何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

斜に構えた人、まともなひと

 

カメラを止めるな!・・・感想の前に | えいの映画ぶろぐ!

映画の好き嫌いってのは人によるので、肯定・否定なんてんは存在して当たりまえなんだけど、ただ、映画を肯定する人=まともなひと、という言葉で語るような人が映画を語るってのは本当に滑稽だと思うんだけどねぇ。

 

もう何べんも書きましたがブログってのは、個人の意見の掃きだめなんで、あることについてどんな意見を持とうとある意味自由だとは思うんですよね。

 

ただ、映画を批評する人、それも月に数本見ていて、それがライフスタイルの一部であり、そしてそれをメインにしたブログであるわけだけど、その執筆者がその映画を肯定する人は「まともなひと」と呼称し、そうでない人は「アンチ」で「斜に構えた人」と呼称するってのはなかなか滑稽なものだと思う。

 

そもそも、多くの映像作品は単一のテーマで完結しておらず、多くの場合、見る側に一つの疑問を投げかけることが多い。その事を通じて視聴者自身の答えを見つけるわけですが、そこには納得する人もいれば、そうでない人もいる。

場合によってはトリックであったり、シナリオであったり、それ以前の部分で違和を感じ、そこまで到達できない人もいる。

ただ、映画というのは、ある意味その体験自体が価値の一つでもあるので、極論言えば、ある映画を見て、結局なにも感じなかったとすればそれも一つの答えだし、自分と違う感想を持った、肯定的な意見であった人も、そうでなく否定的な意見となった人もすべてが正しいのだと思う。

 

ただ、テーマ自体が伝わらないとすればそれは議論の種になる事は多く、それ自体の議論はあってしかるべきだとは思う。それをすることで、その先のトリックについて理解でき、意見が良い意味でも悪い意味でも覆る(変わる)事もあるわけで、それは理解の一つの手段としてあるべきだとは思う。

 

結局、映画というのは、ある意味監督のエゴであるのは否めない。

あるテーマをナルシスト的な立ち位置で語り、もっと言えば投げつけるわけであって、それが合う・合わないという様々な結果になるなどというのは至極真っ当なことだと思う。

 

さらに言えば、見ずして否定的な意見を言うというのも実は止むを得ない事だと思う。

なぜなら見たいと思わせられなかったのであればそれが結局はその作品の限界ではあるわけで、そこを否定しても意味はない。

 

特に低予算作品というのは、何かしら尖ったものがないと成立しない。

予算があれば、話題性の高いキャスティングをし、広告である程度の認知度を広めることで、いわゆる理解できる人にそれなりの数リーチすることができる。そして、その中にはそのトリックやシナリオに非常にマッチした人も一定数いるわけで、結果としてそれはそれなりの結果を生むこともそれなりにある。

 

だが、低予算作品はそうならない。

 

だからこそ、低予算作品というのは、尖っており、万人に受け入れられないという事がある意味その切れ味の表れでもあるわけで、そこを「アンチ」「斜に構えた人」という、いわゆるネガティブな表現で呼称してしまうというのは、低予算作品の戦い方や、その中での作品の価値をいかに最大化するかというある意味作り手の努力も無視しているような気がする。

 

これは映画に限らない。

 

万人に受けるようにするには、極論言えば球体のようなものを目指すしかない。

それは表現を変えると、万人の満足はある一定数得られるものの、最高の満足感を得られているかと問うとそうでない可能性が高い。

当然、その反対はエッジを利かせる事になるが、その場合は当然ピースがハマらない人が多くなり、それはより切れ味を増せば増すほど反比例してハマらない人が一定数でてくる。

 

これはある意味作り手のテーマをだれに届けるのか、だれにマッチするのかという作品のテーマをより研ぎ澄ます努力をした結果であって、決して駄作というわけではない。

 

まぁ、世の中に駄作はあるので、全てがそうでもないが。

 

意見は様々だろうし、中には実際に者に構えた人もいるのかもしれない。

もっといえば、監督、演者、スタッフを本当に嫌いでアンチな人もいるかもしれない。

が、この関係者に向けてそこまでアンチな人が多いとは思えない。

 

つまり、単純にその映画にはまらない人がいただけの話で、それはアンチでも斜に構えた人でもなんでもない。

 

斜に構えるというのは、もっと万人が当然のように受け入れる事に対して、本質的な部分でないものを担ぎ上げてでも否定するような人であったり、映画であれば、よくわからない「こうあるべき」という持論に合致しないものを暗に否定するような人であったり、そういう人の事を差すんじゃないかと思うのだが。

 

ある低予算作品に理解を示さないだけで100歩譲って「アンチ」の類に無理やり突っ込むのはまぁギリギリ理解できるとしてもその程度で「斜に構えた人」等といわれるのはあまりにも暴論だと思うし、理解できる人を「まともなひと」などと意味の分からない形容をするのも全くもって理解できない。

 

映画ってそういうものではないと思うんだけどなぁ。

 

ある意味アンチな人よりも、この表現の方が作品の敵だと思うんだけどね。

 

(良し悪しは別として)論点がずれているような気がする

 

どうして JWT をセッションに使っちゃうわけ? - co3k.org

長文化しているのは問題点を細かく説明しないと理解できない人がいるので止むを得ず整理しているわけであって長文である事を批判する(つまり説明されずとも内容を理解済み)人向けではないと思うのだが。違うのかね

JWT認証、便利やん? - ブログ

論点がずれてる気がする。ようは理解しないで使う人間はなんなのよ?という話で理解している人はぶっちゃけ何をどうやって実装してもご自由にという話かと。ようは道具を使う事を目的とするなよ、って話だと思うが。

 

個人的には有益な議論かと。

 

つまり、わかっている人からすると「いや、そんなこと当然でしょ?」なんだけども、それを理解していない人が実際には多数いるので、その事例について如何ともし難いあれやこれをどうしてくれようという話かと。

 

実際問題、最初の記事も細部では「ん?そうしちゃう?」的なものはあるわけだけど、それ自体が論旨ではないので、そこを突いてもしょうがないのだと思う。

タイトルや方向が「正しいJWTとの戯れ方」だったらあれだけどね。

 

特にこの界隈はいわゆる「流行り・廃り」で技術的方向性を決めちゃう人は一定数というか、まじ、お前、それ、理解してないよね?的な勢いで突っ込んじゃう人もかなりいるので、そういった意味では「使う必要があるなら使えばいい。だが、なぜそれを使う必要があるかは理解してから使え」という事を表明する事は定例行事であると思う。

 

で、重要なのは後者の記事でも触れている「トレードオフさえ許容できれば」という部分で、前者の記事でも「充分なリスクの見積もりをせずセッションに使う事例」と上げているように、「正しくリスクを理解できてない=間違ったトレードオフを行っている」というケースについての議論であって、そこを「正しく評価できている」という前提にしちゃうとちょっと議論がかみ合わなくなると思う。

 

もっとも、後者の記事は、私が感じるに前者の記事の個別・各論の部分のちょっとそれそうしちゃう系?という点について意見表明をする事が主たる目的になっているのでは?とも思うので、最初からそれぞれの記事の論旨はずれているのであって、永遠に出会う事はないのかなと思います。

 

正しい・正しくないではなくて、そういったケースがあるんだけど困っちゃうんだよね、という事例でしかないかと。

 

同様の話として後者の記事でいえば「FirebaseやAuth0でも対応している認証方法です」と記述して、だから大丈夫なんですよ?的な雰囲気を醸していますが、いやいやそれ知らないで使う人が地雷踏んじゃうやつだから…という突っ込みと同じです。

その突っ込みも、結局は「いや、それ、正しく使えないやつの問題でFirebaseの問題じゃないよね?」という話になるのと同じですよね。

 

Firebaseを正しく使うってのは、正直それほど難しくはないのですが、実際問題コピペのみで実装しちゃう人もいるわけで、おう、ロールってなんだっけ、権限ってなんだっけというスタートライン以前の次元の人もいる状況を考えると、そういった人がひゃっほーJWTサイコーとかいって、地雷踏んでその処理を自分がやらされると考えると、鈍器のようなもので…という不幸な思考に陥る事も否定はできないかなと。

 

あとは認証絡みはどのようなサービス・アプリで使われるのか?という事の方が技術的優先度が高くて、手法なんてものはそれ以上にクリティカルな問題が生じない限りは正しく使えるならなんでもいい、正しチームで共通のレベルで正しく使えるなら、という事に過ぎないのかなと思います。

 

というか、そのあたりのロジックが選択肢もないほどセンシティブな状況であれば、おおよそ対応するのはそれなりの技術者なのでこのような話の対象ではないだろうし、どちらかというと、どうでもいいようなケースで勢いとノリで使っちゃう系の話だと想像しているので。

 

という感じで、結局エディタの宗教戦争と同じで、使える人は使えばいい、という話でしかないなぁというのが個人的な意見ですかね。

 

書かなかったというか、面倒だった・・・

別に意図的に記事を書かなかったわけでもないのですが、使い勝手が悪いと感じた瞬間から一気に書く気が失せたというか、別なサービスで書く方が気軽であったのでそちらの探求をしていたという感じですかね。

 

ただ、90日間記事を書かないと広告がメッセージと共に表示されるというのは、なかなか受け入れがたいものがあったので、使わないなら消す事も考えましたが、今の所は保留中という事で駄文を上げて紛らわせる感じで。

 

何も書かない間、HIKAKINみたいに無駄にハイスペックなMacBookProを導入したり、4Kディスプレイと格闘したり、ネット・リアルで起きた事について自分なりに整理してみたりと、色々としていました。

 

昔であればこんなにネットと距離をとるというのは無かったのでしょうが、特に意識せずとも一定の距離を置けるというのはやはり依存していないという事を再確認でき、それはそれでよいのですが、同じインターネットサービスに関わる側、提供する側の末席に連なるものの感想としては、結局今のネットは依存する人とそうでない人に分けられるもので、依存しないような人からするとあまり必要性のないものが溢れているのだろうという事を再確認しました。つまりは、サービスを提供する側が需要を正しく把握できていない、需要に対応したサービスを作れていないという事ですね。

 

キュレーションサービスもそうですが、情報というものについては質も量も非常に乏しく、それ以前にそれらを提供するサービス自体が非常にクオリティが低く、推薦された情報とは何だろうか、という事と向き合うと、あぁ、人工無能に毛が生えた程度のものか(つまり、広告枠に閲覧履歴に基づくお勧め広告を表示する程度の代物)としか思えず、ネットという空間を本当に無駄遣いしている(それができる事は唯一の価値ではある)と感じました。

 

つまり、インターネットの縮図とはAmazonレビューであると、そういう感じです。

 

何かいているのか判らないのは、目的もなく書き始めたのでこんな感じになっていますが、それもまた味があるかなと。

 

次は広告&メッセージがでる前に何かちゃんとした事について書きたいと思いました。

何でも燃やせばいいわけではないと思うよ?

 

炎上 女性エンジニアが少ないとやる気が出ない問題で波紋「懲戒解雇されてほしい、エンジニアやめろ」など批判 - Togetter

いやこれ記事読めばわかるけど、冒頭部分は完全にネタでしかなくて、本題は機械学習の活用方法についてエンジニアにわかりやすい身近な話題で活用するとこう言った事ができるよ、という一つの提案に過ぎないんだが。

2018/06/22 14:48

 

おぉ、今日のはてブの反映は早い。

はてなの中の人がんばった感じ?ありがとう?

 

さて、件の記事読んでみましたが、うーん、これは燃やす程のネタではないと思う。

 

確かに話題の入りとして男性エンジニアは女性エンジニアがいた方がやる気がでるよね?という話題を振りまいているが、これ自体は当日のテーマの全体をわかりやすくするための切っ掛け作りに過ぎない。

もっとも、それ自体が問題なんだ、という話しはあるが、それは単独の議論であって、特に技術系の人間は話しの全体像とそれぞれのポイントを整理して話し手の言わんとするところ、つまり要旨を理解できなければならない。

 

少なくとも、技術系の人間が、短絡的に「けしからん」というのは余りにも能力の低さを露呈させているので、せめて批判すべきポイントについてもう少し踏みこんでから批判すべき。でないとただの空気で批判しているだけだよ?

 

で、記事を読むと、結局のところ本題は機械学習を活用する事による身近な問題に対する活用提案というものでしかなく、ネタの選定はおおよそ男性が多かった大学生(院生)のもっともウケるネタである男女比問題を担ぎ出したというだけのこと。

 

だけの事でも問題はあるんだけど、これ、社会人になったばかりのルーキーをまさに社会から抹殺すべし的な対応をしている人を見ると、人間って、たかが数ヶ月で万全な状態に成長しなければ許されないほど、パーフェクトな事が求められるのかと、お前らよほどすげーパーフェクトな人間なんだなと思うし、仮に批判するなら、彼ではなく、彼のメンターや上司、レビュワーであるべきで、ルーキーである発表者を血祭りにする話しではない。

 

この話しで短絡的に血祭りにすべし!と動いた・発言した技術者や関連の人間はマジで反省しろ。

 

我々先輩がすべきことは、かれがこう言った事を起こさないようにどう指導するか、であったり、こう言った事が起きたときに、正しく、ただの個人を私刑にするような事では無く、こういった事が起きた背景(おそらく学生時代の延長である為&職場が実際問題としてそういった環境・雰囲気であるのであろう)を理解し、その上で、適切に助言、指導する事であって、若者が少し間違った程度で「社会的抹殺」をするような事ではない。

 

許されない失敗もあるし、治らない問題もある。

が、こういった問題は、少なくとも環境の変化、時代の変化で対応すべき方法が違うのだよ、学生時代とは違うし、特に人はだれかのものではないのだよ、という基本的な人権に関する話しをしっかりとしてあげればいいだけで、それでもダメならその時に退場いただくべき話しで、一発レッドカードを突きつけるような話しではない。

 

こういった事で、そういった背景や状況を冷静に見れないような先輩、同僚になってはならない。

 

むしろこの話しは、そういった短絡的な思考で感情的に動いてしまう人、そういった組織をあぶり出すよい試験であったようにも思える。

 

私は決して、女性エンジニアに対して男性エンジニアの活力になるための存在という話しを肯定しているわけではない。

 

私は、それは間違っているという事は前提として、その間違いが起きている本質的なポイントを理解し、それを正す事をすべきで、それを放棄してただ私刑を実行するような人間というのは、むしろ社会のクズだと思うんですよ。

 

今、僕らが常識と思っている事、それはその組織では当然であっても、他の組織では当然でない事もあるし、同様に学生の頃は当然であったことが社会人になれば当然でない事もある。我が家では当たり前の事が、お隣の家庭では非常識という事もある。

 

違いは何処にでもあるし、それが「違い」である事を気づくのは、実は凄く難しい。

少なくとも本人は切っ掛けがないと気づけないし、世の中の人間は大抵がそんなもので「私は完璧な人間であらゆる事の判断、選択に間違いはない」等という人は、あり得ないのですよ。国、地域、時代、確実に判断基準も社会的環境も変化しているので、だれであっても「完璧」なんて事はあり得ない。

 

少なくとも、彼の間違いは、彼の発表を事前に何も指摘していない組織の問題であって、かれ個人が私刑を受けるべき事でないない。

 

私刑行為を行った人間は本当に反省しろ。

理解を得られないだろうけども実際そうするしかなかったのかなとも思える

 

差別主義者はニコニコへ帰れ!! ネトウヨ帰還事業のお知らせ|木野寿紀|note

実際問題なぜ削除したのか?という疑問はあるのだけれど、一方でニコニコ動画の基本スタンスは「クソの掃きだめでも自由を選ぶ」というのがあって、その上で限りなく自由を許容する表明をしてるだけではあるんだよね

 

確かに、なぜあの条項を消したのか?というのは疑問で、消すべき理由はそれほどなかったんだけど、ただ、当時から右左の激戦区ではあった。

当時はまだまだニコニコ動画というの陰りはあれど勢いはそれなりにあったので、その後の方向性を真剣に議論した結果なのだろうな、と。

 

社会的な意義、という話しで言えば「消すなよ」で終わりなんですが、一方で、事業継続であったり、事業のコア・コンピタンスであったりを考えると、一択であったのだろうと思わなくもない。

 

先日の決算でも触れているが、ニコニコ動画は良い意味でも悪い意味でも「自由」について重きを置いている。例えば、ある物事を肯定する自由もあるし、同時に、ある物事を否定する自由もあると。

 

今の世の中では、ある物事について一つの物差しで測ることが多い中では、ある意味特別なもので、まさにそれがコア・コンピタンスであると認識したのだとは思う。

考えてみれば、そもそもニコニコ動画の歴史というのは、グレートとの共存であったわけで、それ自体が自由と同時に存在するグレー、それも限りなく黒いグレーを如何に白と見做すか、という事との戦いであったと思う。

 

企業としてそんな選択をしてよいのか?という人もいるだろうが、そもそもどのようなご立派な企業であっても、こういった点での駆け引きは行っている。それが、動画配信のような単純に目に見えやすいというだけであって、おおよそ世の中のご立派な上場企業の全てが、何らかの矛盾であったり事業上の選択として社会的に見れば不適切ではないのか?という選択をしている事は少なくない。

 

それらの結果はいわゆる「強さ」であったり「個性」であったりに繋がるので、この選択を否定してしまうというのは起業家としてはあり得ないのはわかる。

 

で、本質的な問題は、実は日本社会の構造ではある。

確かに、規約で縛れば良い、というのは素人目には正しいと思われガチだが、その手の方法では結局いたちごっこを続けるだけで、別に投稿する側がいなくなるわけではない。

「見えなくする」という事は大事ではあるが、それ自体にはなんら社会的構造を改善しているような効果はないので、日本にあるいわゆる特定属性を明確に否定するようなものはなくならない。

 

企業が社会の一員として社会的な指針に従うべきである、というのは正しいものの、同時に企業が合理的に利用者を制限するというのは、反差別の観点でも法的な整理が行われなければならない。

その一つとして「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立したわけですが、中身を見るとかなり玉虫色ではある。

その上、そもそもこの法案事態の成立についても結構微妙な意見が多く、所謂表現の自由との兼ね合いはどうなるのか?国が個人の意見・活動について一方的に判断しそれを取り締まる事を正しいものとして良いのか?という問題も逆に起きている始末。

 

というもの、そもそも「差別」を取り締まるとなると「差別」の定義の議論に至る。

 

で、これが難しい。

 

「多くの人が不快と感じればそれは差別だ」などと、笊な定義にしてしまえば、恐らくは多くのデモは何らかの差別として取り締まられる事になる。つまり、少数意見が黙殺されてしまう社会、絶対多数が正義となる社会になる闇が見えてきているわけで、実はこれは左派も「やばい法律に繋がりかねない」と普通に理解している。

 

なので「規制」とは「自由の制限」との常に線引きが求められるわけで、それを一般人にわかりやすくしているのがニコニコ動画の方針であるのだろうとは思う。

 

 

と、介錯しているわけですが、まぁ、それでも削除についてはもう少し丁寧に対応するべきではあったと思うし、その選択が事業の生き残り、つまり自らが理解するコア・コンピタンスであると主張しているわけなので、もう少しわかりやすく、そして企業も社会の一員であるという部分についてもぎりぎりまでケアするような攻めの姿を見せてもいいのかなとは思う。

 

ただまぁ、今のままだとあと5年もするとニコニコ動画自体が差別主義よりも前に消えてしまいそうな雰囲気はあるのですが・・・。

正直言えば、期待よりも不安の方が大きい

 

HONDA POWER FROM 2019 | Red Bull Racing Formula One Team

きたか!不安の方が大きいのだけれども、それでもやっぱりワクワクしないかといえば嘘になる。今年1年をまずはきっちり結果を出しつつ、来年のPU開発においても結果を出せるように取り組んで欲しい。がんばれホンダ

 

きたか!という喜びと、茨の道ではないのか?という不安の両方が入り交じる発表の受け止め方で、どちらかというと不安の方が大きいと思う。

 

歴史とはおかしなもので、現在トップチームであるメルセデスといえば、旧・ホンダF1(B・A・R)が母体のチームであったわけで、そのメルセデスであったり、レッドブルと黄金時代を築いたセバスチャン・ベッテルが在籍するフェラーリと争う為に、ルノーからホンダエンジンへ切り替えるという決断。

 

ある意味、ここ最近のF1界隈はレッドブルやホンダを中心に動いていると言っても過言ではない(そんな事はないか・・・)のだが、それにしてもなんとも奇妙な事である。

 

実際問題、既に噂になっているように、新しいレギュレーションにると同時にポルシェが参入するという予測もあり、その場合、それを上回るパフォーマンスがだせなければ恐らくはスイッチされてしまうだろうとは思う。

もっとも、ポルシェがフルワークス参戦するというなら話しは別だが、流石にポルシェといえど、いきなりのフルワークス参戦はないとは思う。

ただ、フルワークス参戦の為に、レッドブルレーシングを買収するのではないかという話しもあり、その場合の契約条項の詰めの為に時間が掛かったとの見方もある(トロロッソをホンダが買収するという話)が、正直昔を知るファンとしてはそれは地獄の釜の蓋を開けてしまうのではないかという不安が大きい。

 

日本人ドライバーがF1に参戦して欲しいという願いはあるものの、今のF1で結果を出せるドライバーがいるか?と問われると、なかなか即答できるものでもない。

 

ただ、ホンダといえば「負けるもんか」で有名なわけで、今のホンダにはまさにその精神が必要なのだと思うし、その精神がレッドブルとの提携での一つのキーワードでもあったのかしれないとは思う。

 

まずは今年、トロロッソとの間できっちりと結果を出し、そして同時に、来年に向けてのエンジンを設計・開発してほしい。

 

レッドブルも来年から変更される予定の空力制限について真剣に考えているだろうし、そういった意味では、来年のPUに対して求めるものは、今年以上に重くなる事はいうまでもないだろう。

 

来年に期待するためにも、まずは今年、結果を出してくれるように応援しつつ、祈るしかないかな。

他人の嫌いを全て否定していく先は誰も何も感情を持てない世界だけ

 

「子供嫌いの言い分」のまとめ - Togetter

こういった問題と向き合うときに単純に「こういった意見を出すことが問題」と感じている人は、もう少し冷静に世の中と向き合わないとダメ。誰かの嫌いを否定するというのは彼らの感情と実際は同じで大差がないのよ。

 

自分の「嫌い」を表現するうえで、まぁ、人は少なくとも無意識的にであっても、大抵は「正当化できる理由」を付与したくなるもので、それは実はすごく人間的なことだと思う。

それを全否定してしまうというのは、もはや人間的であるべきではないという事で、それはつまり、子供が子供らしく過ごす事を否定しているのとさほど差はない。

 

当然、人は大人になるにつれ、感情で生きるのではなく、社会との折り合いであったり、仮に自身が嫌いなものであっても、それとどう向き合うかという事を学ぶわけで、考えている事を全て実行・発言に移すわけではない。

 

ただ、そういった反対側の人からみれば「自己中心的」と思われるような考え方であったり、発言であったりを全て否定していくと、誰かの嫌いは誰かの好きであるし、同様に、あなたの好きは誰かの嫌いであるかもしれないわけで、最後は、万人がすべて同様の考えを持たない限りはコミュニケーションが成立しない世の中になる。

 

興味深いのは、こういった考え方は、戦後から現代までの日本でいわゆるムラ社会であったり、昨今の若い人が嫌う長いものに巻かれろという個人の違いを否定する考え方なわけだけど、モノが変わると人はやはりその考え方が冷静ではいられなくなる。

 

子供が嫌いという人は普通に多い。

以前もコメントしたが、そもそも子育て世帯や、子供とかかわる世帯というのは、どんどん少なくなり、基本マイノリティであるわけです。

どんなに綺麗ごとを言っても、自分に直接的に関わらない事に熱心になれる人はそれほど多くなく、正直な意見を述べれば、私が考えるに「子供がうるさい事は当然」と考えている人の中にも実は直接的な何かが起きれば「子供が嫌い」に変わってしまう人もおそらくは大勢いるだろう。

 

結局、こういった意見は、その時、その状況で比較的変わりやすいし、極論言えば、上記の逆で、自分に子供ができた時や、甥っ子ができたときなど、何かの切欠で今まで苦手であったり、嫌いであったものが、そういった切欠で大丈夫になったり、さらには好きに変わることだって普通にある。

 

人と人が関わるときにまず考えないといけないのは、嫌いという事実から議論する事ではなくで、嫌いという事に至っている理由であったり、極論いうと、嫌いな人が嫌いなものと直接かかわらなくてもよい状況にできるのであれば、それはそれでその方がよいわけで、そういったまずは周辺の事情から整理した方が100倍ましだと思う。

 

例えば、登校拒否している生徒に、なぜ学校に行かないのか、という議論をするよりも、学校に行きたくないという事実があるなら、とりあえず学校には行かない方向でもよいけど、将来自分の選択肢がなくなると、それはそれで不幸だから、学校に行かないという事を前提として、そういった問題だけなにか解決できないかという普通に考える、そういった思考が大事だと思う。

 

昨今、マイノリティへの配慮や理解という事が叫ばれるが、結局こういった事もそういった話だと僕は思う。

 

子供を好きになれない。

そういった人は、ある意味社会では単純には受け入れられない。

理由は「子供は守るべきものだから」。

でも、私はそれを社会が秩序であったり、暗黙のルールとして理解させていくには、ただ「お前の事情なんかしるか!」と抑圧するだけではなく、うまくすみわけしたり、また、相手の事情もよくよく理解して共存することもちゃんと考えないとダメだと思う。

 

そこを考えず、ただ「お前の考え方がおかしい」とだけ言い放ってしまうのは、それこそ思考停止で、社会の発展もなく、終わった考え方だと思う。

 

多様性が叫ばれる世の中で、これからどんどん共通的な考え、普遍的な考えというのは変わっていく現代なわけですから、それを生きるわれわれはそういった環境にちゃんと向き合っていかないと、我々が「老害」と批判してきた先代が築いたソレと結局は同じような社会を作ってしまうと思うんですよ。

 

そう思いませんかね。

僕はそう思うけど。