何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

いろいろとジレンマがつきまとう表現の自由

『異世界居酒屋「のぶ」』の作者「『月曜日のたわわ』の広告を掲載する自由を守るためには、諷刺川柳を掲載する自由も同様に守らないといけない。」

まぁ、それはそうとしか。下品だと思う事も、朝日紙を取らない宣言する事も自由だが、それを表現する事を規制するのは適切ではない。まぁ、同様の話しとして、違う故人に対しても下品な投稿を許容する必要もあるが。

まぁ、そうとしか。

 

極論僕がどう思うかと、僕以外の誰かがどう思うかはほぼ確実に一致しないし、何かしら異なる処がある。それを言葉であったり何かしら表現する時、当然異なる結果を招くモノで、それに対して僕は同意しない自由もあるし、否定する自由もあるし、批判する自由もあるが、それを辞めさせる権利は僕個人にはない。

 

この辺りが表現の自由を守る意味でのジレンマなのかというと、そうではない。

 

この本題にある安倍氏に対しては、少なくとも評価は様々ある事は事実で、わかりやすく二分されている。どちらの勢力が多いかどうかはさておき、それは万人が理解する処かと。

 

こういった場合は非常にわかりやすく、寧ろジレンマはない。

単純に意見の対立が目立つだけであり、それは当然のことで、寧ろ当たり前なので。

 

ところが、例えば、志村けんさんに対して同様の表現をした場合や、例えば高倉健さんのような人物に対して行われた場合はどうであろうか。

 

こういった場合は非常に難しい。

まだ志村けんさんは晩年こそある一定の評価が定着したが、デビュー当時は肯定的な人や否定的な人、教育によろしくないという評価も含めいろいろと意見はあったので、まだ風刺的なもので弄られる事について一定の理解も得られるかもしれない。

が、例えば高倉健さんに対しても今回の安倍氏のような雰囲気で、弄る行為が一部の人から行われた時、私たちはそれを許容できるだろうか。

 

当然、故人に対する名誉毀損罪もある為、虚偽の事実により故人の名誉を毀損した場合は罪に問われる事もある。存命の個人の権利とは扱いが異なるので、あくまでも限定的ではあるが、故人相手であればサンドバッグにしてよいという事はない。

 

まぁ、僕個人はあの川柳は、下品だとは思うし、仮にそれが事実であろうが無かろうが、故人に対してあれやこれや言うのはあまり好きではない。

 

理由は単純で、そもそも僕はその故人に対して近親者ではないので、本当の意味で故人の事をしらない事もあり、少なくとも近親者や故人を理解する人に取っては故人を悼む時期でもあるので、そういった時期に故人を攻撃する事が僕の主義に反するという点や、そもそもそんな事を大々的に言い放つ必要もないなと、精々Twitterだったり個人のBlogだったりで、私はこう思いますよ、程度の意見表明が妥当なところで、それが本来の在り方だと考えている点、そして最後に、メディアが率先して党派性の偏った意見を媒体上にのせる事は、多くの場合ミスリードしがちなので、基本的に僕はメディアには(可能な限り)中立な立場であってほしいという願望があるからで、そういった考えからすると、肯定と否定は何れも大事な意見であると同時に、それを何れかに寄せてしまう事はもはやお抱えメディア(それこそ大本営発表をする某紙)と同じ次元に落ちているという事であり、それを受けいれるという事は、今後そういった行為、つまり大本営発表的なメディアの行動を批判する事の正当性を失う事を意味するのではないかと思うから。

 

そんな感じで、あの手の行動は基本的には否定的です。

が、否定的であるだけであって、それを咎める気もないですし、やりたいのであればどうぞご自由にと、思う程度です。

 

せいぜい、前述のような、このやり取りで行為を肯定するという事、少なくとも否定できないというのは、今後類似の例の時にも法律に反しない限りは、いわゆる「モラル」のような定義が難しいモノで縛る事はできない世の中になったのだなという程度ですかね。