何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

声を上げるべきは誰かではなく、自分であるという事

 

見知らぬ金髪男性から「単なるモノ」として見られた私の絶望感(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

起きたことは女性である云々を別としても許容しかねる事であるのは事実。だが、同時に、男性であるという事や、外見的特徴、店員であるという条件のみで、暴力に対抗できると考えることも役割の押し付けではないかと

 

ここでいう自分とは、当然被害者の事ではありませんよ。

 

何かが起きたとき、それに対処しなければならなくなると、たいていの人は「誰が」という問いと向かい合う事となる。

 

ただ、この問いは、実際のところ無意味な問でしかない。

 

何事に対して、基本的には「自分がやるのか、やらないのか」という選択肢しかない。

 

自分がやらないとき、そこに様々な理由をつけたがるが、結局のところ、どんな事情があれ「やらない」と決めたのは自分であって、そのほかの条件や状況は、あくまでも自分の判断を補助したに過ぎない。

 

目の前で性別を問わず何かしら被害者がいると気づいたとき、だれが声を上げるべきかといえば、それは「自分」でしかない。

 

もしも自分が声を上げないという選択肢を選んだならば、同時に他人が声を上げないという選択肢を取った場合にもそれを否定してはならない。

 

一方で自分が声を上げるという選択肢を選んだとしても、それを他人に押し付けてもならない。

 

あくまでもすべての選択と決断は自分で行うしかないのだから。

 

何かが起きたとき、行動するか、しないかは、性別、役割などそういったものには基本的に影響されない。

 

例えば、警備員が近くにいたとして、何かがあれば彼らが対応すべきか、と問われれば、大抵の人はそうするべきだと思うだろう。

 

が、冷静に考えて、彼らは別に軍人でもなければ、必ずしもガタイが良いわけでもない。

大抵の警備員とは、サラリーマンでしかなく、我々が机に向かってパソコンを操作する代わりに、周囲に視線を配っている程度のもので、あとは危機管理マニュアルによりリスク回避の知識が我々よりも多い、その程度のものだ。

 

たったそれだけの違いをもって、危険と向かい合うべきだ、というのは流石に酷な話だし、例えば、我々の仕事であっても、死ぬかもしれない、という状況で会社のために、仕事のために死ぬのか、と問われれば、私はそんな選択はそもそも可能性にすらいれないだろう。

 

また、外見的に屈強そうに見える、というだけで必ずしもその人がそういった行為に適正があるとは限らない。

外見、身体的特徴とは、あくまでも一つの個性ではあるが、大抵の場合は遺伝の影響も大きく、確かにその特徴を生かすという選択肢もあるが、全ての人がその選択を行うわけでもないし、そもそも例え多少の覚えがあるような人であっても、大抵は酔っ払いであったり、例えば溺れる子供相手に、大人の男性などというものであってもあっさりと命を奪われてしまう。

 

つまり「誰か」が行動するという事を期待するというのは、そもそも無責任で、それが男性、女性、屈強そうであるとか、そういうことも余計な話でしかない。

 

結局は自分が動くのか、動かないのか、ただそれだけであって、そのことだけ考えればいいと私は思う。

 

海外の事例に触れている人もいたが、そういった場合に動くというのは、大抵は自己の権利に置き換えた場合、それを容認できるのか?という事を考えれば自ずと答えはでるというケースが大抵で、その置き換えができない人は理屈を捏ねたり、他人の責任は追及するが、結局は自分は動けないような人間となる。

 

まずは自分がどうするか、それだけを考えれば何も難しい事はないし、自分の行動はどのような選択であっても、自分が責任を取ればよいだけの話だ。

 

非常に単純な事だ。