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何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

お互いの価値観を理解できないのは双方の問題

 

簡単でいいよって そんな簡単なご飯なんかないんだよう って言いたいわ。 ..

ん?冷凍うどんとうどんスープを買い置きしておけばいいよ。うちは疲れたときはこれ。連日で飽きるときは、なんでもいいので冷蔵庫の野菜を炒めてのせれば尚芳。アレンジだととろろ昆布とか乗せるものでも全然変わる

2017/01/25 09:47

 

よんだ。

 

背景がわからないので、記事主やその行動にも何かしら原因があるのか、それともパートナーに問題があるのか、その両方なのかわからない。

 

ただ、基本的にこの手の会話について「簡単な料理を勧めるとかそういうことじゃないんだよ」という意見については、単純には同意しかねるというお話。

 

そもそも「簡単でいいよ」という背景がわからない状況で何が最適解なのかなどわかるはずもない。

 

前提条件として、既に簡単なものを出したら怪訝な顔をされた、とか、料理しないのに出されるものには口うるさい、とか、そもそも共働きだ、とか、なにかしら前提条件があり、記事の内容が精神的負担によるもの、と判断されないかぎり全方位の可能性を考慮する必要がある。

 

で、個人的な意見として「簡単でいいよ(ね?)」というのは比較的よく見かけるフレーズのようにも思えるし、実際、我が家では妻からも私からも発せられるフレーズでもある。

 

重要なのは、我が家では、私からだけでなく、妻からも当然発せられると言うこと。

そしてそのフレーズがでた瞬間に我々夫婦の間では、ほぼ3択が確定する事。

それは「うどん」「らーめん」「冷凍食品」のいずれかとなる。

 

我が家はとも働きなので、基本は妻の仕事の状態により晩ご飯を決める。

もっとも、そもそも何を作るか、というのは当日以前に決まっており、Googleカレンダーに登録されているので、それが作れないという状況の場合「簡単なもの」または「外食」「お弁当」の何れかとなる。

 

で、そのどれであっても、そもそもお互い不満はない。

 

理由は単純で、そのフレーズがでる状況やその理由をそれなりに理解しているから。

 

そもそも「簡単でいいよ(ね?)」というフレーズがでるのは、何か理由がある。

例えば昼間に外出して疲れているであったり、パートナーの体調が悪いであったり、急な用件や仕事の影響などで時間が遅くなった又は時間がない、その他そもそも料理する気分ではない、など、何かしら理由がある。

 

少なくとも、我が家では料理は妻がしてくれるので、妻の状況により料理の品も前述の選択肢も変わるし、少なくとも私の事情で変わる事はない。

 

妻も恐らくは私に「簡単なものでいいよね?」というフレーズを使う事に、それほど不安や戸惑いはないと思うし、そもそも過去、その統べてで「いいよ」という回答になっているので戸惑う理由もない。

 

このフレーズを肯定して受け入れる人と、受け入れられない人の違いはなんだろうか。

 

それは「お互いの価値観の理解」の状況だと思う。

 

同じフレーズであっても、価値観を共有しており、その事を背景や状況を理解し受け止める家庭や組織では肯定して受け止めることができる。

逆に、価値観の理解ができておらず、背景や状況の理解もできていない場合、少なくともこの言葉を発する方も、受け止める方も、言葉通りの意味に受け止めることはできないだろう。

 

結局、言葉の意味や価値は、その言葉をやり取りする人間間の関係の成熟度によるのだと思う。

 

確かに、そういった成熟度に依存しないような万能で万全な言葉遣い、選択ができると言うことはもっと素晴らしいかもしれない。

 

ただ、関係が成熟している人間からすると、その配慮は、もしかするとお互いの負担になるかもしれない。

 

どちらがよいというものではないが、私は、言葉遣いに気をつける事は大切だが、それ以前に、例えば「簡単でいいよ」または「簡単でいいよね?」という会話がパートナーとの間で肯定できない関係であるというのであれば、まずはその関係についてもう少し成熟させることの重要について考えて欲しいと思う。

 

「簡単でいいよ」に限らず、夫婦、パートナー、組織、あらゆる状況でその言葉の意図を正しく理解すると言うことは大切である一方で、発する側と受け止める側が必ずしも同じ意図をくみ取れないという事は少なくない。

 

コメントにあった「デザイナーに対して“簡単なものでいいので”作って」という言葉」であったり「アプリを“簡単でいいから”作って」という例えがまさにそれにあたる。

 

発する側に悪意があるのか、と問われれば、恐らくはない。

が、受け手にとっては「ふざけんな」という気持ちになる。

当然、発する側がもっと考えれば良いのだが、発する側と受け止める側は同じスキルでもなければ、同じ情報をもっているわけでもないので、それには限界がある。

結局この場合も「簡単なもの」を作る負担や、そもそも作るというもののレベルがわからない(デモ程度のものを社内でみるだけなのか、それとも成果物として社外にもでていくものなのか等)し、それが一時的なものでよいのか、持続的な維持が必要なのかなどにもより負担は異なる。

そういった点を組織として理解していかなければ、ただ発しないだけでは改善しない、なぜなら「簡単なもの」を欲するというのは、何かしら理由があるので、その点についても同時に議論しなければ根本の課題は解決せず、それは「簡単なもの」に変わる、別な言葉やフレーズが登場するだけの事だから。

 

結局、どんな言葉であっても、フレーズであっても、それを発する側と受け止める側の関係によりその言葉・フレーズの意味や意図するところは変わるので、もし言葉やフレーズに違和感を感じているのであれば、それはその言葉を発する事を禁止するという事も一つの手段ではあるものの、その言葉やフレーズについて共通の価値観がもてるように関係を改善するというのも一つの方法ですよ、と言いたい。

 

昨今はなんでも「配慮」「正しく」「こうあるべき」という、凄く画一化された定義が蔓延しがちで、それがあたかも「絶対」であるような風潮が多く見られます。

 

確かに万人にとって、もっとも最適化されているというのは、不幸を減らす事は可能ですが、それは「最大」には到達しません。

 

二人の間、組織の中、でもっともよい「最適解」が見つけられれば、当然、他の人にとっては最適でなかったとしても、それは、その二人にとっては最適であり、結果、最大の結果につながるのではないのでしょうか。

 

この投稿に対するブコメのリアクションというのは、非常に昨今の社会の縮図を感じずにはいられませんでしたね。