏の告発について意見している人は少数です。

何を読み間違えているのかわかりませんが、告発すべきでなかった、等という意見はわたしは見かけていませんよ?

ただ、それとは別に、告発者自身が加害者であったという事実が存在しており、それはそれで問題として提起されているに過ぎないだけで、告発をとがめる事など行われていません。

 

そもそも、根本の部分は、誰しもが持つ「私の発言・行動は問題ない」という安易な考えと、それを生みだす素地で、それは根っこの部分では、学生時代の虐めであったり、大人になっても職場、ママ友、地域などでのコミュニティ内でのハラスメント、場合によっては家庭内でのハラスメントなど、あらゆるところで日常的に起きている問題です。

 

それが生みだされる人間の思考ロジックそのものが、実は今回の「童貞」発言やその擁護意見であると私は思います。

 

「童貞」という言葉の捉え方は人によります。

それについて悩んでいる人もいるでしょう。

なぜ自分は童貞なのだろうか、童貞である自分は何か人より劣るのではないか、自分に欠陥があるのではないか、など、その事を悩む人にとってはその事を弄られる事自体が辛いでしょうね。

 

「童貞」なんて風俗に行けばいいんだよ!という意見を田端氏は述べました。この意見にはぁちゅう氏が同意するのかどうかはわかりませんが、私はそれは違うと思います。

風俗に行けば自分は童貞ではなくなって、そういったストレスから解消されるというなら、恐らくは童貞という状況に悩む事はないでしょう。

そういった短絡的な行動、結果としての脱童貞では精神的に解放されないという事が問題で、その結果として悩む人は一定数おり、男性では余りいませんが、女性の場合では「処女である事でいじめられる」というたったそれだけの理由で行きずりの相手と関係を持ってしまい、その後その行為に対するストレスで新たに悩みを抱える女性もいるんですよ。

 

男性に向けて発している言葉だから女性は問題ないだろ?と考えるかもしれません。

しかし、実はそういった勝手な解釈がそれぞれの個人の中の価値観として深いところで根付き、その結果が、岸氏がはぁちゅう氏に行った行為につながったと私は思います。

 

最初からセクハラを行う人間もいるでしょうが、おそらくは多くの人は、環境や境遇により、その行為が問題であるという事の正しい理解ができない状態に陥った結果に起こしているものと考えます。

 

つまりは、実はセクハラ問題の根幹とは、はぁちゅう氏が「私はそうは思っていない」という自分の考えを中心に受け手の気持ちを考えない行動そのものがセクハラ問題については原因の大部分ではないかと私は思うのです。

 

 

ことさら日本では、問題が起きるとそこに巨悪があり、その巨悪と戦う正義の味方のような構図を作りがちですが、そんなものはこのセクハラ問題の本質ではありません。

 

はぁちゅう氏が行った特定の属性に対する弄りというのは、所謂小学校などで「友達同士で行われるからかい」に近いものがあります。

本人達は友達同士のじゃれ合いとして楽しんでいるものの、その結果として学級、グループ内に自ずとネタを振る側、ネタにされる側の構図ができ、あるタイミングでそれが虐めとして定着します。

「からかっているつもりはない」それは本音かもしれません。ですが、受け手が自分の弱い部分を弄られ、それを目にしたときにどう思うでしょうか。

 

もしも貴方が「虐め」や「ハラスメント」が、恨みや怒りで生まれていると思うのであればそれは大きな誤りです。

 

大抵の場合、いじめる側、ハラスメントを行う側も最初は些細な行動や切っ掛けにより起こしているものです。

それが、組織やグループで自制されることなく、特に面白がってしまうことで、それ自体が問題であるという認識がなくなり、周りも盛り上がっている、楽しんでいる、相手にも利があるという誤認が強くなり、結果として「加害者」としての認識がないまま、行為はエスカレートします。

 

海外の「#meeto」についても、アレは個人が個人に対して訴えをしているものです。

当然、その背景にあるものも批判されていますが、それは要因の分析や改善としてのものであり、本質ではありません。

 

大企業の巨悪と戦うときに、粗末な問題でかき回すな、などというのは、完全に自分達の利己主義による妄想であり、それこそセクハラ・パワハラの本質が理解できていない証拠です。

 

はぁちゅう氏の行動は、あくまでもはぁちゅう氏が受けた被害について基本は個人間での争いがベースとなります。

その後、その土壌としての電通であったり、メディア業界であったりの問題(もっと踏み込むと「慣習」とも言えますが)も合わせて議論する事もあるでしょうが、前述のとおり、セクハラ・パワハラ電通が改善するだけでは意味はなく、それ自体はただ一つの事件の解決にしかなりません。

 

事実として、電通が残業問題で告発されたところで、世の中には腐るほど残業、過労を負っている人はおり、その人に焦点があたる事などありません。

 

私たちは「トランプ現象」という、まさに理解し辛い光景を目にしました。

 

あれは、そういった大きな所だけに焦点があたり、メディアやそれを取り巻く人間の安っぽいヒロイズムで市民の生活には何も寄与しない出来事ばかりが蔓延したことへの苛立ちの高まりから生まれたモノだと私は思います。

 

セクハラ問題も同様です。

はぁちゅう氏が受けた被害について議論され、適切な対応が行われる事は大切です。

ですが、その為に他の被害はどうでもいいなどと言うことはあってはなりませんし、それを言ってしまうのは完全に虐めやハラスメントが生まれる構図、所謂日本の上が「良いからオレが言っているとおりにやればいいんだよ!」というダメな構図の再構築でしかありません。

 

ネットとは都合のよい道具ではありません。

ネットメディアに関わる方に勘違いして欲しくないのですが、ネットの利点は、個と個が、つながり、いままで存在しなかった価値観を生みだす事にあると私は思います。

 

いままでテレビがただ一方的に発信していたもの、旧来のニュースがただメディアが調べた、メディアにとっての事実を発信していたものに対して、ネットというものは「我々に興味のあるものを、我々が選別し、そして我々が議論できる場」でもあります。

 

今までも、そしてこれからもそれは変わらず、それは都合の良いときはネットの良さ、つまりバズるような行動を期待し、あるときは旧来のメディアのような「都合の良い秩序」を求めるのであれば、そういった方は、新聞や雑誌のような旧来のメディアで活動すべきでしょう。

 

ネットとは、敵でも味方でもありません。

ただそこには、それぞれの個人がおり、貴方が発信したもの、貴方の意見、貴方の考えに、その都度リアクションを取ってくれる個人がいるだけです。

あるときは味方であり、あるときは敵であるかもしれません。

言葉の壁もあるかもしれませんし、認識のズレや小さなボタンの掛け違いにより対立してしまうこともあるでしょう。

 

でも、その小さな集まりがネットであり、その集まりを揺り動かしているのがネットメディアであるわけです。

 

極論言えば、良い、悪いですら一つの答えにはなりません。

 

ある人にとっては良い事もあれば、違う側面から見れば悪い事もあります。

 

その全てを飲み干して、意見が集約されるのがネットであるに過ぎません。

 

レインボーアイコン然り、日本は表面上の活動の「模倣」をする事が大好きです。

だから日本では本当の意味で大きな活動が育たないのです。

 

セクハラ・パワハラ問題は、ブームではありません。

 

それぞれ一つ一つの被害者がおり、それぞれが、それぞれの異なった形で問題を抱えているのです。

 

それから、業界の闇にメスを入れるためにそれ以外の闇に目を瞑れというのは私からすれば政府や権力者が行う横暴と何ら変わりません。

 

あなた方はそういった行動が正しいと本気で思っているでしょうか。

 

はぁちゅう氏の問題さえ、電通の体質、メディアの体質さえ是正されれば世の中は良くなるとでも考えているのでしょうか?

 

電通書類送検されれば、世の中からはブラック企業がなくなるとでも考えているのでしょうか?

 

私は、そういった思い上がり、つまりセクハラ問題を論じるなら私たちのこの問題が中心であるべきだ!という勝手な思い上がりに対して、ネットは「そうではない」という一つの意見を述べたものがこの逆風だったと思いますよ。

 

当然、その人達もはぁちゅう氏の告発自体は大半の人が否定はしていません。

むしろ、貴方たちが勝手に対立構造として問題視しているだけで、ネットは被害者としてのはぁちゅう氏と、加害者としてのはぁちゅう氏をそれぞれ見ています。

そこを冷静に切り分けができない人が、むしろはぁちゅう氏の周りに多すぎて、どんどん泥沼に追い込んでいるようにしか私には見えませんけどね。

 

本当に残念です。

そんな配慮はいらないし、意味が無い

 

〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。 - ヨッピーのブログ

それはダメ。リスクを背負って公表した、被害者であった、という事で全ての免罪符になるわけがないよ。当然、個々の事案で被害者である事実はかわらないが、同様に個々の事案で加害者である事実も決してかわらない。

 

「○○は嫌いだけど」云々の件については、あまり意味を理解できない(少なくとも、ボクサー云々で例えても的を得ていないと思う・・・)ので、スルーしますが、それ以前に記事中の以下の点はあまりにも誤認が過ぎると思う。

 

別に「被害者だから全て無罪」という事を言いたいわけではない。反論する機会、違うと思ったことを批判する権利は誰が相手であろうと保たれるべきだからだ。しかしながらタイミングが違うんじゃないですか、と思うわけです。今回の件で彼女が目立ち、彼女が視界に入ってきたからトラウマというか、文句のひとつも言ってみたくなる気持ちになることはわかる。まあわかるけど、それによって「お前の事は嫌いだけど」「お前の発言こそどうなんだ?」「自分の事を棚にあげて、よく他人の批判が出来るな」みたいな矢がバッスバス飛んでた。

 

勘違いしてはいけないのは、順序としては、公表が後、彼女の性的な話題で特定の属性を弄る表現が先なんですよ。

 

仰るように、もともと火の無かったところでこう話しがでてきた時に、突然過去の話題を掘り出してきて問題にするというケースは程度にも寄るけど「それ今重要なの?」というのはわかる。

 

が、彼女は、男性と女性という異性間のテーマの話題に何度も触れており、その都度、比較的特定の属性の人間を差別する発言を繰り返しているわけです。

で、比較的何度も炎上しているわけですが、本人は「これはハラスメントではない」という旨の発言で暖簾に腕押しだったわけですよ。

 

だとしても、その彼女が自分はハラスメント被害者であるというのは当然ですし、それ自体はなんの問題も当然ありません。

 

が、自分が過去にハラスメント行為ですよ、と指摘されたときには「受け手の問題」「私はそんな意図はないから問題ない」というような、言った側がハラスメントという意識がなければ問題ないという主張をしていたわけで、その人が「少なくとも私はハラスメントと感じた」という話しをすれば、その事実についてのその言葉を批判する事はなくても、彼女も自身の行動や発言には少なくとも同様の対応をすべきと言われるのは当然かと思いますよ。

 

別に聖人である必要も無いし、間違いや失敗、勘違いがあっても全然良いと思います。

 

ですが、同じテーマで、自分がされた場合と、自分が行った場合では違う事を仰れば、それは炎上します。

 

それも、別にそれ自体は「当時は受け手の気持ちがわからなかったです。ごめんなさい。」でいいと思うんですよ、それこそ「今回の公表と相手のリアクションを見て、言葉であっても自分を深く傷つけるものである事がわかりました」などとしてちゃんと謝罪すればそれで終わりだったと思うんです。

むしろ僕は、人間は完璧ではないからこそ、何かを切っ掛けに違う側面に気づき、その時に自分の失敗や間違いをちゃんと反省する人の方が信じられるし、応援したくなりますよ。

 

僕だって間違いは沢山あるし、失敗だって沢山ある。

恐らくは、僕が認識していない、僕の言葉に傷ついた人だって沢山いるだろうし、それはこれから先にも起きるのかもしれない。

だからこそ、そういった事は、気づいたとき、わかったときに都度謝罪するしかないし、それ以外に何も方法はないと思うんですよ。

 

それを受け入れない人もいるでしょうが、だからといって謝罪しないというのは違うし、受け入れるか受け入れないかは相手の問題であって僕が行動しない理由にはならないわけですからね。

 

でも彼女は今でも「そう感じる人もいるのでしょうね」というスタンスです。

 

もしも、事の大きい小さいであったり、リスクの背負い方の違いであったりで、このような問題の優先順位を論じるというならば、残念ながらこういった問題は無くなりません。

 

なぜならば、この問題の根底は途方もないような巨悪の存在ではなく、一人一人の本当に小さな思い込みや勘違い、身勝手な考えが積もって社会のダメな一面を形成しているものだからです。

 

だからこそ「ダメ」と気づいたとき、どれを論じるか、ではなく、それぞれにそれぞれの問題があり、その本質はなんなのか、その点をちゃんと見極めなければならないのです。

 

社会とは個人が集団となり形成されるものです。

セクハラは個人が起こすモノでありますが、基本的にはそれを生みだす文化が何かしらあるわけです。

そういった構図を利用するような人、そういった文化を悪用する人、そういった行為を傍観する人、それらをどうやってなくすかというのは、基本的には、一人一人がそいった事はダメだと認識し、そういった事がまかり通る組織、文化はダメだと理解し行動するところから変えていかなければならないのです。

 

ハラスメントは近年増えたわけではありません。

人間が経験を積み、社会が経験を積み、こう言った行為は良くない社会を作るよね、であったり、男性と女性は確かに違いはあるけどもそれは本質ではないよね、であったり、そういった社会が経験を積んで成長した結果として、今まで傍観・放置・容認されてしまっていたものが、社会として許さないというステージに徐々に上がってきているわけです。

言い換えれば、そういった社会のステージを一段上げるという行為を常に続けなければこういった行為は無くならず、ただ、ある事象を糾弾するだけではだめなんですよ。

 

確かに大きな問題と向き合う事も大事です。

社会的な影響、例えば法制度の整備などは、残念ながら小さな出来事の積み重ねよりも、大きな社会的に話題となった事象があるほうが取り上げられやすく、結果としてそれが社会を変える切っ掛けになるという事も否定はしません。

 

ですが、変える事が目的で手段は問わない、経過は問わないとしてしまえば、これは運動としても絶対に失敗におわります。

話しが進む、時間が進むほど、よりノイズが増え、所謂抵抗勢力となる人達が絶対にでてくるからです。

 

そういった環境になっても、運動を正しく進める為には、手段を問わない、経過は問わないではダメで、ちゃんとそういったモノとも向き合っていかなければ、揚げ足を取られておわってしまいます。

 

もしも彼女をそういった活動の一つの切っ掛けとして捉えるべきだというならば、だからこそ彼女はそういった事ともちゃんと向き合わないと、いつまでもこのような泥仕合が続きます。

 

誰だって過去には失敗や失言なんてものはあります。

言い換えれば、その事を謝罪してしまえばいいだけの事です。

 

順番が大事なわけでもありませんし、事の大きさ、影響度合いが大事なわけでもありません。

一人一人が気づいたときに気づいたところから変えていく、それが社会を一つ上のステージに上げる事につながって、次の被害者を出さない事になるわけです。

 

おおよそハラスメントを生まれてこの方絶対にしたことの無い人なんておそらくはいません。

小さいところではブラッドハラスメントであったり、現代では本当にあらゆるモノがハラスメントとして取り扱われています。

 

だからこそ、彼女の抱えるような、自己を中心とした問題というのは、別記事でも述べましたが曖昧にできず、まさに今日本抱える闇そのものなわけです。

 

誰しもが被害者であり加害者になる時代がなぜ生まれたのか、なぜなくならないのか、どうやって付き合っていくべきなのか。

 

それを考える上でも、彼女を中心とした問題は、ただ単なる「一人が受けたハラスメント事件」とするのではなく、「誰にでも起きうる、加害者と被害者という立場」としてちゃんと社会が付き合わなければならないと僕は思います。

 

短絡的な批判も、擁護もどっちも社会の為にはならない

 

はあちゅうの件 - 今日も得る物なしZ

まぁ、記事の通りでしょ。自身が被害者であることは自信が加害者となる事の免罪符にはならない。自身が被害者であったら、自身が加害者である事の免罪符とするロジックは基本いじめをする側や傍観者のロジックだよ。

ヨッピーさんのツイート: "電通のコメントなんかは残念極まりないし猛省して今後の対応をすべきだけど、電通とか広告業界関係なしにこういう話ってあちこちにゴロゴロ転がっているので

んー。このコメントを読んで電通擁護と捉えるのはちと無理筋。実際問題、電通以外の広告代理店、例えば某新興系もそうだけどどこもかしこも酷いので、現実として社会問題として洗い出さないと全くもってだめな話だろ

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別に品行方正に生きる必要はない。が、被害者として心を痛める人が、自ら加害者の立場になるというのは、かなり罪深く、その点に考えが至らないという点はまさに日本のダメな所だと思う。結構この話題は日本の深部。

 

まさに日本の闇が両面で濃縮されている話題。

 

まず、起きている事については、ヨッピー氏の意見のとおり単なる一つの事案として電通云々の話題に括ってはいけない事。

「#meeto」の経緯はちゃんと理解しないといけなくて、単に誰かが誰かを告発するというだけの活動ではない。

声を上げられない人に、勇気や行動の切っ掛け、そして何よりも寄り添える人がいるという事を知らしめる事が根底にあり、その表に出ている結果が、海外の大物の告発であったり、本件であるという事に過ぎない。

当然、一つの事案は他の事案や時間の流れに埋もれること無く、それぞれ重要な事として取り扱うべきだが、そこで思考や歩みを止めてしまう事は、極論言えば単なるトカゲの尻尾切りでしかない。

なぜそのような事が生まれてしまっているのか、それがなぜ今まで放置されてきたのか、そういった社会的な背景まで踏み込んでいかないと、こう言った問題はただのムーブメントで終わってしまう。

 

レインボーアイコン然り、日本はファッションとしての発言、行動が多く、本当に吐き気がする。

もっと深部まで見つめて、何を正すべきか、何を我々は追い詰めるべきなのか、その点をしっかりと考えなければならない。

 

で、その流れの一端が、はぁちゅう氏自身の行動。

まず、予め言っておくと、彼女の普段の発言と行動には問題があるが、それとは関係なく、今回の件は独立して扱われるべきであると私は考える。というか当然の話。

よくわからん人が、突撃しているらしいが、それはお門違い。

 

が、前述のとおり、我々はなぜ人が人を追い詰めるという環境ができてしまうのか、そういった深部と向き合おうとすると、実は密室で行われている恐怖体験だけでなく、実は日常の中にある、いわゆる社会が傍観してしまいがちな行為と、ちゃんとむきあわなければならない事に気づくはず。

 

人は突然モンスターにはならない。

いろいろな体験、経験の中で、価値観やある種の成功体験を積んで、その積み重ねがその後のその人の生き方、行動となって現れてくる。

当然それらは社会の変化や環境の変化により評価が変わり、その都度見直されるべきもので、つまりは過去の自分が間違った価値観や行動を取っていたのであれば適宜見直し、反省し、謝罪する事で変える事は当然できる。

 

日本の社会がモラハラパワハラ、セクハラなどと向き合い辛い環境にあるのは、男性社会がいまだに強い事も一つであると共に、日本人のながされやすい性格や、思慮の浅さが大きいと私は思う。

 

もっと言えば、今回の件のように、それぞれの事案はそれぞれの問題として向き合えない、Aを正義と見做せば全てAは正義であるとする短絡的な行動も、Aに欠点があればAの正当性は全て崩れるとする短絡的な行動も、どちらも社会をダメにするもので、それこそが日本がいつまでも成長できず、世界から置いていかれる原因でもある。

 

意見を述べる、その意見を受け止める

 

これは、対立するから起きるモノではない。

意見をしっかりと受け止めるからこそ、疑問や確認、自身の意見、相手の意見の調整が必要で、その結果としてよりわかり合い、より良い結論へと到達できる。

 

「より良い結論」とは、必ずしも正解ではない。

 

が、より「正解」に近い間違いであったり、「より現実的な答え」であったりはする。

 

その歩みがないのが日本で、その象徴を挙げるなら「シャープ」という会社ではないだろうかと思う。

 

自己の内側、一つの価値観、表層的なものにとらわれてしまう短絡的な思考や行動、そういったものの集合が、結局は住みにくい日本、楽しくない日本というものを生みだしていると私は思う。

 

この話題は、本当に日本の日本人の良くも悪くも深部を見せてくれる話題であると本当に思う。

 

1年、3年、10年たったとき、日本でそういった問題が減っているのか、それともかわらないのか。

結果によって評価されるべきものだが、今のままでは非常に難しい結末が待っていそうだ。

 

 <追記>

 

 

はあちゅう氏の件について

だからこそ「誰がされたのか」も「誰にされたのか」も話題の中心にすべきではないのよ。こう言った話題が上がった時は、そういったことを許容してしまった社会の問題点を見つめ、何を改善する必要があるかが重要なの

 

この記事主の意見は半分は正しい。

問題に光が当たるのは、確かにそれがマスコミや媒体にとって取り上げる価値があると見做された場合だけであるのは事実。

また、実はこういった問題は、特別な事ではなくて非常に多くの場所で、場合によっては本人が気づいていないまま行われている事も多い。凄く多い。

実際、同性間の問題に至っては、踏み込む事が難しい(例えば、女性同士のコミュニケーションでも非常に痛ましいものはあるが、そこに男性が介入する事は難しい、であったり、男性社会の中でも組織的に理不尽なモノや扱いも多いが、それが男性社会というよりも、日本という社会でなぜか容認されている為、声を上げてもなかなか焦点があたらない等)ものも多く、実はそっちの方が問題の本質なんだよ。

 

だからこそ、はぁちゅう氏が被害者であったという事と、はぁちゅう氏も加害者であるという立場にいる事は議論として凄く重くて、日本という社会は、無意識的に、はぁちゅう氏に限らず、被害者と加害者の両方の立場を取っている人が多い。

その根っこの部分をちゃんと見つめて、そういった日本流の悪い部分はなくすようにしないと、光があたる問題だけが取り上げられる、つまりは、レインボーアイコンの時と同じようにファッションとしての活動で終わってしまう。

値上げをしても問題は解決しない

 

「高く買わないでください」獺祭の酒造会社が適正価格で販売しない市場への意見広告を掲載、様々な意見が集まる - Togetter

値上げすればいいというのは完全な間違いだよ。値上げすると中抜きできない業者や末端の提供事業者は取扱を止める。で、結局通販程度でしか消費者は買えなくなる。製造元として消費者に届かない事ほど辛い事はない。

 

値上げをすればいいというのは、所謂ビジネスを知らない人の浅はかな考えです。

 

まず、商品を開発し提供するということは、どのようなもの(モノ・サービス)であっても消費者や利用者があってのものです。

 

つまり、製造・開発元というのは、課題や需要に対しての答えを提供する事が一つの目標であり、それと同時に事業として成功を収めるという二つの軸があります。

 

短絡的に考えると、販売価格を値上げすれば転売する人間は中抜きできなくなるか、またはそもそも取扱をする末端事業者が減るのでだれでも購入できると思われガチですが、そんな単純な構図で流通は成り立っていません。

 

そもそも、お酒を蔵本や酒造会社が全て手売りするというのはほぼ不可能です。

一方で、仮に名前が知れ渡ったお酒であっても、基本的には流通に乗せて販売するのが基本で、原則、流通にながした後はコントロールする事はできません。

 

では、ここで値上げをする、極論言えば、末端価格と記載のある2万円前後まで上げるとどうなるでしょうか。

 

まず最初に、末端事業者、つまり飲食店での提供が激減します。

飲食店は基本的にはお酒類というのは利益率が高いですから、それこそ銀座のような場所ではボトル1本分で仕入値の数倍の利益をたたき出します。もっとも、これにも絡繰りはあって、稀少なお酒が常に置いてあるというのは、それだけ流通から商品を引っ張れる所とのお付き合いがあり、そういった所無くしては常備稀少なお酒を準備するというのは不可能です。

 

まぁ、希に蔵本と直接取引しているような場所もありますが、そういった場所は消費者が誰でも触れられるかと言えば逆に難しいでしょう。

 

ではなぜ飲食店での取扱が激減するかといえば、飲食店自身も事業ですから、利益のでない獺祭を出すよりも利益のでるスパークリング清酒・焼酎を出す方がよいからです。

一つは自身の事業としての利益の確保もそうですが、もう一つは取引先として側の事情もあり利益の出ない商材よりも、双方利益の出る商材を取り扱って貰う方が両者の利益に叶うわけです。

 

この構図は販売店も同様です。

例えば、消費者がお酒を買う場所として、町の酒屋もあるでしょうが、昨今ではネット通販が非常に重宝しているかと思います。例えば楽天で考えれば中抜きできるので、定価以外での販売を行いますが、定価が2万となり、売価を2万5千円として、5千円の粗利を上げるよりも、他の流通量が多く仕入値が安い商品を例えば定価が2,000円で売価が4,000円で売れる商品に切り替える方が圧倒的に儲かります。

 

理由は単純で、消費者は2万円や2万5千円では獺祭を買わないからです。

 

このような形で、確かに一端は転売・中抜きの抑制は働きますが、これで失われるモノは獺祭を生みだした酒造家の意義です。

良いお酒を消費者に届けたいという思いがあったにも関わらず、消費者に届けない事で価格を適正にするというのは、提供する側からすると余りにも暴論です。

もはや何の為に製造したのかすらわからないでしょう。

 

また、一般的にこの手の手法は後に大きな問題を残します。

獺祭が世に出たときであればまだしも、既にスパークリングの清酒・焼酎というのはオンリーワンではありません。

既に数十種類もライバルはおり、澪など海外で成功したものも少なくなく、今ですら比較的競争にさらされている状態なのに、ここで価格を変えれば、おそらくは市場でのポジションは完全に失うでしょう。

 

もっとも、そういったお酒の味の細かい違いを理解し、好みにあったお酒を、自らの手で手配し飲むような方はそれでも変わらないでしょうが、飲食店での取扱が激減すれば規模の縮小、事業の縮小という道が必要になり、獺祭の次の商品を開発する以外に生き残りはなくなるわけです。

 

同じ商品であれば、価格を戻せば消費者はまた買ってくれるというのは幻想で、その時に一度提供されなくなった商品を、消費者が思い出しその味に戻ってくるというのはなかなかハードルが高く、それ以上に飲食店にもう一度取り扱うってもらうという事自体がかなり難しいでしょう。

 

結局、一度そういった強引な手法で流通をコントロールすればもう消費者の手の届きづらい商品となるわけです。

 

このような事情もあり完全にコントロールするには自社で販売網を構築しコントロールするしかありませんが、それでも飲食店での取扱がなくなる時点で、おそらくは年間の出荷は相当減り、事業としてはなかなか難しい事になるでしょう。

 

本来は、飲食店での取扱については別として、チケットなどと同様に極端な転売を制限できればいいのですが、これについてもいろいろな権利がありますから、難しい問題で単純な解決はできません。

 

チケット問題の場合はまだ単純です。

チケットを販売事業者が協力して定価での転売のみ可能とする仕組みを作ればよいのです。

少なくとも事業としてチケットの転売を助長しているところは、二次流通でいえばチケットキャンプのようなところか、あとはオークション程度ですからそれほど売り手・買い手への影響はありません。

 

ただ、お酒の場合は、ビジネスとしてあまりにも登場人物が多く、それらのそれぞれのビジネスやお付き合いもあり、単純に解決する事は難しい為、ああいった意見広告を出さざる得ない状況になった事は理解できます。

 

単純に酒造側の怠慢であるような意見を述べるのは無知であると理解していただき、なかなか難しい事にギリギリのラインで切り込んでいる事を理解してあげてくださいまし。

永世七冠

竜王戦の決着により羽生棋士が永世七冠となりました。

 

個人的にはこの竜王位を渡辺棋士から奪った事は大きいと思います。

やはり近年で竜王位といえば渡辺棋士であり、代名詞でもあります。

渡辺棋士自身は強い棋士で当然あるものの、やはり竜王戦での強さは自身の勝敗の中でも抜きん出ている事は自身も理解しているでしょう。

 

永世竜王を羽生棋士が取得し、永世七冠となったわけですが、竜王の争いでも興味深いものがあります。

 

そもそも初代永世竜王の争いもこの二人によっておこなわれており結果として渡辺棋士が初代の永世竜王位を得るという結果であったわけです。

その後も竜王位は渡辺棋士を中心に常に争われており、結果として最多獲得数、最長連覇共に渡辺棋士のもつ記録となっています。

 

それ以外にも面白い戦いが幾つかあったり、それこそ大逆転という戦いが多かった事も記憶に強く残っているなど、なかなか竜王位の争いというのは面白いものでした。

 

このような事もあり、羽生棋士永世竜王となるにあたり、その相手が渡辺竜王であったという事は面白く、そしてそうでなければという気持ちが個人的にはありましたので、まぁ、結果は出た話ですが、よかったなという気持ちです。

 

ただ、羽生棋士を脅かす世代として常に祝えているのが、いわゆる「羽生世代」の次は?という話しです。

 

羽生世代はもう終わりなのか?という話しがちらほらでるものの、こうやってやはりトップの座に君臨し続けているわけです。

昨今で言えば、故・村山棋士の話題もでるなど、やはりまだまだ羽生世代というのはその座を譲らないのか?と思わなくもないですが、嬉しいような、寂しいようななんとも言えない気持ちがあるのも事実です。

 

藤井棋士に限らず、実は今若手が凄く成長しており、言葉としてこそないものの「渡辺世代」を食い破らん勢いもあります。

 

わかる人にはわかるのですが、実はトップであらそう事よりも、より下のリーグから這い上がる事の方が今はとても難しいのです。それぐらい、本当に才能のある若手が多数いるのが近年の棋士界です。

 

いろいろゴタゴタもありましたが、良い話題も少なくないわけですから、より成長して、ファンを楽しませてもらえればと思います。

普通の人は事業所得として認定される事はおそらくない

 

ビットコイン(仮想通貨)の税金上の取り扱いが確定したので解説する - FX初心者向けまとめ解説(株式投資もあるよ)

個人的な経験として言わせていただくと「事業所得」として税務署に認定されるためには、少なくともその収入により生計が維持されている程度の事業でなければならない。普通の給与所得者では確実にアウトですので注意

 

まぁ、個人的経験として、というか実体験なんですが言わせてもらうと、事業所得としてそういった取引を認定させるには、少なくともその事業が主軸であり、その収益によって生計を維持している程度の取引が必要です。

 

これは別に仮想通貨云々の話ではなくて、税務署がそれを事業所得として認定するか否かの話で、ただ単に個人が取引していたとして、それを事業所得として申告しても、おおよそあとで追徴課税を食らいますよ、というお話です。

 

まぁ、私が過去に食らったんですがね。

 

もっとも、私の場合は税務署に相談して、税務署の相談員が事業所得で問題ないという事で申告していたのですが、それでも後にお手紙がきまして、これは事業所得として認定できないので、このままではアウトですがどうしますか?みたいな話です。

まぁ、こういった場合は、基本修正申告するしかないので修正申告するわけですが、ここで戦うとほぼ勝てない戦いをすることになります。

 

この話は結構納税入門書でも嘘を書いているケースが多く、本当にああいった本を書く人は実務経験がないんだなぁと思うのですが、まぁ、事業所得で税金を浮かすという手は古典的なやり方で、一番ハマる罠なので、本当に専業として行っている方以外が手を出すと、後に税金をまとめて支払うことになり人生詰みかねない(税金については逃げ道がないので…)ので、そういった嘘本の雑解説に騙されないようにしてくださいね。

 

まぁ、仮想通貨取引で事業申告するってのはなかなか難しい(例えば、法人口座でFX取引をしてもそれが主たる事業としては認めれらないのと同じ)ので、普通の人にはご縁のない話だと思っていればよいかと思います。