「おばかさん」たちって、まったくピント外れのことばっかり持ち出すし、考える力ないし、無知だし、説明してもわからない。こういう箸にも棒にもかからない人たちにはどう対処していいのか、おばかさんという以外に何と言っていいのか、まったくわかりません。@anmintei
— 烏賀陽 弘道 (@hirougaya) 2016年4月26日
よんだ。
あまりにも糞な内容なので、ブクマはしませんでした。
まず、相手を「馬鹿」と定義する事が正しいのか否かという点については、個人の品位の問題ですから放置するとして、一方で、そもそも報道とはその「馬鹿」と定義した人達も「含め」、事実を適切な手段で伝え、世の中に訴えかけるものなのではないかと思います。
もし報道に携わる人間が、伝えたい人に、ただ自分の伝えたいことを「限定」して伝えるとするならば、それは「報道」ではなく、それと同時に「報道の自由」などという強権は得られません。
結局、今市民や視聴者と報道の間に認識や感覚の大きな隔たりがあるのはこの部分で、まさにこの議論はその表れだと思います。
「報酬」の支払いが妥当かどうか?は議論の本題ではありません。
疑問を感じた人間と、疑問に答えた人間の間で、何に対して議論しているのか?何を相手は疑問と思っているのか?なぜそうなったのか?
その問いに適切に答えられないのが今の日本のメディアであり、結果、報道が垂れ流す情報や結果ありきの情報に市民や視聴者は飽きており、信頼も失っているという事であると私は思います。
「正しさ」は重要ですが、それは必ずしも万人にとって今知りたい答えではなく、今何が問われているのか、その視点が持てない時点で、その「報道」姿勢は傲慢でしかないと私は思います。
その事に、向き合える「報道」関係者が現れない限り、今後も日本のメディアや「報道」と市民・視聴者との認識のギャップ、信頼の欠如は続き、最後にはメディア自体が個人のブログ程度の扱いを受けることも止むを得ないのだろうと思います。
気づく人、気づく日はくるのでしょうかね。