何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

許す、許さないではなく、理解する力を養う事が大事

 

「謝ってるから許しなさい」他人を許すことを強要する教育に違和感…謝ったのに許してくれないという思考が生まれる原因にも。大人はどう対応すべきなのか? - Togetter

お前ら本当になんでも違和感を感じるのな。この話状況によるし関係者、その対応などあらゆるものに左右されるわけで正しい答えなんてない。許さない事も自由だし一方で許さない人間になったらそれはそれで大変だぞ?

 

皆もう何でも違和感、既存の価値観はおかしい、それ本当にいいの?とか、もう大変ね。

 

あえて話題に乗ると、私は許すとか許さないというのはそもそも論じる意味はないと考えます。

 

ケースとして、例えばAくんにBくんが悪戯をして、Aくんが怒っているケースで考えます。

この時、BくんがAくんに謝ったとして、Aくんはそれでも許せないとします。

 

ここで問題とすべきはAくんが許すか、許さないかではないでしょう。

それは個人の問題ですし、極論言えば、Bくんが謝るか謝らないかも同じです。

 

一番重要なことは、まずBくんに対しての接し方は「なぜそういった事をしたのか
?」という事でしょう。

特に子供のケースでは、大人や周囲から見るとただの「悪戯」や「いじめ」のような迷惑行為でしかない事でも私たちとは違う考えやなかなか理解し難くはあるものの「悪意のない間違った善意」でやっているような事もあります。

この時、大人や周囲が「謝りなさい」と一方的に言ってしまえば言われた側、つまりBくんはなぜ謝るのかを理解できませんし、そもそもなぜAくんは怒っているのかも理解できません。

背景を理解し、Bくんの行動を正しく理解する事がまずは大事で、結果としてBくんの考えや行動に問題があれば、具体的にその問題をAくんも含め話してあげる事が大事です。

そうすることで、Aくんへの謝罪も適切なポイントを抑える事になりますし、Aくんも自分の怒りを理解されているとして受け入れやすくなるでしょう。

 

当然「悪意のない間違った善意」であった場合、その行動に一定の理解を示す事も大切です。その行動には意味があったわけで、その意味を理解してあげなければ、Bくんも自分の考えや行動に自信を失ってしまいます。何が間違っていたのか、何がズレていたのかさえ理解、修正できればそれは間違っているわけではないのですから、そこはしっかり理解してあげる事が大切です。

 

一方で、Aくんとも会話する事が大切です。

一部の虐めにもある事ですが、人の感じ方や受け止め方は千差万別です。

ある事は他人からすれば大した事がなくとも、その人によっては凄く意味があり重要な事が隠れている事も少なくありません。

その為「怒っているから謝る」といった条件反射的な対応をしてしまうと「何に対して謝っているのか」という点がズレたり、ボケたりし、逆に謝る行為が相手に対して「理解もしていない」事の表れとして写り、余計に事態を悪化させます。

また、ある点の状況での加害者・被害者というものは、全体を通した場合に本当にその構図であるのか?というのはなかなか判断が難しいという事もあります。

例えば、結果的に泣いてしまったのはAくんだったが、実はもともとはAくんがBくんに対して何か言ってはいけない事を言ってしまった、悪意はなかったが何かしてしまった等、そこに至る背景にも配慮する必要があります。

 

場合によっては被害者自身がその事を理解している場合もあります。

そういった場合、被害者自身も自分の落ち度がわかっているためただ謝られるとばつが悪く、余計に話しが拗れるような事もあります。

そういった場合は、当然そういった背景を双方に理解させて、その上でお互いに謝る事も大事でしょうし、場合によっては「謝る」必要もないかもしれません。

 

また話しにでている「謝罪を受け入れる事を強要するのはどうなのか?」という話しについても、これはこれで非常に難しい話しです。

確かに謝罪を受け入れるかどうかというのは受け手の問題ではあります。ただ、仮に謝罪を受け入れない理由がなにであるかそこでは明らかなのか?という問題もありますし、仮に受け入れない事を是としてもそれが結果的にその人の人生を生きづらくしないか?というジレンマも生まれます。

他人事なので皆軽々しく「自分が折れるような人生なんてゴメンだね」といえるのかもしれませんが、その選択は状況によってはその人のその後の人生を左右する事になりまねません。そういった時「そういった理不尽」とどうやって付き合うか、折り合いをつけるかという事を学ぶのも生きる上では凄く重要だと私は思います。

 

いや、確かになぜ「理不尽」と付き合う必要があるのか!とは思いますよ。

でも、人が一人以上一緒に生活するという事は、社会という枠組で生きると言うことは、確実に異なる価値観の人と一緒にいるわけですから、何かしらの「理不尽」と付き合う必要がでてきます。

それは「自分が正しい」場合もあれば「相手が正しい。でも受け入れられない」事もあります。

そういった事を全部ひっくるめて「理不尽とどうやって気軽に付き合うか」という事を学ぶ事も大事でしょう。

 

「責任感を持つ」という事と、「無理をする」という事は似ているようで全く違います。

 

「理不尽とどうやって『気軽に』付き合うか」というのは、この違いを理解する事であったり、その違いをどうやって整理するかという事であったりしますが、それを大人になってから学ぶ事や、対応できるようにする事は非常に難しいものです。

 

そういった物を子供であったり学生にうちから旨く付き合えるように、周囲の大人が対応する事も「教育」であったり、「知識の共有」なのではないかと思います。

 

世の中が理論通りで万人が同じ価値観を持ち、全て正しく、誰も間違った事をしない、そして常にベストな状態が維持されるなら良いですが、そんな事はありません。

 

悪意のない失敗、悪意のある行動、善意の失敗、善意の迷惑行為などなかなか世の中は難しく、それと付き合う事が正直仕事よりも体力を使うというのは少なくないでしょう。

 

そういった意味でも「許す」「許さない」ではなく、「理解する」という事をまずは学び、その上で「どのような選択をするべきか」という考える力を養う事が大切であると思います。

 

正直人生とは最善でないときに、如何に最善の選択をするか、という事ではないかと思うし、そうでないとき(つまり、最善の時)にはそもそもどのような選択をしても大抵は後悔しないものです。

 

そういった話しなのではないかなと思います。