こういう意見への批判は結局子育て世帯批判への免罪符を与えているにすぎないかと。なぜ非子育て世帯がそう思うのかというところも考えていかないとそういう世帯が増加する社会で子育て世帯への理解は広がらない
よんだ。
元記事への意見というよりも、個人的な見解、特にぶコメへのコメントなんですが。
まず、非子育て世帯(単身者や既婚でも子供のいない世帯、場合によっては、既に子供が成人となり子育てを行っていない世帯等)に対して「お互い様でしょ」という一言で理解をしろというのは、非子育て世帯が言っている「今この時の俺に役にはたっていない」という意見と同じかと。
とくに具体的な事例を示せとかそういうことを言うつもりはないのですが、少なくとも相手がなぜそういう事を思うのかという点について配慮していない時点で、多数派についているのか少数派についているのか、言い換えれば、与党か野党か程度の違いで、別に意見の正当性の議論にはなっていないから。
もっとも、子育て支援を非子育て支援であっても行わなければならない理由なんて明確で、自分が育つためにどのような家庭環境であっても政府の支援や周囲の支援がゼロということは基本的にありえないので、その部分の負債を返しているだけであって今子供がいるかどうかという事はまったく関係ないから、その点では議論の余地はないけどね。
一方で、以前も書いた通り、残念なことに今後の世の中の意見の流れは「子育ては社会責任」というものが主流になり続けるかというのは相当微妙。理由は単純で、一つは人口構成上の問題。ふたつめは、未婚率の上昇と、出生率の低下。そして最後に非責任世代の増加の問題によるかと。
一つ目の問題はシンプルで、どう考えても人口構成上、高齢化が進み現役世代の発言力はどんどん削がれていく。その上、税収は限定的である一方で社会福祉負担はどんどん増加すると。政治への参加が可能な高齢者と違い、子供自身には投票権がないわけなので、反映される政策の流れも少なくとも「高齢者向け>子育て世帯向け」となるのは避けられない。それがいいか悪いかではなく、そういう流れが来るという事ですね。
流れが一度できてしまうと、申し訳程度にしか世の中はそういった方向に向かないので、メディアも含め議論の対象とすることが減り、結果より支援が少なくなる可能性が高い。これはリスクの一つという事で。
二つ目の問題は、根本的に『同じ悩みを抱える味方』が少なくなるという事。
これから子供を持つ事を考える人を含め、結果的には、そういったことを身近に感じる人が減っていくわけで、そういう意味では、今までの流れ(ベビーブーム等)とは違い、後押ししてくれる周囲の力はどんどん減ってくる。
さらに厳しいのは、今までは、「子供を持つ」というのが比較的当たり前の価値観であったと思うんですが、これからは「子供を持たない」という人が現役世代であったり、高齢世帯に増えていくわけで、そうなると社会的な価値観として「子供がいる」であったり「子供を持つ」という事そのものへの興味がない人が増える事となり、結果、『理解者』が圧倒的に減っていくことが想定される。
もっと踏み込むと『減っていく』ではなく、『価値観自体が変化する』といった方がよい。
つまり『社会で子供を育てる』という価値観が、『子供がいない』『子供を持たない』という多数の価値観の中で少数派になり、結果、社会常識が変化し、これまで当たり前であった『社会で子供を育てる』という価値観が変化してしまうという事です。
そんなことあるわけないでしょ?と、思うでしょうが、これと同じ話は『夫婦別姓』であったり『非既婚化』であったり、今も既に昭和のころとは違う価値観が増えつつあり、既に『社会常識の変化』は起きているわけで、その事実から目をそむけてはいけないかと。
最後の非責任世代の増加というのは、ちょっとあれなんですが、昔は社会に責任を持つというのは比較的シンプルな考えでした。
この考えがいいか悪いかという事は置いておくとしてね。
例えば、会社を支えるという事はサラリーマンの責任で、その為に犠牲を払う事に違和感は覚えても、それを実行する事こそが自分の役割であると。
(繰り返しますが、正しいか、正しくないかではないですから)
ただ、今はそういった視点でいうと、社会に対する責任という価値観も変わっており、おそらく、我々より上の世代から見れば社会や多数の物事に無関心であったり、責任を負わない、もっと言えば、責任を負いたくない世代だと思われているかと。
まぁ、実際はそんなこともないんですが、昔と比べると興味関心のある事に没頭する人が増えたり、そもそも他人との関係性が薄くなったこともあり、あまり社会性という事が必要でなくなっただけであって、別に責任を放棄している人が多いわけでもないんですけどね。
一方で、責任というものについて負いたいと思う人が減っている事は事実かなとも思います。その原因の一つは責任を追って得られるものが何もないという事もありますが。
ただ、そういう世代であることは事実で、その世代の最大問題としてはやはり意思統一が図れない事かなと。
多様化が進んだ結果、自身の意見を述べる事は出来るようになったが、一方で他人の意見を聞く事はほとんどできていない。これは社会性の欠如でもあるし、もっと言えば、社会責任を負わない世代固有の問題にも思える。
もっとも、社会性が欠如したというのはあまり正しくなくて、社会性を培う場所が減った結果、その経験が不足しているだけなんだろうと思っている。
実際、いわゆる『社会人デビュー』した結果、学生時代とは全然ちがう人になったなとか、化けたという人はいるわけで。
(その逆もいっぱいいますが・・・)
この最後に挙げた部分が、ぶコメでも見られ、自分の意見は正論で相手は駆逐すべきという極論な意見がそのあらわれだと思う。
こういった考え方は、結局のところ相手の意見に耳を傾けないという点では、まったく正当性はないわけで、社会的にみると、どっちも一方的な意見過ぎて拾えないわけです。
(社会という視点で見れば、子供も、大人も少なくとも同じ構成員なのですから)
以前も述べましたが、必要なのは『調和』であって『反発』であったり『排他』ではないかと。
子育て世帯を社会全体で支えるというのは避けられない問題で、場合によっては他者から『極端な優遇措置』とも思える大胆な策を講じる必要もある。
(国によっては、金銭的補助以外にも住居や光熱費の全額補助等もあるぐらいなんで…)
そういったときには、より今よりも反発の声は高まるわけで、そういったときにもその必要性を理解してもらえ、そうすることに意味があるという事を理解してもらえるようにちゃんと勧める必要が政府にも社会にもあるかと。
『移民政策』であったり、『高齢化問題』であったりを議論するとき『排他』的な意見は全く役に立たないので、まずは問題点や争点を整理、せめて『なぜ?』と問う事や姿勢は最低限必要かと思いますが。