何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

「最後のシーン、泣きそうになったんだけど、泣けなかった」が真実だと思う

 

感想『天気の子』 新海作品史上最も難解で恐ろしい作品 - LOGのハウス

監督のYahooでの事前インタビュー(若干ネタバレ)を踏まえると、異常が当たり前、自分の正しさと他人の正しさの違いそういった矛盾ですら現実として受け入れる話しでもあるので、まさに皆自分の答えを出す作品かなと

 

『天気の子』は何を描いたのか。新海誠監督の決断が予想以上に凄かった理由(作品解説・レビュー) – ウェブランサー

事前に「前作のヒットがあったので寧ろ自由にやらしてもらえた」とあったので、その答えを探すつもりでみたら、作品の存在自体がその答えだったときは寧ろ監督よりも企画を通した側に若干恐怖したわ・・・怖いよ普通

 

良く的を得ている感想、批評だと思った。

 

私の中では妻の言った「最後のシーン、泣きそうになったんだけど、泣けなかった」これが全てだなと思ったし、おそらくそれが監督が作品を通じてなげかけていたものの正体でもあると思った。

 

全ての登場人物が、無意識的に矛盾や葛藤を抱えていて、全ての圧倒的な正しさがない状況に常に置かれる。

 

それも、それを知ってしまえば異常な状態であるわけだが、それですら知らない人にとっては当たり前に過ぎない事で、その矛盾や対立自体が物語の不均衡さを常に生みだし、それが疾走感があるはずの場面であったり、感動的であったり、涙を誘うシーンでもどこか見る側に疑問を突きつける事で、凄く単純なシーン、ありがちなシーンをそのまま飲み込ませてくれない、それがこの作品の醍醐味なのかなと。

 

ただ、これはなかなか万人受けはしないなと感じる。

一歩間違えば「意味がわからない」であったり「気持ち悪さ」であったりが強くなり、前作品のような凄くわかりやすい一つの結末のようなものからは遠く、敬遠されてしまうのではないかと思う。

 

この部分も監督がインタビューで述べていた「むしろ前作のヒットにより自由にさせてもらえた」部分なんじゃないかなと。

 

おそらく、企画の段階でこの構図はわかっていただろうし、それはつまり、視聴者の中には間違いなく肯定派、否定派が入り乱れて、その意見自体がそもそも作品の作り手自らが作品の意図として込めているわけであり、それを了承するというのは、この規模の作品ではなかなかチャレンジングではあると思う。

 

全員の立ち位置も常に入れ替わる。

能力に対しての意見も、帆高や陽菜に対する意見や立場もどんどん入れわかる。

有るときは良き理解者であっても、ある状況になれば「常識」や「立場」というものを言い訳にして敵となる事もある。

帆高や陽菜ですら、絶対的な善でもなければ、絶対的な悪でもない。

 

 

構図としては実はありふれているわけだが、おそらく幾つかのシーンで涙がでそうだが、出ない、完全に泣くという事にならない、僕は妻が感じたそのなんとも微妙な感情であり感想がおそらくこの映画の持っている魔力のようなものではないかと思う。

 

そもそも陽菜に最後の力を使わせた、またはそこに至る最後のレールを引いたのはだれでもない帆高であって、冷静に考えれば彼女を取り戻すことですらただの贖罪に過ぎない。

さらにその結果起きる事を考えれば彼の選択は正しい選択であるかという事は判断し難い。

 

が、実は他の人からすればそんな事自体が知らぬ事であり、まさにただの天災に過ぎないわけで、その選択の価値自体が結局自分の一つの結論、その程度の意味しか持たない。

そしてそれはごく当たり前の事で、僕の日常は他人の非日常であり、僕にとっての他人もまた同じに過ぎない。

 

そしてその事について、たまたま事情を知り得ている人間が、その他人と同じようなリアクションをするとき、それは一見すると悪に見えるが、実際は知らないその他大勢とその事実は変わらない。そして、前述のように彼自身「晴れて欲しいか?」の問いに「晴れると良いね」と答えている矛盾。

 

言葉にして犠牲を強いた人、言葉にせず犠牲を強いた人、無意識に犠牲を強いた人。

 

一つの物事をとっても、その結果に至るプロセスの中でさまざまな登場人物が無責任であり、身勝手であり、自己中心的である行動をとっている。

 

こういった事は凄く当たり前で、実はファンタージなんだけど、そのファンタジーを現実社会という器を使って、尚、非現実の中で描いている。

 

この構図は凄く当たり前の事に過ぎない。

だが、何れも現実と矛盾と葛藤と、そういったものがごちゃ混ぜになりながらもストーリーとしては一つの方向を明確に指している。

 

おそらく、この物語の結末のある程度は誰しもが冒頭で想像しうるものだ。

だが、最初のシーンから様々な描写、切っ掛けが描かれる中で、その結末に至るピースのはめ込み方はおそらく誰ひとりとして「当然」というものにはならないのではないかと思う。

 

実際は「当然」の答えが数多く並んでいるのだが、登場人物の立ち位置が微妙にずれる事で、所謂人間の少しズルい一面、例えばダブルスタンダードのようなものも表現しているために、その「当然」をそのまま受け入れる事は、ある意味自分の「美しさ」「正しさ」を損ないかねない。なのでその凄く「当然」の事をそのまま受け入れると言うことに個人差はあれど違和感や抵抗がでてしまう。

 

それ自体が実は当たり前で私たちの日常に過ぎない。

 

難解と言われればそうだし、ありきたりな構図と言われれば確かにそうでもある。

 

最後のピースは視聴者の立ち位置なのだと思う。

自分はどの立ち位置に立つのか、それによってこの物語をどう結論付けるか、最後のシーン、あれは陽菜はどのような気持ちであの行動をとっていたのか、帆高はどんな気持ちでそれを見つめていたのか。その答えはおそらく自分の立ち位置によって真逆になるそういった作品であると思う。

 

いや、これ本当によく企画段階でOK出したと思うそんな作品だった。

これを企画段階で読んだ人、そしてOKを出した人、ある意味監督以上にいろいろ見えていたのだろうと感じた。