何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

世の中に万人に万能な「当たり前」は存在しない事を理解すべき

 

ダンプカーのブレーキから出火しコンビニで消火器を借りようとしたが、貸してくれずにダンプカーが全焼して駐車場の修理費100万円超えを請求された - Togetter

請求自体については仮に消火器を貸し与えたとしても発生しうる話しなので関係がない。消火活動への支援を断ったという点については、結局社会的信頼性への影響だけにかぎられるものだと思うが。冷静になるべきかと。

 

これ自体については、店舗自身も延焼時の影響であったり、社会的影響を考えた場合に貸し与えるべきだったとは思う。

 

一方で次の様な意見については私は同意しかねます。

 

 

まず、「人として当たり前」という価値観は傲慢であることを理解すべきです。

人には立場、状況あらゆる点で違いがあり、貴方に当然にできる事が、他人にとっても当然にできることではありません。

その「できない事」をただ一方的に責めればそれは言い換えれば、貴方にできない事を他人ができるとき、貴方も一方的に責められることを無条件で受け入れるという宣言に過ぎません。

仮に、貴方自身はそういった非人道的な価値観を正しいものとしても、社会的にはそのような一方的で独善的な価値観は正しいものではありません。

 

仮に相手が間違った判断をしたとしても、まずは冷静になぜそのような状況に至ったのか、そしてそれは組織的責任によるものか、個人的責任によるものかを考えるべきです。

 

例えば、具体的な店舗を出していますが、その責任を誰に押しつけているのでしょうか?

まず第一義に自己の原因は車両の所有者にある事は明らかです。

車両の保有者は同車両を使う前に安全確認措置は都度、確実に行ったのでしょうか?

つまり、この火災は、車両の整備不良や運転手の過失によるものではなく、自然発生的に起きたものであり、基本的に運転手に過失は無かったと言い切れるのでしょうか?

 

と、言われれば、当然「は?この話しにそんな事関係ないだろ?」と言いたくなる人が現れます。

 

当然です。

ですが、その視点の違い、考え方の違いというのが、人が集団で生きる「社会」で当然に起きる違いなのです。

 

ある事が起きれば、そこには様々な視点での考え方があります。

結果として、自分にとっての当然は、他人にとっての当然ではなく、そこから導き出す答えも同じではありません。

 

店舗側が緊急措置に協力しなかったという事実は事実です。

その上で、社会としてそういった行動にどういった意見を持つかは社会を構成するひとりひとりが考えればいいのです。

ただ、その時、自分の考え方が正しく、他人の考え方は正しくないと一方的な価値観で決めつけたり、また、自分が価値のある行動をとった(とれる)としても、それができないひとを貶める必要はありません。

 

他人の失点は貴方の加点ではありません。

貴方が実際に行動したとき、それを他人から評価して貰えばいいのです。

 

実際に行ってもいないことで、他人が出来なかったことを批難するというのは、もっとも最低な発言であり考え方であると私は思います。

 

仮に自己正当化したいなら、その時、自分は別な場所から消火器をもって駆けつけ、店舗に変わって消火活動を行ったと、そういう事であれば、消火活動をしなかった人、店舗に対して「道徳的観点」で発言する事が許されるでしょうが、自身も結果としてそれを行っていないのであれば、その事象については、どちらも「結局なにもできていない」事に変わりはありません。

 

そういった自己に都合の良い考え方は少なくとも「道徳的価値観」ではありません。

 

物事を議論するとき、評価するときは冷静になるべきだし、事実とそれ以外はわけるべきで、事実について議論し評価する事はかまわないと思いますが、事実出ないこと、自身が行っていないことで他人を評価する時には少なくとも「結局自分も同じようになにもしていない」という事を理解した上で発言、評価するようにして欲しいものです。

 

それができないなら、社会からすればただの一方的な正義感や意見を振りまくだけの存在でしかありませんよ。