何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

成功の手段の一つでもある上、商慣習上の文化自体が足枷なので結構詰んでる

法や道徳を守らないのが成功のための唯一の道なのかよ

日本は価値に対して対価を正当に払う文化が全体的に薄い。結果として無償の何かという謎の美学が未だに残っており、所謂お客様は神様的な思考も含め、お金を稼ぐという手段が海外と比較してスタートからマイナス状態

それが全てではないが、確かにそれは一つの有力な手段ではあるかと。

特に金融で言えば、ある程度の方針は示されており、当然万事その方針に従う事はできるが、当然その方針に万人が従えば、イノベーションなんて生まれないし、資本が厚く、信用が高い銀行に勝るものはないわけで。

 

一般的にはリスクとリターンの兼ね合いで、大企業があえて踏み込まない処にベンチャーが踏み込み、リスクとリターンについて企業だけでなく買い手である消費者とその在り方をバランスするのが海外の在り方で、小口決済に関わるサービスや資金調達に関するサービス等はその最たるもので、消費者の側も信用力の評価の在り方を従来のものだけではない方法が採用される事により、新しい資金調達の手段が得られる等、メリットを認めつつ、あとは個々人がそこに潜むリスクを評価し採用するかどうかというのが基本。

当然社会的に影響が大きいものは規制がはいるが、それでも、ある程度は消費者側の意向というか市場の許容度が中心にあるのが基本で、ダメとされていない事はまずは市場が判断するという事は基本的な流れ。

 

が、日本ではその文化も仕組みもない。

明示的に許可されていない事は日本の場合は基本グレー扱いされるが、そもそもグレー等というものは本質的にはないのが普通で、ダメなのかそうでないのかが一般的な在り方なのだが、こと日本に於いてはその一般論は通じない。

結果として、お上がOKしないとダメなうえ、さらに厄介なのが社会的に受け入れてもらえるかという謎の圧もあり、極論法的に明示的にダメとされていなくても、「趣旨に反する」という意見でサービスや可能性を潰す事は容易にできる為、正直日本でイノベーションを生みだすというか、可能性を追求する事の意味はほとんどない。

 

で、それは国や自治体の運営方針だけでなく、実は消費者である国民に根付いている価値観である為、その在り方が実は自分達の可能性も潰しているという事をあまり重い問題だと認知していない。

 

完璧さを求める事や、潔癖さを求める事、あらゆる点で、理想的な在り方でないなら認めないという人が多く、そもそも人の理想なんてものは千差万別であり、親子や兄弟、夫婦ですらそれぞれの個性が反映されるので、全員が納得できる形など基本的にはない。

 

一方で、閉鎖的であると感じる人や、時代錯誤的な在り方に憤りを感じる人もそれなりにいるわけで、正直面倒くさいというのが企業側の本音ではないかと思わなくもない。

 

特にこの手の影響は運営コストに大きく跳ね返る。

この完璧さや潔癖さを求める点や、場合によっては、その考え方を中心に自分が正しいと思う在り方や理想と思う在り方に沿わないものにに対して一方的に批判的な意見をぶつける人も多く、そういったものも含め日本では非常に対応コストや配慮の為のコストが高い。

海外であれば「OK,わかった、また機会があればよろしくね!サンキュー」で終わる程度の事が、日本ではお詫びから入り、企業の在り方や考え方を説明し、その上で事の流れの釈明をし、そして消費者が納得するまで議論をする、なお、そこまでしても必ず納得いただけるわけでもないので延々とその対応をさせられる。それが日本の在り方で、これを「無駄なコスト」と表現しようものならば「消費者を蔑ろにする企業」のようなレッテルが貼られ、反省の色がなんだとかもはや当初の議論とは関係のない話しまで展開された挙げ句、ほぼそのサービスは終わる。

ちなみに海外なんてそんな反省の色とかそんな話しは議論の余地もない。本気で「じゃぁね」で終わる程度のやり取りで、極論返金や返品が成立した場合は、ちゃんと補償したのに何言ってるの?程度のお気持ちを表明される事すらある。

 

私からすればそのような行為にコストをかける事は、そのサービスを使うほぼ全ての消費者にとってマイナスでしかない。

コストが低く抑えられるという事は、消費者のコストも下がるか、またはサービスの価値があがるかというメリットがある。

仮にそれが自身が利用するサービスでなくとも、そういった文化、つまり合わないならさよならする事でお互いに納得できるという関係でいられれば、起業する場合にもサービスを提供する場合にもそういったコミュニケーションコストであったり、リスクヘッジの為のコストを想定しなくても良くなるので、起業のハードルもサービス提供のリスクも下がり、より多くのチャレンジャーが参加するようになり、結果として様々なサービスや商品が生まれる土壌ができる。

多種多様なサービスや商品が生まれるという事は、さらにはそれらのサービスや商品が相互に影響し合い、さらに多くの派生的なサービスや商品が生まれるわけで、その可能性は非常に大きく、この部分が海外と日本の大きな違いだと私は思う。

 

で、それを阻んでいるのは、確かに政府や投資家のスタンスも一要因として大きいが、それ以上に、消費者の在り方、サービスや商品との関係性、起業との向き合い方、そういったものの影響も非常に大きいと思う。

 

結果として、コストを減らすという事は、極論博打をするような人、もっと言えば、無敵の人に近い状態でしか選択する事はなくなるので、結果として法や道徳を守らない人ばかりがそのリスクを採る選択をしている状況なのではないかと。

 

まぁ、厳しく規制すべき領域がある事はその通りだと思うし、また、消費者が厳しくチェックし意見を述べる事も大切な関係性だとは思う一面もある。

が、それが行きすぎれば、万人が自分の理想や在り方でそれぞれの理想を攻撃しあうだけで、結局だれの理想も、発展性もない選択肢しか選べない社会になってしまうわけで。

 

僕は中国の製品の質の悪さには辟易しているし、明らかにヤバい商品を売りつけるやり方もどうかと思うわけだけど、その一方で、土台の部分で「気に入らない?OK、じゃぁ返金するわ。またね。」という欧米的なやり方(まぁ、欧米はそんな簡単には返金してくれないけど)は嫌いではなく、納得できないなら返せばいいし、大手のAliexpressですらヤバい販売主は大量にいるが、まぁ、明らかな詐欺には多くの取引で補償が付くので写真とって「商品は送り返さず返金を求める」を選択して、「これ、全くべつものなんだけど」で、大抵の場合は問題が解決する(場合によるので、最低限、購入時に保証が付いているか、そもそも『商品毎』(ここ大事)に取引実績があるかをチェックする必要がある/なお、サイトのクオリティはあの規模の大手サイトでも糞なので、それが受け入れられない人は絶対使ってはダメ。ボタン操作不能とか動線が存在しないとか普通にあるので)。

確かに時間は失うし、手間もかかるが、それで済む領域の商品もあるし、そういったものはそれでいいと僕は思う。

逆に、それで済ませられない部分は、信頼の高い売主やマーケットを消費者が選択して売買すれば良いし、それに応じたコストを負担すれば良いだけの事で、この両者はどちらかだけが有るべきという話しでも、どちらかが正しいというわけでもない。

リターンとリスクがあり、それを売り手と買い手がそれぞれ評価して、それぞれの立場で自分がその市場に参加するのかしないのか、参加する時はどのような認識で参加するのか、その認識は適切な評価がなされているか、そういった事を判断して参加できれば、リターンとリスクを消費者が選択できる余地が生まれ、結果としてサービスの数も投資の効果も格段にあがり、結果、我々の生活の中での選択肢が増え、可能性はより広がると私は思うのだが。

 

まぁ、そういった考えは日本では根付かないし、受け入れられない考え方だと思うので、私のような人間は、正直ほどほどに日本の在り方に納得しつつ、生きる程度が丁度よいのだろうなと思うし、納得できない部分は素直に海外のサービスや商品を直接利用・調達する事で納得すればいいのだろうと割り切っている。

 

政治もそうだが、誰かがそうした結果というよりも、国民の日ごろの社会での在り方が、結果的に日本のそういった文化として根付いてしまっている事も多いので、僕はまずは自分達の日ごろの考え方や行動から見直す事が大事なのではないかと思っていますが。