何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

『自分』だけでなく『自分以外の誰か』が自分と同等の権利を有しているという事

*[バックラッシュ]小田嶋隆氏「『女性差別広告』への抗議騒動史」の何が問題なのか? - ふぇみにすとの論考

女性が作る人なのは差別である→男性が作るのも差別である=作る行為を人間が行うことをテーマにし辛い。結局出し手側に差別意識なんてないんだけど受け手側が偏った捉え方をするからどんどん面倒になる感は否めない

 

読んだ。

 

特段内容について動向という事はないのですが、個人的には『個人の解釈の尊重』をどこまで優先すべきなのかという点。

 

最近抗議やクレーム、無意味に過剰な謝罪劇と世の中は非常に面倒なものになったように思える。

 

定量的に何かを計った訳でもないけれど、そこにあるものが何かと考えると、結局『個人の解釈の尊重』というジレンマなんだろうなと思う。

 

例えば、記事中であった『ワタシ、つくる人、ボク、食べる人』 というCMへの抗議だが、確かに文言や映像からは女性=作る人=専業主婦という固定概念が見え隠れする。

その一方で、当時の社会的な環境をみれば、まだまだ女性の社会進出は少なく、母親が家でご飯を作るという風景はごく自然なものであったと思う(その解釈の善し悪しは別としてね)。

 

この表現が差別意識のもとから出てきたかというと、私はそうは思わない。

 

当時『安心』や『暖かさ』『家族愛』のようなものを表現するときに、子供を中心にして、母親、父親が見守るという構図、そして、料理を作るという事を一つの立派な仕事としてとらえ、その役割をCM中で担う人を検討したときに、ごく自然に当時の社会的な環境からアサインすると母親が選ばれたにすぎない。

 

当然、時代が代わり、今同じようなCMを作るとなると、もこみち的な人が料理をする光景であったり、子供と父親が楽しげに料理をする風景がごく自然に描かれるだろう。

 

そもそも、社会的な環境に即したものを作るというのは映像制作の基本的な手法であって、差別や特定意図によるものではない。

 

違和感を感じさせないように、且つ、作り手の意図をうまく視聴者に伝える為にはどうするかが腕の見せ所であって、それ以外にいちいち考える人などほとんどいない(というか、そんなに暇でもないし、そんな余裕も正直ないとおもうよ)。

 

結局、よほどの問題を抱えるものをのぞくと、受け手の捉え方で全ての作品のあり方はかわってしまう訳で、その問題の握っているのは作り手ではなく受け手側である視聴者なんだなと思う。

 

確かに、一部であるか全部であるかに関わらず、不愉快な思いをさせないという事も非常に大切だが、一方で、私が違和感を感じる=社会全てが違和感を感じるではない事は理解する事が大切だと思う。

 

男性社会でも差別であったり偏見というのは未だに色濃く残っていて決して女性だけの問題ではない。

 

私自身は、女性の社会進出や地位の向上がそういった男性への偏見や差別というものの是正に非常に有効であると考えているので、もっと女性が社会進出できる環境を整えるべきだとは思う。

 

ただその事と、専業主婦に憧れるであったり、それを好む人の価値観を否定するというのはイコールではないので、自身の意見に沿わないものは社会悪であるというのはちょっと違うかなと思う。

 

このあたりの考え方や戦い方は上手にやらないと、正当な意見や権利であっても社会的には理解されない状況に陥るので、巧く立ち回ってほしいなと思う。

 

コミュニケーションとは、最終的には一人ではなく、二人以上の人が存在するから必要なもので、『自分』だけでなく『自分以外の誰か』が、自分と同等の権利を有している事を決して軽んじてはいけないと思う。