何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

他人の嫌いを全て否定していく先は誰も何も感情を持てない世界だけ

 

「子供嫌いの言い分」のまとめ - Togetter

こういった問題と向き合うときに単純に「こういった意見を出すことが問題」と感じている人は、もう少し冷静に世の中と向き合わないとダメ。誰かの嫌いを否定するというのは彼らの感情と実際は同じで大差がないのよ。

 

自分の「嫌い」を表現するうえで、まぁ、人は少なくとも無意識的にであっても、大抵は「正当化できる理由」を付与したくなるもので、それは実はすごく人間的なことだと思う。

それを全否定してしまうというのは、もはや人間的であるべきではないという事で、それはつまり、子供が子供らしく過ごす事を否定しているのとさほど差はない。

 

当然、人は大人になるにつれ、感情で生きるのではなく、社会との折り合いであったり、仮に自身が嫌いなものであっても、それとどう向き合うかという事を学ぶわけで、考えている事を全て実行・発言に移すわけではない。

 

ただ、そういった反対側の人からみれば「自己中心的」と思われるような考え方であったり、発言であったりを全て否定していくと、誰かの嫌いは誰かの好きであるし、同様に、あなたの好きは誰かの嫌いであるかもしれないわけで、最後は、万人がすべて同様の考えを持たない限りはコミュニケーションが成立しない世の中になる。

 

興味深いのは、こういった考え方は、戦後から現代までの日本でいわゆるムラ社会であったり、昨今の若い人が嫌う長いものに巻かれろという個人の違いを否定する考え方なわけだけど、モノが変わると人はやはりその考え方が冷静ではいられなくなる。

 

子供が嫌いという人は普通に多い。

以前もコメントしたが、そもそも子育て世帯や、子供とかかわる世帯というのは、どんどん少なくなり、基本マイノリティであるわけです。

どんなに綺麗ごとを言っても、自分に直接的に関わらない事に熱心になれる人はそれほど多くなく、正直な意見を述べれば、私が考えるに「子供がうるさい事は当然」と考えている人の中にも実は直接的な何かが起きれば「子供が嫌い」に変わってしまう人もおそらくは大勢いるだろう。

 

結局、こういった意見は、その時、その状況で比較的変わりやすいし、極論言えば、上記の逆で、自分に子供ができた時や、甥っ子ができたときなど、何かの切欠で今まで苦手であったり、嫌いであったものが、そういった切欠で大丈夫になったり、さらには好きに変わることだって普通にある。

 

人と人が関わるときにまず考えないといけないのは、嫌いという事実から議論する事ではなくで、嫌いという事に至っている理由であったり、極論いうと、嫌いな人が嫌いなものと直接かかわらなくてもよい状況にできるのであれば、それはそれでその方がよいわけで、そういったまずは周辺の事情から整理した方が100倍ましだと思う。

 

例えば、登校拒否している生徒に、なぜ学校に行かないのか、という議論をするよりも、学校に行きたくないという事実があるなら、とりあえず学校には行かない方向でもよいけど、将来自分の選択肢がなくなると、それはそれで不幸だから、学校に行かないという事を前提として、そういった問題だけなにか解決できないかという普通に考える、そういった思考が大事だと思う。

 

昨今、マイノリティへの配慮や理解という事が叫ばれるが、結局こういった事もそういった話だと僕は思う。

 

子供を好きになれない。

そういった人は、ある意味社会では単純には受け入れられない。

理由は「子供は守るべきものだから」。

でも、私はそれを社会が秩序であったり、暗黙のルールとして理解させていくには、ただ「お前の事情なんかしるか!」と抑圧するだけではなく、うまくすみわけしたり、また、相手の事情もよくよく理解して共存することもちゃんと考えないとダメだと思う。

 

そこを考えず、ただ「お前の考え方がおかしい」とだけ言い放ってしまうのは、それこそ思考停止で、社会の発展もなく、終わった考え方だと思う。

 

多様性が叫ばれる世の中で、これからどんどん共通的な考え、普遍的な考えというのは変わっていく現代なわけですから、それを生きるわれわれはそういった環境にちゃんと向き合っていかないと、我々が「老害」と批判してきた先代が築いたソレと結局は同じような社会を作ってしまうと思うんですよ。

 

そう思いませんかね。

僕はそう思うけど。