何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

馬鹿の定義がおそらくズレてる

 

かずくん|慶大生社長 on Twitter: "あと炎上したら毎回のごとく、 「慶應に行くとこんなバカになるんだね!」 って言われるんだけど、お前ら慶應にさえも受からないような、慶應の試験用紙にさえも触れられないような世界で生きてきたくせによく言うよな。慶應をバカにするならまず東大か旧帝大くらいに行ってから言えや。"

不思議なロジック。慶大生を馬鹿にするのであれば少なくとも慶大生であれば十分でそれ以上の学歴は不必要かと。それ以前に馬鹿にされるかどうかは個別事例に対する客観性による。馬鹿の定義が異なるのであれば別だが

 

元ツィートよりもこっちのツィートの方が興味深く、馬鹿の定義について疑問が湧いた。

 

一般的にバカという言葉を相手に言い放つ場合、常識に欠けるであったり愚かしいさまであったりする場合に投げつけるものかと。

 

ですから、極論言えば、慶大生としてその立ち居振る舞いが客観的に見て常識的であるかどうかが評価出来れば良いわけで、その意味からして、少なくとも慶大生にとっての常識的な行為や発言であるかは慶大生自身であれば十分に評価できる事だと思う。

もっとも、常識を社会常識というより広義なものとして考えた場合、これは慶大生である必要すらなくなり、社会的に一般常識を兼ね備えている人であれば誰でも評価する事が可能となる。

 

一方で、もしもだが、もしも馬鹿の定義を頭が悪いというというもの、つまり知識や知性の欠如とする場合は異なる考え方になるが、一般的に馬鹿である事と頭の善し悪しは関係ない。

 

むしろ頭のよい人間の方がその知識をいかせていない場合、それは愚かしく見えるものであり、その他の人間が客観的に見た場合は馬鹿として写る、または馬鹿な事をしていると評される可能性は高いのではないだろうか。

 

例えば単純な事を間違ってしまった場合「馬鹿な事をしてしまった」という表現があるが、あれはその人の知識や経験であれば十分に対応可能な事を誤ってしまった為に、こんな愚かしい事をしてしまったと表現しているわけで、知性の低さや知識の欠如を嘆いているわけでない。

他にも奥様方が「馬鹿よねぇ」等と話しをする場合、それは頭の善し悪しではなく「なんでそんな愚かな事をしてしまったのよ」という同情や嘆きとして使われる事が一般的で「頭悪いわねぇ」という表現として用いているわけではないと思う。

 

確かに、小学生や幼稚園の頃、他人に馬鹿という事を使われてしまうと直線的に「頭が悪い」という批判に聞こえてしまう事はあったと思う。

冷静に考えれば例えばテストで間違った時に「馬鹿だなぁ」という表現をする場合、本来それが自分にとっては十分に正解可能な問題であったにも関わらず、愚かな失敗により間違ってしまったわけだから、馬鹿という表現自体は直接的な知能や知性には関わりがない事であると理解できるはずなのだが、今ふり返っても確かに子供の頃はそう考える事はできなかった。

 

わからないが、多分馬鹿の定義が僕とは違うのではないかと思う。

 

僕の定義がズレているのかどうかはわからない。

馬鹿の定義について他人と議論した事は正直ないので。

 

でも、僕と彼の定義は少なくとも同じではない事は明らかだ。

 

非常に興味深い。