何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

不平等について「それは貴方たちが勝手にしろ」はどちらかというと女性を追い詰めるという話し

 

あんな🙋‍♀️ on Twitter: "これがほしいなら、勝手に男性トイレユーザーが各施設に申し出れば良いだけの話であって、女性トイレユーザーは全く関係ない問題だと言うことは認識できませんか?あと、女性が申し出る話でもないということを? https://t.co/ZEmkXbgz7L"

個人的にはどうでもいい話なんだけど、ただ、この言い分だと、女性が差別的な状況に置かれている話題について男性に理解を求めるのもお門違いで勝手にしろという事を正当化するので余り良くない論法だと私は思うが。

 

元のツィートの中身にもあまり興味はないし、実際問題気になってるなら自分で行動を起こせばいいのでは?とも思う。

 

ただ、この「男性の問題なんだから勝手にやれ」論を正当化してしまうと、逆に女性の不平等についても男性に「それは女性の問題なんだから自分達で勝手にやれ」という事を正当化する事になり、特に、声の大きくないものや議論が必要な状況下での不平等の解消や課題の解決に影響を及ぼすと思うのだが。

 

大きな問題は男女ともに多くの支持者や共感をえる事ができたり、また、声の大きな人が活動に関わる場合は、仮に小さな問題であっても火付け役の影響により、物事の大小に関わらず活動としては認知され、少なからず影響を及ぼす事ができる。

 

一方で、地域の問題であったり、それこそ女性が少数の現場であったり、物事を変える事が難しい状況での活動には、少なくとも当事者である女性だけでは状況を変える事が困難な事は少なくない。

同性の理解だけであったり、訴えの窓口の理解だけでどうにか出来る事は、どちらかというと少なく、結構理不尽な状況や環境であっても「皆/今まで/それを受け入れているんだから」という雰囲気で変えられない事はいくらでもあると思う。

 

また、同性から見ても中々それが不平等や何かしら課題を含んでいるのかというのは、今の時代は必ずしも理解できるものだけではない。 

既に時代は令和を迎えており、単純に性別という余り意味の無い集団の単位で意見を集約する事は既に時代遅れになっており、どちらかというと、価値観でったり、感性という部分で共感できる集団が性別に関わらず意見や認識を共通にした上で、その価値観や感性を生かす事が今の時代の集団や環境の捉え方ではないかと私は思う。

 

そう考えたとき「それは男性の問題なのだから」とか「それは女性の問題なのだから」という論理は、そういった、時代とは逆行したモノの考え方であり、例えば最近話題になったノンバイナリーという認識に対しても無視又は否定するものでもある。

 

私は、問題に向き合うときに男性の問題とか、女性の問題として切り分ける事はする事は自分ではないと思っている。

 

ただ、男性である自分が意見できない領域や、役にたたない領域は現実としてあり、理解できない事について意見をしないという判断はある。

 

ある部分で女性にとって不条理があれば、それは男性に対しても何かしら影響がある恐れはあるし、そういった不均衡や不平等を是とするというのは組織のあり方として私は間違っていると思うし、その上で、男性に仮に関係ないとしても、組織や集団としてそういった不平等を是とする事自体が私は間違っていると考えているからだ。

 

だとすれば、それが男性や女性という性別の問題にある程度依存する話しであったとしても、少なくともそれを「男性の問題」「女性の問題」と切り捨てる事は、組織や集団としての考え方として間違っているし、前述のとおりノンバイナリーを始め、単純に性別で物事のあり方を定義できない時代である今、そういったものの言い方は男性よりも、女性自身であったり、それ以外の多くの人を追い詰める事になりかねないと思う。

 

不平等や不均衡などについては、基本的に社会や集団として、そういった事を受け入れない、そういった価値観や感性を共感する事が大事で、その上で、誰が主体的に行動するかという事について言えば、その物事の性質を考えて、より有効的な関わり方をすればよいのだろうと思う。

そういった意味で、性別や何かしらの属性というもので、物事の考え方を切り捨てたり、責任を押しつけるような事は、現代社会のあり方と私は逆行していると思うし、自分はそういった考え方はしたくないと思う。

 

今、ちょうどEURO2020の決勝を見る為に待機している。

私の認識では同決勝で戦うイングランドのサッカーリーグであるプレミアリーグでは「No Room for Racism」というフレーズで人種差別を含む、あらゆる差別行為に対して戦う意思を見せている。

こういった時、何か課題や向き合うべき事象が出たとき、基本的に海外では「男性」や「女性」というフレーズを使う事はあまりないと私は認識している。

 

それが差別なのかどうか、そこが重要であって、その対象や行為、影響範囲の属性などを先に論じる事はないし、仮にそれが女性の抱える問題だったとしても、男性の抱える問題だったとしても、それを社会という集団が抱えている事に関係はないからだ。

 

そいった視点においても、この、「それは男性の問題なのだから」とか「それは女性の問題なのだから」という考え方は、時代錯誤も甚だしいし、令和の時代には明らかに受け入れがたい考え方だと私は思う。

 

単純に社会として向き合うべき問題かどうかが重要で、仮にそれが自分の興味の無い領域であれば、ただただ無視していれば良いし、話題に参加しなければ良いだけだと思う。

 

そこにわざわざ否定的な意見や差別的な意見を述べるという事は、結局のところ、何かしらの属性をキーワードにした差別や区別の意識が強いという事でしかないと私は思うし、そんな事や行為は私はするべきではないと思う。