何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

なぜ彼が正しい事を言っていると妄信できるのか

 

安田純平氏へのバッシング、いちジャーナリストとして思うこと(安田 峰俊) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

コメントの内容は彼の言葉を理解できてないのではと目を覆う。彼が言いたいのは情報とは自分で検証しなければ是非の判断はできないものであるとの話で、彼自身の記事が妄信的に賛美されれば正に矛盾でしかないのだが

 

くらくらする。

 

いや、凡そ記事の中身は間違いではないと思うし、仮に中身に多少の間違いがあったとしても記事が主張している事の真意は変わらないので、そういった意味で彼の記事には価値がある。

 

が、読み手の行動とはそれに反するものでしかないのでは?と思わずにはいられない。

 

彼は流れてくる情報をただ都合よく解釈し、それを理由に都合よく人を批判するという行為について、それは本当に正しいのか一度考える必要があると、判断できる情報がないのであればまずは情報を入手し、可能な範囲でそれを考えることが必要なのではないのかと説いている。

厳密には、説いているわけですらなく、自分にとってはそれが必要だと感じたし、自身もプロとしてジャーナリストをやっている以上そうすべきだと彼は自身で考え、自身の信念で行動したに過ぎないが。

 

では、彼の記事を読んだとき我々はそれをしたのか。

まぁ、してないような気がするよね。

 

結局、今のネットの限界というか、今の視聴者の限界とはここなのだと思う。

 

仮に彼(安田純平氏)がバッシングを受けているわけではなく、賛美されているケースでも同じであったと思う。

 

結局のところ自己の心情に近い結果であれば妄信するという事や、その中身が真に迫っていれば妄信するというのは、実は詐欺グループのつけ入る隙と同じで、彼らはそういった人間の思考のズレというか問題を突いている。

 

安田峰俊氏が嘘を書いているとか、都合の良い誘導をしているという話ではない。

 

問題は、人は情報の踊らされやすいというか、どちらかというと現代人は情報に踊りにいっているという話だ。

 

この情報に触れて、書かれている内容は記事主の視点での行動を説明しており、凡そそれは真に迫っていると思うし、実際記事主がわざわざ嘘を書く必要もない。

 

が、虚偽とは実際にはそういった人間の考え方を利用するもので、それがいわゆるまとめサイト問題やキュレーションサイトにおける虚偽情報の掲載問題であったと思う。

 

内容が真に迫っていればそれは事実である、とはならない。

 

端から見ていれば「なぜ積水ハウスはあのような雑な詐欺に引っかかったのか」と思うだろうが、今この記事をみて「ほう、そうなのか、どれどれ」と最低でも幾つかのファクトチェックをした人が何人いたのだろうか、と考えると、正直くらくらする。

 

コメントからはわからないし、もしかすると多数の人間がファクトチェックを行った上で、それぞれの結論を出しコメントを出しているのかもしれない。

 

もっとも、私ですら記事中のいくつかの情報しか調べられなかったので、それほどスピーディーに情報を査読できたとは到底思えないが。

 

ただ、記事に盲目的にコメントを書く事は悪い事ばかりではない。

人間の本心であったり、いわゆる感情といったものはそういったところにでるわけで、それは例えばこの話題について「本当にそうなのか?」と一つの疑問をもっていた人間にとっては「やっぱりね」と飛びつきたくなる情報でもある。

 

だからこそ、その内容が正しい事を我々は確認しなければならない。

 

ジャーナリストが全て悪人であるわけでもない、が、我々は常に「基本マスメディアは糞」というスタンスで触れているように思える。

 

そういった中で都合の良いときは「このジャーナリストは素晴らしい」と妄信的に評価するようでは、結局のところは彼が記事で書いた事について、何ら伝わっていないのではないかと思わずにはいられない。

 

もっとも、ジャーナリストやマスメディアに対する信頼が損なわれているという状況が一つの問題ではあるのだが、その信頼自体の評価ももしかすると我々はもう一度やり直す必要もあるのかもしれないとは思うが。