引用したという事は、同意を示しているというトンデモ理論
林修『ご報告』
山本一郎氏の記事の引用は、そういった過激な主張をする人さえいるのが現実という一つの事例を示す意味であって、別にそれ以上でもそれ以下でもないかと。ある程度知名度がなければ意味がないわけで。そこは妥当かと
まぁ、これだけわかりやすく書かれても理解できない人がそれなりにいるわけで、ましてやはてなというある程度そういったやり取りに慣れている(かどうかは人によるが)属性を持つ人ですら、記事の内容を理解できないわけだから、放送という手段により一方的に流されたものを二次的に利用する人間であればさらに理解はできないのだろうなとは思う。
ご苦労様です。
一方で、興味深いのは山本一郎氏の記事を引用したのだから、その記事の内容に少なからず同意または理解しているという意思を示したのだ、だから攻撃される余地を与えたという理論。
謎すぎて理解できません。
そもそも引用は肯定する場合でも、否定する場合でも、それ以外の場合でも利用するもので、別に引用そのものに属性はありません。
何かしらの事柄を説明する上で、補強が必要と考えられるとき、著作物の一部を使うという手段にすぎず、それ自体は無味無臭です。
実際、記事の内容を読めばわかる事で、林修氏が肯定しているのは、社会としては見えないコストが莫大にかかっているという事実という部分のみであり、具体的な金額も、その金額を負担できない事が社会的なお荷物であると言った論旨に対しても一切肯定の意思は示していません。
そもそも、記事の中であるように、そういった主張をする人でさえいるという一つの事例を示す為に引用したわけであり、それ自体は、その引用した記事を肯定する意図でない事は明らかです。
結局のところ、この記事を読んでも「山本一郎の記事を引用したのかだら」云々という理屈で攻撃する行為を正当化する人というのは、単純に山本一郎氏が嫌いで、その人間に関わった人をすべて攻撃または否定したいだけか、又は、単純に林修氏が嫌いなだけなのだろうなと。
引用しただけで肯定の意思を示したなどという暴論がまかり通るならば、反対意見を述べる時や、誤った情報を訂正する際に利用する行為もできず、もはや手段としての引用は事実上使うことができないわけであり、さすがにそんな理屈がとおるわけもない事は明らかなのですが。
攻撃や否定をする事を目的とするとここまで人間の思考は愚かになるのか、というよい事例かなと。