何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

自分にとっては必然、他人にとっては偶然

 

電車内で言い返せない母親を責め立てるのがいかに格好悪いか。赤ちゃんと母親は乗客皆で守るべき。 - 主夫の日々

本文とまったく関係ないのだが、貴方の周りには相当な子供を嫌うオーラが満ちているように思えます。具体的には事件と引っ切りなしに遭遇するコナンまたは暴漢に遭う蘭並の引きなので一度お祓いする事をお勧めします

 

本文とほぼ関係の無いコメントで恐縮です。

が、一応意味ありますので・・・。

 

主夫の記事を書き始めるというのは最近というかここ数年非常に多いケースで、ある程度話題も得やすく、まだまだそういったブログ数自体が少ないという事情もありますが、こういったはてブもある程度上がってきますね。

 

で、こういった記事を書く場合も、読む場合も気をつけるべき視点というものがあり、それは「自分にとっては必然、他人にとっては偶然」というものです。

 

前者はちょっと強引です。韻が悪かったので「必然」としました。すみません。

 

こういった記事で煽られる場合は大抵が男性であるわけですが、個人的にはそんなにこういった事が溢れているとは思いません。

1年間で私自身がそういった事に遭遇するケースというのは、1週間に5日は会社を往復し、土日も外にでて、そして子育て世帯に補助がでるマンションに住んでおり、つまりは子育て世帯が周りに溢れいているような私ですが、そういったものを見かけるのは年に1回または2回あるかないか程度です。

 

一方で、記事主のような方は、記事を拝見するとほぼ毎週何かしらの不遇な状況に遭遇しています。

ちょっと意地悪なぶコメですが、一見すると本当に「お前はコナンか!」と思うほどの確率で遭遇しており、またそれ以外でも子育てに理解のない周囲の環境、男女間の問題に理解のない環境、etc・・・、ありとあらゆる男女間の問題を一身に背負っているような雰囲気の記事が続きます。

 

実はこれは2つの当然の事象により起きています。

 

まず1つは本人からすれば全てに不満があるから。

「全て」なんて書くと「全てではない」と言われそうですが、もっと判りやすくいえば、自分の視点が理解されない、共有されない事にストレスを感じるというものです。

タイトルにも書いたように、自分の行動や行為考えは常に必然であり、偶然すれちがった人との間の事柄も1対1の一つの事象となります。一方で、偶然すれ違った方からすればN分の1の事柄に過ぎず、極論言えば「そんなことあったっけ?」という程度の認識かもしれません。

これは凄く重要なポイントで、自分が感じているほど他人は自分に厳しいわけでも、実は悪意があるわけでもないかもしれないという事であり、同時に、貴方が考えているよりも相手は負担やストレスを感じているかもしれないという両面の意味があります。

 

昨日の話題で「コミュ障」の言葉遣いという話しがありました。

 

勝又健太@テック系Youtuber on Twitter: "「コミュ障エンジニア」の他の特徴として、Slackやプルリク等での文章のやりとりにおいて「断定形/詰問形/命令形が非常に多い」というのがありまして、「違います/〜しましたか/〜してください」みたいな、ビジネスマナーを理解できてない… https://t.co/ChM3eZ78m6"

自分が解説している事が受け手によって評価が分かれるという事象を自らのツィートにより表現することによりコミュニケーションとは双方の意識を疎通したいという気持ちが大事だというメッセージへ変換している(はず

 

これも同じ事だと私は思います。

相手が「コミュ障」だと定義した瞬間に相手と自分の関係は決まってしまい、自分は正しい、相手が正すべきとなります。

そしてそれを補強するために周囲に「こうした方がみんないいよね?」という本来不要な同調を求める事になります。

確かに「こうした方がみんないいよね」という事には一定の理解があつまるでしょう。なぜならば人はある一定のルールの中で行動する方が安心感を得られますし、一体感も得られますから。他にもイライラしないとか、まぁ、いろいろあるかもしれません。

 

が、一方で、相手は本当に「悪意」をもってそういった事をしているのか?という視点は完全にかけているでしょう。

 

本日の話題で外国での労働では賃金が4倍というものがありました。

 

マカオ転職で給料4倍! このままでは日本の賃金が危ない! (1/3) - ITmedia ビジネスオンライン

うーん、日本人労働者で外国人のホワイトカラーと同じレベルで働ける人ってそんなにいるかなぁというのが本音。おそらく日本人同士でイチャイチャしているようなレベルで外国人と働くとか確実に無理なんだけど・・・

 

私は香港や中国を中心に比較的海外との仕事が多く、インドやマレーシア、ヨーロッパ系の方とも直接・間接的に仕事をする事が望まないのですが定期的に生まれます。

私の英語力は0に近く、その上中国語(2種)、フランス語、スペイン語など当然話せるわけもありませんから、それぞれ必要に応じて通訳の方がフォローしてくださるわけです。

 

で、その場合に常に言われるのは「目的を明確にして下さい」という事です。極論いえば「どう思いますか?」とか「と思うのですがいかがですか」のような曖昧な問いを訳し伝えると「貴方はどうしたいのですか」となるのが通常です。

 

特に仕事では「自分はどう思う」という事と「自分はどうして欲しい」という事を明確に伝え、相手も私に対して「わかった」「無理」「条件がある」のような具体的な反応を基本的には返します。

 

あの条件があるがの時に「OK〜」と軽くいった感じの後に、サクッと微妙な条件を軽く話す感じは日本人では最初は戸惑うかもしれません。

「お前、それ、ぜんぜんOKじゃねーんじゃねーの?」みたいな。

ただ、具体的に条件は示されますので、今度はこちらがそれを受けるのか、受けないのか明確に意思表示をすればといだけの事ではあります。

 

ちょっと脱線しましたが、つまりは、コミュニケーションというものは立場が変われば受け止めるべきポイントや受け止めかたそのものが変わるという事です。

 

当然日本人同士のコミュニケーションでわざわざ外国人とのコミュニケーションを意識して方向性を修正する必要はありませんが、例えば、前述の議論であればコミット時のコメントはどうするかという話しであれば、別に断定系でも問題ないですし、むしろ省略すべきことはバシバシ省略すればいいし、それが判らない時は普通に聞けばよいだけのことですからね。

そういった適宜状況に応じて対応することこそが「コミュニケーション」であって、相手に求めるというのはそれは自分よりも相手の方が「コミュニケーション能力が高い」と自分が考えるから求めるべき事であり、相手を「コミュ障」と定義しておきながら相手に改善を求めるというのはどうかな、と思います。

 

このように、立場が変われば今まで見えなかった事が見えてくる、というのは当然のことです。

ただ、注意して欲しいのは、その事が「全て」ではないという事です。

 

政治的な話題でもそうなのですが、自分と違う意見は「右だ!」「左だ!」と言い始める人がいます。

実際の世の中はそれほど極論には満ちあふれていなくて、大抵の人は、右も左もいろいろな考えを織り交ぜてもっている事が普通です。

これを「ダブルスタンダードだ!」と罵る人もいますが、そもそも人はそれほど完璧ではありません。

 

つまり、ある局面で子供に対して不適切な行動をとった人がいたとして、その人が全てを否定されるべき人間であるかといえば私はそうは思わないし、もっと言えば、その人にもその人の視点があり、許容できる事、許容できない事もあるという事です。

 

男性が育児に参加する事で、これまで女性の視点でしか語られなかった事がもっと踏み込んで、実体験として語られる事は凄く良い事ですし、もっと広がるべき事だと思います。

というか、そもそも子供には少なくとも同数程度は男親もいるはずなわけで、それが直接なのか結果的には間接的なのかというのは状況によるとしても、少なくとも同数程度は子育てに関わる男親がいるべきで、そういった状況であれば、こういった男性が子育てについて語るブログが「珍しい」という事で目立つという状況ではなく、「為になる」とか「拠り所」としての存在になって、当然の状況になることがあるべき姿であると思います。

 

そして、そういった人を、つまり自分と同じ境遇、子育てをする男性だけでなく、当然女性もいるわけですから、私はそういった人達が抱えている不満や境遇を上手に伝え、それを理解できない人達とどうやって橋渡しをするかという事の方が大事だと思います。

 

理解できない人に対して「お前はクズだ!」と罵るのは、正直あまりお勧めしません。

実際「クズ」なのかもしれませんが、ただ、相手を「お前はクズだ!」と罵ってしまうと、一定数の「興味の無い第三者」の反感を買う事が多いのです。

この「興味の無い第三者」とは、子供にも別に興味は無く、別に嫌悪感も持たないものの、ただ、一方的に義務を負わされる事を嫌う層です。

 

子供は社会が育てるもの、というのは私も理解しますし同意します。

が、世の中にはそう思わない人もいるわけです。

そういった人を「敵」として定義してしまうと、これは「子育てをする層」または「子育てを支援する層」つまり「肯定派」と、「子育てに興味の無い層」または「子供が嫌いな層」つまり「否定派」の争いになりかねません。

 

このこの争いは正直非常に無意味で、結局最後は「倫理感」とか「一般常識」というようなもので相手を縛る以外には無くなります。

というのも、そもそも「子供が騒ぐのは当然ですよね?」のという価値観を肯定していない人と共存するわけですから、そういったもので意見を合わせる事など最初からできないのですよ。なので、どちらかの言い分で相手の言い分をねじ伏せるしかありません。

 

私は根本的にこういった何かで相手をねじ伏せるというのは好きではありません。

いや、実際自分が生活の中で論理的に相手をねじ伏せていないか?と問われるとアレですが、それでも一定の自由や選択権は与えた上で、その上で合理的な選択肢として選択してもらえるよう配慮しているつもりです。

まぁ、完全に自己弁護ですが。。。

 

「持続可能な社会」というものを考えた時、以前述べているように、基本的には当面、それもこれらか相当長い期間、子育て世帯というのはマイノリティとなります。

 

これは「子供を育てる苦労」というものが、どんどん共有されない社会になっていくという事です。

 

この事実と対峙するときに考えないといけない事は、社会として「子供を受け入れる人」「受け入れない人」という溝を作らないようにしなければならないという事です。

 

もしもこの溝を作る方向で議論が進めば、つまり短絡的に「義務」のような形で相手を縛る事を当然としてしまえばおおよそ多数はは「子供を育てていない人」になりますから、判りやすい部分では理解を示してもらえるものの、所謂実体験に基づかないと理解できないような問題は全て黙殺されかねません。

 

そう考えたとき、つまりは「自分にとっては必然、他人にとっては偶然」と考えれば、自分の境遇や状態を相手はなぜりかいできないのか、という視点も少し持って欲しく、そしてそこからどうすればそういった状況を共感してもらえるか?という方向で動いて欲しいなと思います。

 

今後も男性が子育てに積極的に関わる(この表現がそもそもおかしい)事が増えるでしょう。その時に男性が果たすべき役割は、女性と同じ事をする事も大事ですが、男性だからこそできる行動や視点、そういった事も一つ役割として担って欲しいと思いますし、私は自分がそういった立場になれば担いたいと思います。

 

おそらく男性がそういった事に参加した時「女性のこの気持ちがよくわかる」という意思表示をする事が一番共感を得られるとは思いますが、それはいわゆる「内輪の共感」を得ているに過ぎません。

 

「内輪の共感」は、自己肯定感こそ充足すれど、そこから得られるものは極論言えばなにもありません。

 

当然子育てのストレスや不安をブログを通じてただ発散するというのであればそれで満たされると思いますので話しは終わりですが、記事やブログからはそういった状況に一石を投じるという意思も感じますので、そうであればそういった「内輪の共感」だけでなく、もう一歩進んでみるのもよいのではないかと思います。

 

なお、もう一つのですが、既に述べているので端的に。

つまり「そういった話題に触れる方が共感や話題を得やすいから」です。

男性が育児をただ頑張ったという話しですと正直埋もれます。

ですので、そういった話題を常に書き続けるというのは良くある手法です。

が、あまり無理に話題を作り続けると、見る側もちょっと飽きてしまうので、そういった視点でいるようであれば短命なブログにしたいのか、それとも息の長いブログにしたいのか、一度冷静になって頂く方がよいのではないかと思います。

 

最初の頃はぶコメも少なかったですよね。でもあの頃の記事は結構きらいじゃないです。

 

 

この記事とか、正直今と比べるとつたない構成ですが、中身は凄く真に迫るものがありますよね。これは貴方自身の実体験でありそこに貴方の視点が凄く入っています。

その前のいつまでもあると思うな「親子の時間」もいいですよね。というかその後の【子供連れはただ外出するだけでも滅茶苦茶大変】~ある夏(夏休み)の日の子供達との過ごし方~も面白いと思います。

 

この頃の記事が個人的には好きで、なぜかといえば記事主の日常が凄く見えていたから。

当然今書かれている事もそうなのだと思うのですが、それはどちらかというと世に溢れている声を拾っているように思えるのですよ。世にそういった事が溢れいているというんは凄く残念なのですが。

 

例えば男性が「家事・育児」に参加しにくい理由という話し。これはなかなか攻めている記事だと思います。なぜ男性が参加しないのか、女性から言われている何気ない言葉にどう感じているか、まさに男性という書き手が生きている記事ですよね。でも女性からの共感は得にくいですよね。この後にある【前編】子育ての大変さがイマイチわからない男性のために部下に置き換えてみたら想像以上にヤバくなった件あたりは、そもそも育児に参加していない男性にどうやって理解させるかという、私が上で触れたような視点で書かれていてなかなか興味深かった事を覚えています。

 

なんか私の視聴履歴を延々と思い出しても意味がないのですが、昔の記事は、貴方にしかかけない記事だったと私は感じているんですよね。

 

そういった視聴者からすると、ちょっと最近の「育児に理解のある人」と「育児に理解の無い人」の対立を主とした記事というのは、おそらく反響はそちらの方があるのでしょうが、ブログがもっていた個性が失われて、だんだん世に溢れる、いわゆる共感を得やすいネタを扱うブログになっていっているような気がします。

 

いや、最近の記事もそういったものばかりではないのですよ。

でも何というか、そういった記事の方がバズってますよね。で、そのバズった感じの記事が最近は定期的に出てきているように感じるのですよね。

個人的には他の記事と比較して方向性が一気に振り切っている感じではあるので、そうういった怒りなんだろうとは思いますが・・・。

 

常に書いていますが、当然ブログは個人が勝手に書いているものですのでどのような方向性で書いてもよいと思うのですが、ちょっとその辺にある普通のブログというか、子育てに奮闘する男性というか、そういったオリジナリティが失われていく記事が増えるのは残念だなぁと思わなくもありません。

 

2つめの理由は杞憂であってほしいものですが、ちょっと気になる点ではありました。

 

まぁ、コナンが事件に遭わないというのは、もはやお話として成立していないわけですが、ただ、子育て中の人が不遇な境遇に常に置かれているとは私は思わないのですよ。おそらく多くの人は貴方が気づかないところで沢山の小さな配慮をしてくれているし、たぶん貴方も周りの人が気づいてくれていない多くの努力をしていると思います。そして、その中心にいる子供自身も我々大人が気づかないような沢山の不安や恐怖、そして喜びや感謝のようなものももっていると思うのですよ。

 

そういった全ての事が沢山あると思うので「対立」や「怒り」というものだけが溢れているような絶望したものが「子育てである」というのは読み手の感想としてちょっと残念ですかね。

 

と、個人的に感じた次第です。