何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

選択する余裕が生まれることと、選択する事は別だと思う

 

もうダメだ on Twitter: "1年前、ずっと憧れていた業界トップの大手に就職キメた先輩が「就活成功して引越して世界が広がったら新しい恋も友達も趣味もできた、そしたら未来の無い彼氏や不誠実な友達や閉鎖的な家族と自然と距離を置けるようになった、もう要らない」と幸せそうに話していたのを最近よく思い出す。分かる。"

んー、半分は理解できないなぁ。僕はそこそこの年収あるけども生活も大きく変えていないし、奥さんも別に高学歴の才女でもなんでもない。遊びも別に高尚な趣味でもない。お金の使い方や楽しみ方が単純に狭いのではと

 

 

半分は(状況として)理解できるが、残り半分はその人の生き方でしかないかなぁと。

 

僕は比較的早い段階で一度個人事業主になり、その後兼業サラリーマンのような状況に戻っているわけです。

当然起業家と比べれば全然稼ぎは少ないものの、(起業かと比べると)のんびり安定した生活、家族との時間とか、そういったいわゆる自由を得ていると考えています。

 

言及されている内容で共感できる部分は、自分の生活に余裕ができるという事の最大のメリットは「選択する事」ができるようになるという事です。

 

例えば、小学生は自分の生活について選択権がほぼほぼありません。

で、中学進学により人によっては学区の選択を行ったり、高校進学により学校外の活動に幅を広げる等、人は生活の変化に合わせて自分の生きる領域や生き方を変えていくことが可能です。

 

ただ、その自由というのは、その時の自分の余裕に依存するもので、学生であれば精々生活の基盤は親との同居によるものであれば、バイトを選ぶ程度の自由しかありません。

 

これが社会人になれば多少の変化が訪れます。

例えば(その人の価値観において)良い就職を果たした人は、その環境を得ることで精神的にも物理的にも満足感を得ます。

満足感というのは、基本的には余裕を生み出すもので、その余裕から選択をすべき場での決定に自由が生まれます。

 

学生時代の知人との関係についても、学生時代より疎遠になったとしても、個人の生活への影響は限定的であることが多く、それは新しい環境で得た関係(関係を持たないという選択肢も含め)により補完することができるためです。

 

結局、それを選ぶことができる、という事が余裕が生まれた人の権利であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

 

一方で、その選択を行うのか、というのは今度はその友人や知人など関係する人とのつながりによるものでしょう。

例えば、疎遠ではあったとしても、何かの時に「あいつとはまた会うだろうな」というものもあり、一方で、身近であっても「積極的にには会う必要もない」と思う人もいるわけですが、それはその人との関係によるもので、別にそれ自体は就職や自身が置かれたステージには依存しません。

 

ただ、人の縁というのは、自分の生き方に基本はよるものなので、切り捨てたい人ばかりであった、というのは、自分がそういった人と関係を持つという選択をしてきたという事であって、そういう人は、仮に新しい関係を築いたとしても、その後も同様の選択をするのだろうな、とは思います。

 

そもそもですが、金持ちってのは、思いのほか学生時代、そうですねだいたい高校生ぐらいであればその人の価値観に含めてきます。

高校、大学、学部、教授、専攻、最初の就職先、先輩、プロジェクト履歴、友人、知人、趣味、子供、子供の通った幼稚園、小学校等、本当にうんざりするほど人間関係について何かとネタを絡めてきます。

 

あの人は僕の大学の先輩であった、とか、OB会の関係者であるとか、もと〇〇商社だったとか、本当にそんなものばかりです。

 

資産家まで行けばそういった世界から多少離れるのですが、おおよそ企業勤め程度の金持ち、つまり役員であったり、職業投資家という程度の人は、正直関係を切り離すどころか、その関係を使って生きている人も少なくありません。

 

なので、結局のところ、それを清算することができるというのは、その程度のものでしかない、であったり、もっと言えば、清算しなければならない何かを抱えてしまっているという程度のことかなと。

 

当然、人によってはそういった柵が生まれながらにある場合もあり、それを切り捨てる事ができる自由を手に入れた、という状況もあるでしょうが、もしも普通の家庭で、普通に生きて、清算しなければならない何かを抱えていたとすれば、警戒すべきは自分の生き方であり、今のステージでも同じことをしない、つまり清算しなければならない何かを抱えないようにするよう、よくよく考えて生きるべきなのでは?と感じます。

 

投稿主の投稿内容を見ると社会人デビューの人ぽいので、逆にそういった事はよくよく理解できる大人になってほしいなと思う。

 

正直、本当の金持ちは大抵は金持ち以外を人だとは思ってなくて、彼らのコミュニティーに金を持たずに入る事は基本ムリです。

 

才能で入る事はできなくて、才能により金をを稼ぐことで、その金により参加する権利を買えるんだよね。

 

僕はこのことを知るのに5年ぐらいかかったわけなんだよ。

 

どんなに自分がそのコミュニティーに入る権利を有していると思ったところで、小金持ちは小金持ちのコミュニティーにしかいられないし、その小金持ちが多少稼いだとしても大金持ちからすると「がんばってるじゃん!」という言葉のみで、彼らのコミュニティーの扉が開かれることは絶対にありません。

 

ただ、これは実はすごくフェアな条件を提示されていて、お互いわけのわからないもので計らず、純粋に共通の物差しで計った結果でのみ評価しあっているという事なんだよね。

 

なので、そういったコミュニティーの周囲には才能なんてのはあふれているわけなんだよ。

 

ただ、その才能を生かすのは、自力で立ち上がるか、誰かに生かしてもらうかしかなくて、多くの人は後者であって、その時点でかなりふるい落とされている。

 

もし本当に自分が才能があり、何かをなせると思うのであれば、コミュニティーの感覚には流されず、自分がたどり着く場所をちゃんと見据えていないとダメ。

 

そうしないと、才能に対する評価なんてものは水物で、あっという間にゼロになる。

 

学生であればテストの結果や大会の結果、就活の結果とか、なんとなく評価軸がわかりやすいもので比べることができるわけなんだけど、社会人はそうはいかない。

 

今無名の会社に勤めている人が、気が付いたら業界でオンリーワンの技術をもっているなんてのはザラで、商社勤め、外資コンサル勤めで成功者だったと思った人が、普通のおっさんとしてサラリーマン続けていて、昔下に見ていた人に頭を下げる状況なんてのは普通にある。

 

特に外資コンサルとか商社勤めってのは、短期的には一瞬で違う世界まで到達できるので、その瞬間の成功は感じると思うんだけど、10年後にもその成功を維持している人は本当に一握りしかいないんだよ。

 

10年たってもまだそのステージにいるためには、目に見えない物差しを確かに感じ取って、環境に惑わされず、いつまでに、自分は何をすべきか、という事をしっかりと刻み、そして日々進んでいかないと、小金持ちどころか、充足した生活を送ることも難しくなるよ。

 

目先の利益を考えるなとは言わないし、楽しい事は十分楽しむべき、成功には喜ぶべきなんだけども、それが何処へ行くための通過点であるかという事をちゃんと見据えないと、その先の10年、20年、少なくとも65歳ぐらいまでは今の時代は現役でいなくちゃいけない人生になっています。

すくなくとも新社会人であればあと40年程度、僕もやっとその半分に到達する程度なので、その人生をどう設計し、どう過ごすのかという事、そしてその過ごし方というのは、実は自分がこれまでずっと積み上げてきたもので、他人の影響もあるだろうけど、自分の選択、制限はあれど、常に自分の選択によってなされているものだという事を理解していかないとダメなんじゃないかなと。

 

もし未来のない人を選択していた過去があり、それを清算することができていることを喜んでいるのだとしたら、なぜその選択をしたのか、その原因はなんであったのかを冷静に見つめることができるようになるというのが社会人として最低限芽を出すという事で、変化した環境に喜ぶというのは、実は中学デビューや高校デビューと変わらなくて、結果として得たものでありそれはそれは喜ぶべきことではあっても、あまり人生として振り返ると重要なターニングポイントではなかったという事になると思いますよと。

 

まぁ、そんな事は思いました。