何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

ルール化とか、最大のリスクを回避する為にあるのですよ

 

A on Twitter: "満員電車の中でパウダー塗ったり、リップ塗ったりするのは他人に化粧品が付いちゃうかもしれないから控えるべきだと思うけど、椅子に座って周りに迷惑にならないレベルで化粧するのは全然よくない?なんで社内の化粧が痴漢や足広げる男性や、道に唾を吐くおじさんより批判されてるか理解できない"

そもそも「迷惑」ってのは受け手の感覚の問題なので、化粧という行為そのものを嫌悪する人もいれば、工程や過程に嫌悪感を抱く人もいるので「迷惑にならない」という定義でルール化するとトラブルにしかならないよ。

 

基本的にルールってのは最悪のケースを回避する為に作るのが基本なので、行為そのものへの禁止を明文化する事は希です。

 

で、こういったルールを検討する場合、考えるべきは「化粧」という行為がどうか、ではないのです。

 

では何を考えるべきかというと、そういった行為の先に何が起きるのか?という事で、一番運営側として困るのはお客様同士のトラブル・争いなんですね。

 

特に「価値観」により善悪を決めるような問題は、そもそも運営側としてもどちらが悪いという事を決める事が難しく、基本的には「そいったトラブルが起きない環境にする」というのが鉄則です。

 

で、大抵の場合「気にならない」という意見で解放するというのは悪手で、なぜなら「気になる」という人は、実際のところルールがあろうが、無かろうが気になるわけで、極論いえば、ルールが無くても、ただただ迷惑という意見をぶつけるわけです。

 

当然、ルールが無ければそんな意見はそもそも受け付ける必要はないのですが、鉄道やバスのような交通機関の場合は、無闇に停止、遅延させるわけにも行かないわけです。

 

その為、まずは「トラブルの原因となりうる問題を可能な限り排除するにはどうするか」という視点でものを考えなければなりません。

 

この考え方は、別に運営サイドだけで有効な事ではなく、所謂「正しいけどトラブルになる事」と対峙する時にも参考になります。

 

行っている事は正しい、が、その正しさだけで問題が解決しないというケースですね。

 

エスカレーターの歩行禁止もそれにあたるでしょう。

ただ「歩行は禁止」と啓蒙しても、危険を感じないという人は結局あるくわけです。

いろいろな視点で歩行はすべきではないのですが、歩く人からすると歩くべき理由があるわけで、そこを議論しても表向き「そうですね、すみません」という形だけの対応をされるだけで、その人も含め世の中からエスカレーター内を歩く人がいなくなるわけでも、なぜか歩行するスペースを空ける暗黙のルール的ななにかがなくなるわけでもありません。

 

こういった場合も、「正しい」という議論をするのではなく、「なぜ歩くのか?」という視点で考えると、「歩くべき理由」であったり「歩く必要せいの排除」であったりと違う視点で問題に対処する事ができ、「正しい」を否定する必要もなく、且つ、「歩く人」への対応も可能となるわけです。

 

化粧について言えば、電話問題と本質は同じだと思います。

極論言えば、会話は良くて、ヘッドフォンの音漏れはダメなのかという話しも同じで、何れかを程度問題とするならば、全て程度問題にしなければならないでしょう。

 

また、このような「程度問題」となるようなものを考える時は、自己の都合で尺度を設定する事が多く、本人は真剣に良い案をひねり出そうとしても、冷静に見ると「自己中心的だよね」という結論に至りがちです。

 

そういった場合は、同じような程度問題で、他の問題も全て同様に「程度」で許容できるのか?と考えてみるといいでしょう。

 

「化粧」という行為が程度問題であれば、「ヘッドフォンの音漏れ」「足を広げる行為」「車内での電話」「車内での飲食」など、そういった問題も程度問題として扱えるのか、まぁ、根本的に議論の対象とすべきでない話しも含まれていない気もしなくはないですが、それですら個人の「感覚」でしかないですからね。

 

そうやって考えた時、他の問題は程度問題では許容できないと言ってしまうような場合は、逆に言えば、他の人からは貴方の尺度が受け入れられない可能性があるという事です。

 

点の議論であれは良し、これはダメというのはなかなかこういったルールの議論には悪手で、性別、年齢、仕事などそれぞれの事情で問題に対する感じ方、捉え方がかわりますから、結局はそういった「ズレ」による問題・二次的なトラブルを回避するとなると、極論そもそも他人が迷惑に感じることはダメという結構強引で曖昧なルールにせざるを得ないというわけです。

 

ですから、車内で行うべき、行ってもよいと思われる行為の中で、(一部の)他人からは良しとされない問題があるとすると、ルールを変えるという考え方よりは、どうしてそれは車内で行わなければならないのか?その状況を改善するにはどうすればいいか、という視点で考え直して見る方がよいと思います。

 

ちなみに「最初から家ですれば良い」という結論はこの場合無意味です。

 

こういったケースでは前提条件として「車内で行う必要性がある」という前提をつけなければ、全ての物事は大抵の場合「車内で無くてもよい」となりますからね。