何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

学校と町内会のエピソードはお門違いの指摘では?

 

大きな枠組みに目を向けさせないようにする - 紙屋研究所

うーん、実際日本って「やってる感」だけで実質無意味な取り組み多いのとは思うが。エコバックに限らず「そういった取り組みに関わってる感を出してる私ってすごいでしょ」的な中身をおざなりにした活動ばっかりかと

 

指摘の中身を見ると、それぞれ「それってお門違いでは?」という感じがする。

 

まず、小学校のエピソードから始まるが、私の時代(私は既に40歳を超えている)ですら、そういった授業はあったが、それらは前提として大枠の話しは授業内で行われおり、その上で、では自分達はそれに対して何が出来きるか考えようというものだった。

少なくとも私が小学生であった頃ですらその程度の配慮はなされていたので、余程自体が悪化していない限り同じような構成であろうと思われる。

というか、小学校であっても中学校であっても、何れも同じで、大抵のそういった授業というか教育は、全体についての概論はオリエンテーションのような形で全員がいる場で行われ、そこから分科会というかチーム毎に子テーマを定め、それに対する発表という形が一般的だと思う。

このやり方は、マクロな視点とミクロな視点の両方を学ばせる、体験させるという事で結構重要な取り組みで、海外でも同様の構成を取る事は少なくない。

この部分にあえて全体の枠組についての概論もOKとすると、おそらく全員が同様の内容で検討する異なり、ミクロな視点については育たない。

もしも私の認識違いで、唐突に学校側がマクロな視点の前座を行わないままミクロな視点を求めているのであれば別だが、おそらくそんな事はないと思われる。

 

また、町内会についての議論は又違う話しかと。

そもそも町内会や自治会というのは公的な位置づけではない。

 

具体的には町内会は地域の任意の参加者による共助組織であって、そこに公的補助を前提とした取り組みを行う事は公平性の観点から適切ではない。

公平に負担させられる税金の使途として、参加しない事により受ける事の出来ない住民サービスへの使用を是とするのかという問題は少なくとも昭和には認知されており、知らないというのであれば町内会について語るレベルに記事主はない。

一部の人間は「町内会に参加しない人間が悪い」と一方的に言い放つ人もいるが、町内会自体の存在がどのように伝達されているのか、そもそも会計の透明性や役割の公平性等、昭和の時代から議論が絶えない組織であり、これは公的機関と共に存在する公的な組織ではない事が大きい。

ある意味PTAと同じで、勝手に作られた共助組織が、気がつくと一方的に権限や権利を主張し、そこに参加しない人間に対して一方的に排除するレベルの活動すらあるわけで、そういった活動について公的支援を前提にするというのは私はそもそも理解ができない。

仮に「いやいやうちの町内会は参加率100%ですから」等という組織があるかもしれないが、逆にそんな組織は参加率ではなく透明性や役割の公平性で語るべきで、参加率は正しさを反映しているわけではない。

よって、枠組の議論で言えば、町内会や自治会が自身の予算の範囲で議論をスタートするのは当然の話で、なぜ公的支援を前提にすることを是とするのか理解できない。

もしも公的支援を是とするとなるならば、少なくとも町内会や自治会に不参加した人間に対してもそのサービスや機能は提供される事を前提にする必要があるのだが、そこまで話しは行われているのかどうか疑問である。

何れにせよ町内会や自治会について税投入を前提とする認識は明らかに異常だと思う。

 

少なくとも元記事にあるこの二つのエピソードは私は不適切な事例で、余りにもそれぞれの事情について疎いか、語るレベルにないのではないかと感じる。

 

もっとも、ブコメを見るとそういった事に、記事主以上に無頓着な人は多いようだが。