何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

「嫌なら見なければいい」という意見の危険さ

 

「嫌なら見なければいい」〜ベーシストBunさんの分かりやすいSNSルール|愛情料理研究家 土岐山協子の 『料理はしないんだけど料理研究家のブログ』

この人の言い分は、今までTwitterで迷惑行為をツイートして他人がリツイートしたときに「他人に見せる気はなかった」っていう明後日の意見と同じ。自分ルールは自分に対してのもので他人に対して求めるものじゃない

2015/05/10 04:03

 

よんだ。

 

この前の投稿については正直なにも感じなかったので放置だったんですが、むしろこっちの記事の方が興味深いので。

 

まず、コメント通りですが、ルールというものは基本的には公に認められているもののことを指します。

例えば、SNSでいうならばSNSの運営母体が明示的に公開しているものや、あとは、コミュニティーであればコミュニティの運営担当者が参加者に向けて同意を求めているものなどです。

 

一方で、公開済みのBlogやツイートについて、「これは私の言葉だ。なので私のルールに従い読むべき」というのはルールとしてどうでしょうか?

 

もしそれを正しいとするならば、過去に起きたTwitterで愚かな行為をツイートし、それが仲間内以外に見られてしまい発覚した事について「仲間内で楽しむだけのつもりだった。他人が勝手にリツイートして大事になった」という発言と同じレベルでしょう。

 

また、実名制の話についても違和感を覚えます。

私自身は、実名制を使ったある程度の抑制というものはそれなりに理解があります。

 

しかし、その話と、意見を述べる時に実名を出さないのは卑怯であるという事はイコールではありません。

 

まず、反論が存在しない記事などありません。

あらゆる記事には絶対に反論・反感をもつ相手がどこかにおり、それが形となって、つまりコメント・発言としてくる場合もあれば、そうならない場合もありますが、いずれにせよ記事や意見に対して反論が存在しないものなどないのです。

 

ですから、記事を書く時点でそういったものが起きるのは当然で、その事を受け入れる事ができないと、そもそもネットを生かす事はできません。

 

当然、「私個人のブログなのだけど…」と思う事もあるでしょうが、それであればコメント欄を閉じ、自分に対しての意見など無視すればいいのです。

それでも、はてなブックマークや第三者のスペースやその他の手段を通じて意見を述べられることもあるでしょう。

 

そういった場合はどちらが悪いのでしょうか?

意見はいろいろあるでしょうが、自分のコメント欄を閉じた、または対話を拒絶した時点でそんの結論は出せません。

 

なぜなら、コメント欄を閉じた時点で対話を拒否しているわけですから、相手は対話を拒否している相手としか認識しないのです。あなたの事を。

 

引用している文章についてもですが、自分が他者から攻撃されたときに、その事に対する自分の正当性を述べるために他人の意見をもって自分の意見を肯定するというこういうもそうです。

 

この行為は他人から共感を得る事はありません。

確実に、自己正当性を一方的に主張する為だけに第三者のブログの記事を引用しているにすぎず、結局、無責任コメントをする人間と同じ行為をやり返しているだけとしか認識されず、結果、よりコミュニケーション上の問題を悪化させます。

 

意見について波風が立つという事は、誰かと自分の意見に隔たりがある為です。

これは、悪意がある場合も含めてですが、それが悪意であっても隔たりがある以上、その事と向き合わない限りは埋まることはありません。

 

それを炎上案件としてとらえるなら、例えどのような状況になろうと口を閉じるべきですが、記事主は既に一方的に反論を開始しています。

本人からすれば、相手が勝手に自分の個人ブログに意見を述べてきたといいますが、本当に第三者に読まれたくないのであれば、完全に個人ブログとして非公開にすべきですし、関係者にだけ読ませたいならそういった設定もできますので、そうすべきでしょう。

 

年齢を見るに私とさほど差がない年齢のようですから、確かにこういったものに理解が不足しているという点について多少なり同情はします。

但し、それを良しとするなら、前述した問題行動が発覚した時に、行動を反省せずそれが発覚した経緯を嘆いた子供と同じレベルであり、そのレベルの考え方を日本はこれからの常識として受け入れるしかなくなります。

 

記事主はそれを良しとするのでしょうか?

 

炎上元の記事には興味はありません。

親の態度に対する意見等はいてすてるほどありますからね。

 

但し、ネットを使っておきながら、そのネットを自分ルールでしか利用させないという意見を親又は年長者に当たる人間が当然のように主張するという行為は私は理解できないし、そういった行動が問題化する今だからこそ、それを放置するのはよほど親の問題行為より私にとっては問題だと感じます。

 

あと、これは書くべきか迷いましたがあえて書くならば、「文句があるならいつでも私は応じますよ。但し私が指定する方法・場所で」というのはやめましょう。

それは昔でいうヤンキーのセリフや考え方と一緒です。

 

「あ?やんのかコラ?表ででろや」

 

まっとうな一般人のセリフではありません。

例えどのような書き方・表現をしてもです。

どのような場所でも意見が交換できれば話し合いはできますし、言い換えれば、例え面と向かって話し合ったとしてもだめなものはだめなんです。

話し合いはやってやる、でも、ルールと場所は俺が指定する、というのはもはや横暴でしかありませんよ。

 

実名・実社会なら負けないと考えているのですか?

だとすればその時点で貴方はもう負けているわけで、相手のステータスや見た目でしか判断できない人間という事です。

 

話し合った結果、相手が悪戯をする人間にすぎず、結果、対話を終えるしかなかった、という事ならわかりますが、最初から自分ルールでしか受け付けないなら、もうネットなんて使わなくていいと思いますよ。

 

基本私は個人の日記は個人の意見の表明の場で何を書いてもいいと思っていますが、それと同様にその記事について意見をもつのも自由だと思っています。

 

当然これも私の自分ルールですけどね。