何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

理解を得られないだろうけども実際そうするしかなかったのかなとも思える

 

差別主義者はニコニコへ帰れ!! ネトウヨ帰還事業のお知らせ|木野寿紀|note

実際問題なぜ削除したのか?という疑問はあるのだけれど、一方でニコニコ動画の基本スタンスは「クソの掃きだめでも自由を選ぶ」というのがあって、その上で限りなく自由を許容する表明をしてるだけではあるんだよね

 

確かに、なぜあの条項を消したのか?というのは疑問で、消すべき理由はそれほどなかったんだけど、ただ、当時から右左の激戦区ではあった。

当時はまだまだニコニコ動画というの陰りはあれど勢いはそれなりにあったので、その後の方向性を真剣に議論した結果なのだろうな、と。

 

社会的な意義、という話しで言えば「消すなよ」で終わりなんですが、一方で、事業継続であったり、事業のコア・コンピタンスであったりを考えると、一択であったのだろうと思わなくもない。

 

先日の決算でも触れているが、ニコニコ動画は良い意味でも悪い意味でも「自由」について重きを置いている。例えば、ある物事を肯定する自由もあるし、同時に、ある物事を否定する自由もあると。

 

今の世の中では、ある物事について一つの物差しで測ることが多い中では、ある意味特別なもので、まさにそれがコア・コンピタンスであると認識したのだとは思う。

考えてみれば、そもそもニコニコ動画の歴史というのは、グレートとの共存であったわけで、それ自体が自由と同時に存在するグレー、それも限りなく黒いグレーを如何に白と見做すか、という事との戦いであったと思う。

 

企業としてそんな選択をしてよいのか?という人もいるだろうが、そもそもどのようなご立派な企業であっても、こういった点での駆け引きは行っている。それが、動画配信のような単純に目に見えやすいというだけであって、おおよそ世の中のご立派な上場企業の全てが、何らかの矛盾であったり事業上の選択として社会的に見れば不適切ではないのか?という選択をしている事は少なくない。

 

それらの結果はいわゆる「強さ」であったり「個性」であったりに繋がるので、この選択を否定してしまうというのは起業家としてはあり得ないのはわかる。

 

で、本質的な問題は、実は日本社会の構造ではある。

確かに、規約で縛れば良い、というのは素人目には正しいと思われガチだが、その手の方法では結局いたちごっこを続けるだけで、別に投稿する側がいなくなるわけではない。

「見えなくする」という事は大事ではあるが、それ自体にはなんら社会的構造を改善しているような効果はないので、日本にあるいわゆる特定属性を明確に否定するようなものはなくならない。

 

企業が社会の一員として社会的な指針に従うべきである、というのは正しいものの、同時に企業が合理的に利用者を制限するというのは、反差別の観点でも法的な整理が行われなければならない。

その一つとして「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立したわけですが、中身を見るとかなり玉虫色ではある。

その上、そもそもこの法案事態の成立についても結構微妙な意見が多く、所謂表現の自由との兼ね合いはどうなるのか?国が個人の意見・活動について一方的に判断しそれを取り締まる事を正しいものとして良いのか?という問題も逆に起きている始末。

 

というもの、そもそも「差別」を取り締まるとなると「差別」の定義の議論に至る。

 

で、これが難しい。

 

「多くの人が不快と感じればそれは差別だ」などと、笊な定義にしてしまえば、恐らくは多くのデモは何らかの差別として取り締まられる事になる。つまり、少数意見が黙殺されてしまう社会、絶対多数が正義となる社会になる闇が見えてきているわけで、実はこれは左派も「やばい法律に繋がりかねない」と普通に理解している。

 

なので「規制」とは「自由の制限」との常に線引きが求められるわけで、それを一般人にわかりやすくしているのがニコニコ動画の方針であるのだろうとは思う。

 

 

と、介錯しているわけですが、まぁ、それでも削除についてはもう少し丁寧に対応するべきではあったと思うし、その選択が事業の生き残り、つまり自らが理解するコア・コンピタンスであると主張しているわけなので、もう少しわかりやすく、そして企業も社会の一員であるという部分についてもぎりぎりまでケアするような攻めの姿を見せてもいいのかなとは思う。

 

ただまぁ、今のままだとあと5年もするとニコニコ動画自体が差別主義よりも前に消えてしまいそうな雰囲気はあるのですが・・・。