何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

自由を教育の現場に過剰に持ち込むという事は、子供を自由競争下に置くという決断をする事

 

学校でひざ掛けの許可を会議で提案したら「柄物やキャラ物を持ってくるかも」「華美なものは禁止」といったルールを作りたがる教員がいた

難しい。私の父が教員の時代も親御さんからの相談はあったようだったが、影響が限定的であっても判断はなかなかなできない。というのも、影響がある側の立場に対して無視する事自体が教育者として決断できないのよ。

難しい。

 

教育の場、とりわけ小学校や中学校という現場は難しい。

高校生程度になれば、自分と他人は同じでないという当たり前の現実を突きつけられ、それにより当然ショックを受ける子供がいたりするが、それでもまだある程度の知識や経験からそういったものとの向き合い方を選択する事もできる。

が、当然、その年齢であっても、そういった現実に押しつぶされてしまう人も一定数おり、それを教師や現場だけでなんとかできるわけでもない。

そもそも教師が生徒の全てを理解し、サポート出来るなどと言うのが幻想で、本来は家庭が一番の責任を負うべきであって、その為に学校を選択したり、必要であれば私立を選択するという方法もあるわけで。

 

やるのであれば僕は学校指定のものを購入して持ち込む程度がギリギリ許容範囲だと思うし、それができないのであればある程度ルールを設ける事は理に叶っていると思う。

 

この手の問題は、プラスの面もあればマイナスの面も含まれており、その全てをどうするかという判断が必要になる。

 

話しは違うが、例えば運動会の競技種目を変更する、例えばこれだけで教育現場では影響がでる。

 

何かを選択するとき、何も起きないなどという事はなく、大抵は何かしらのマイナスが生じ、そのマイナスをどう対処するかという事が必要になる。

 

コメントには「起きてから対応すればいい」と無責任とも思えるコメントがあるが、そんなに子供の環境や変化というものは判りやすくない。

言葉に発してくれるケースはまだ良いが、実際に表面化するのは事が深刻になったときだったり、明らかに問題が顕在化したときであって、その時を「起きてから」とする事は当然できない。

そういった場合、むしろ何故か責められるのは教師や学校であって「いやいや、これ貴方たちが望んだ選択肢ですよね?」といっても当然だれも聞き入れない。

 

可能性がある時、教育者として「一部の生徒には悪影響がでるかもしれないが、利益が大きいわけだから前に進めよう」、この決断は確かに革新的だし、一定の理解もできなくない。

が、その決断をするという事は、もはや小学校や中学校という教育の現場に、基本的には自由競争というものを持ち込み、生徒間での物事を決める場合によいて、利益が勝るなら不利益は甘んじて受け入れる必要があるという環境に身を置くべきという話しにつながる。

 

いや、そうはならんやろ、という人もいるだろうが、実際問題、Aを許可した際、Bを許可しない理由は必要になる。

例えばひざ掛けは良いですよね、ではケープも良いですよね、通学時に帽子を被るのもいいですよね、ブーツもいいのではないですか、コートだって自由にすべきでは。

 

Aを許可したとき、Bを許可しない理由は必要になるが、多くの場合、そんなものに「誰かの不利益を生じさせないため」というだけで否定はできない。

 

できないのですよ。

実社会を考えれば、10人中9人にメリットがあり、1人にメリットがない、場合によってはデメリットとなりうるような選択肢があったとき、普通に選ばない理由はない。

利益を得られるなら変化させる事を許容するという事は、そのある一つを許可する事にはならず、そういった選択肢であれば許可するという前例を作ることになる。

そして、Aにより利益を得る人と、Bにより利益を得る人は同じではなく、その状況でAは許可され、Bは許可されないという事を誰が線引きをするのかという問題も含まれる。

 

確かに利益が大きい事は選択する理由になるが、それはもう実社会と同じ価値観を教育現場に持ち込むという事で、その決断を教師や国はすべきなのかという事だと思う。

 

盗まれたら、とか、過剰なものの持ち込みはとか、貧富の差の顕在化とか、どちらかというとそういった判りやすいものはまだいい。

一番影響が深刻なのは、子供同士の中で、大人には理解できない影響がでる事、そしてそれが顕在化しないまま事態が進行するという事で、その時にはおそらく多くの場合で手遅れとなる。

 

Aは許可されたのに、Bは許可されない。

この決断だけでBにより利益を得る子供や親は教師や現場に対して不信感を持つ。

何かを許可するという事は、極論言えば、同じ判断基準であれば全てを受け入れる覚悟がなければできず、それだけ重い決断だという事は理解する必要がある。

 

多くの虐め問題に関しても、全てが放置されているわけでもないし、不登校の現場でもそれは同じで、そういった事を起こしたいと思っている教師は普通はいない。

その為に配慮したり、時間を割いたりしても、それでも気がつくとそういった状況に陥っており、それはやれるべき何かがあった場合もあれば、現実には教師には何も出来ない(全ての子供の発言や考え方を矯正するなど現実的には不可能)し、親の立場でも子供の全てを理解し、管理するなどという事はできないわけで。

 

小さな変化を付ける事は、大事な事もあるが、時には躊躇する事も必要だと私は思う。

 

まず日本で整備すべきは、スクールカウンセラーの配置と子供のメンタルヘルスへの理解について専門的な対応を進める事だと思う。

 

その上で、土壌ができたら、次に環境を変化させるという選択を行うべきで、なんの準備も整わないまま、環境を変化させるというのは、明らかに変化についてこれない子供や家庭は切り捨ててもよいのではないか、と、そう言っていないとしても、結果として救えないのであればそう言っているようなものだと私は思う。

 

子供の世界、とりわけ小学生や中学生という社会は大人のそれとは全く違う。

そしてそれを「当たり前」という基準で当然のように物事が進むと考えるべきではないし、そういった事まで一切合切を学校であったり教師に責任を負わせるというのは、私はあまりにも酷だと思うが。

 

私は、もしもこういった変化を行うのであれば、それこそ教師ではない誰かが矢面に立つ、例えば管轄する教育委員会と各校の保護者で議論し、現場はその決断に一定の意見を述べるものの、責任は教育委員会と保護者が持つ、その程度の構図でないと今の現場で全部の責任や運用を丸投げしているような状況下では決断は簡単にはできないと思う。