はあちゅうの件 - 今日も得る物なしZ
まぁ、記事の通りでしょ。自身が被害者であることは自信が加害者となる事の免罪符にはならない。自身が被害者であったら、自身が加害者である事の免罪符とするロジックは基本いじめをする側や傍観者のロジックだよ。
ヨッピーさんのツイート: "電通のコメントなんかは残念極まりないし猛省して今後の対応をすべきだけど、電通とか広告業界関係なしにこういう話ってあちこちにゴロゴロ転がっているので
んー。このコメントを読んで電通擁護と捉えるのはちと無理筋。実際問題、電通以外の広告代理店、例えば某新興系もそうだけどどこもかしこも酷いので、現実として社会問題として洗い出さないと全くもってだめな話だろ
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別に品行方正に生きる必要はない。が、被害者として心を痛める人が、自ら加害者の立場になるというのは、かなり罪深く、その点に考えが至らないという点はまさに日本のダメな所だと思う。結構この話題は日本の深部。
まさに日本の闇が両面で濃縮されている話題。
まず、起きている事については、ヨッピー氏の意見のとおり単なる一つの事案として電通云々の話題に括ってはいけない事。
「#meeto」の経緯はちゃんと理解しないといけなくて、単に誰かが誰かを告発するというだけの活動ではない。
声を上げられない人に、勇気や行動の切っ掛け、そして何よりも寄り添える人がいるという事を知らしめる事が根底にあり、その表に出ている結果が、海外の大物の告発であったり、本件であるという事に過ぎない。
当然、一つの事案は他の事案や時間の流れに埋もれること無く、それぞれ重要な事として取り扱うべきだが、そこで思考や歩みを止めてしまう事は、極論言えば単なるトカゲの尻尾切りでしかない。
なぜそのような事が生まれてしまっているのか、それがなぜ今まで放置されてきたのか、そういった社会的な背景まで踏み込んでいかないと、こう言った問題はただのムーブメントで終わってしまう。
レインボーアイコン然り、日本はファッションとしての発言、行動が多く、本当に吐き気がする。
もっと深部まで見つめて、何を正すべきか、何を我々は追い詰めるべきなのか、その点をしっかりと考えなければならない。
で、その流れの一端が、はぁちゅう氏自身の行動。
まず、予め言っておくと、彼女の普段の発言と行動には問題があるが、それとは関係なく、今回の件は独立して扱われるべきであると私は考える。というか当然の話。
よくわからん人が、突撃しているらしいが、それはお門違い。
が、前述のとおり、我々はなぜ人が人を追い詰めるという環境ができてしまうのか、そういった深部と向き合おうとすると、実は密室で行われている恐怖体験だけでなく、実は日常の中にある、いわゆる社会が傍観してしまいがちな行為と、ちゃんとむきあわなければならない事に気づくはず。
人は突然モンスターにはならない。
いろいろな体験、経験の中で、価値観やある種の成功体験を積んで、その積み重ねがその後のその人の生き方、行動となって現れてくる。
当然それらは社会の変化や環境の変化により評価が変わり、その都度見直されるべきもので、つまりは過去の自分が間違った価値観や行動を取っていたのであれば適宜見直し、反省し、謝罪する事で変える事は当然できる。
日本の社会がモラハラ、パワハラ、セクハラなどと向き合い辛い環境にあるのは、男性社会がいまだに強い事も一つであると共に、日本人のながされやすい性格や、思慮の浅さが大きいと私は思う。
もっと言えば、今回の件のように、それぞれの事案はそれぞれの問題として向き合えない、Aを正義と見做せば全てAは正義であるとする短絡的な行動も、Aに欠点があればAの正当性は全て崩れるとする短絡的な行動も、どちらも社会をダメにするもので、それこそが日本がいつまでも成長できず、世界から置いていかれる原因でもある。
意見を述べる、その意見を受け止める
これは、対立するから起きるモノではない。
意見をしっかりと受け止めるからこそ、疑問や確認、自身の意見、相手の意見の調整が必要で、その結果としてよりわかり合い、より良い結論へと到達できる。
「より良い結論」とは、必ずしも正解ではない。
が、より「正解」に近い間違いであったり、「より現実的な答え」であったりはする。
その歩みがないのが日本で、その象徴を挙げるなら「シャープ」という会社ではないだろうかと思う。
自己の内側、一つの価値観、表層的なものにとらわれてしまう短絡的な思考や行動、そういったものの集合が、結局は住みにくい日本、楽しくない日本というものを生みだしていると私は思う。
この話題は、本当に日本の日本人の良くも悪くも深部を見せてくれる話題であると本当に思う。
1年、3年、10年たったとき、日本でそういった問題が減っているのか、それともかわらないのか。
結果によって評価されるべきものだが、今のままでは非常に難しい結末が待っていそうだ。
<追記>
はあちゅう氏の件について
だからこそ「誰がされたのか」も「誰にされたのか」も話題の中心にすべきではないのよ。こう言った話題が上がった時は、そういったことを許容してしまった社会の問題点を見つめ、何を改善する必要があるかが重要なの
この記事主の意見は半分は正しい。
問題に光が当たるのは、確かにそれがマスコミや媒体にとって取り上げる価値があると見做された場合だけであるのは事実。
また、実はこういった問題は、特別な事ではなくて非常に多くの場所で、場合によっては本人が気づいていないまま行われている事も多い。凄く多い。
実際、同性間の問題に至っては、踏み込む事が難しい(例えば、女性同士のコミュニケーションでも非常に痛ましいものはあるが、そこに男性が介入する事は難しい、であったり、男性社会の中でも組織的に理不尽なモノや扱いも多いが、それが男性社会というよりも、日本という社会でなぜか容認されている為、声を上げてもなかなか焦点があたらない等)ものも多く、実はそっちの方が問題の本質なんだよ。
だからこそ、はぁちゅう氏が被害者であったという事と、はぁちゅう氏も加害者であるという立場にいる事は議論として凄く重くて、日本という社会は、無意識的に、はぁちゅう氏に限らず、被害者と加害者の両方の立場を取っている人が多い。
その根っこの部分をちゃんと見つめて、そういった日本流の悪い部分はなくすようにしないと、光があたる問題だけが取り上げられる、つまりは、レインボーアイコンの時と同じようにファッションとしての活動で終わってしまう。