何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

エマ・ワトソンのスピーチの本質が伝わっていなくて悲しい

 

フェミニスト発言を叩く人は総じてモテない - 意識高い系中島diary

女性が自立する為に一番大事な事は「異性の為の自分でいる事を目的としないこと」というのは、別にエマ・ワトソンが言い始める前から言われている事ですよ。で、「モテる」云々を指標にするのはまさにそれですが…?

 

なぜ人は炎上させるために意図的に記事を書くのか…。

 

おおよそこの記事は構成の雑さからみて炎上狙いなのだとは思うが、いや、そうであってほしい…。

 

そうだよ・・・ね?

 

で、なぜそんなことを言うかといえば、いや、タイトルで終わってるんですよ。

文中でエマ・ワトソンのスピーチについて言及していますが、そもそも女性の立場や価値観が男性に依存する事をやめることが大切であるというのは、エマ・ワトソンのスピーチ以前に言われている事です。

 

例えば、映画の中での女性の役割が恋愛対象であったり、性的な役割を負わされているばかりである点や、また、登場する女性が恋愛の話しかしないような映画は女性の地位を過少に評価しているものであるという事はすでにもう昔から言われている事です。

 

その他、恋愛至上主義になってはならないという事と、一方で、例えば学生や一部のコミュニティで女性の序列が男性の存在や価値によって定まってしまう事の問題についても昔から言及されている話です。

 

実際問題この話は、逆を返せば男性の価値観の問題と同じで、例えば学生が女性との性行為について回数や人数を自分の価値のように話すというのが女性を軽視しているというのと同じで、その行為を女性自身がしてしまうというのは自ら自分たちの評価を下げてしまう行為であるため、そういった目的のために自信の行動を変える事はしてはならないという事です。

 

で、すでにここまでの文章でお分かりのように、何かの結果について「だからモテない」という事を言ってしまうのは、結局のところ女性軽視と同じ思考回路であって、それを男性内であれば許容されるであるとか、男性に対してであれば許容されるというのはちょっと視野が狭すぎるわけです。

 

というか、これもすでに公の話ですが、今男性が女性に行っているハラスメント等については女性の社会的地位が向上するにつれ、次第に女性から男性に対して行われていることも明らかになっておりこれも一つの社会的課題の一つです。

 

結局のところ、何かの行動を評価するときに「だからモテない」とか「イケてない」というような本質的でない評価で他人を評する行為が本来の価値やあり方をゆがめているわけで、それをわざわざこの手のネタで使うというのは、さすがにネタ以外ではありえません。

 

なので、本当に僕はこの記事がネタであって、炎上を狙うためにやったんです、という報告があることを願いたいし、流石にここまで軸がブレブレな記事を放置するのはお勧めしませんね。

 

 

自称意識高い系という事なので、ここでこそその意識の高さを是非見せてほしいものです。

社会的に抹殺する手段を講じるのは昔から

 

今の日本で「議論」はできない

どうでもいいことかもしれないけど、社会的・コミュニティから抹殺・追放という解決策をとるのは現代日本の問題じゃなくて、もともと日本が持っていた内向的な同調圧力による解決策であって昔からの問題だと思います

 

いや、それ、もうずっと日本の伝統的に用いられる(間違った)解決策だから。

 

直ぐに「今の日本では」とか言われると、そこそこおっさんである私は「そんなに昔って議論による解決できてたっけ?」などと思うのですよ。

 

で、考えるとそもそも村八分に限らず日本はこの狭い国土の中で極端に強い同調圧力を使い、特定意見に従わない場合は完全に社会的な抹殺を行う事を繰り返してきました。

 

それがたまたまリアルだけでなくネット上でも行われているだけで、別に日本の社会的なコミュニケーション能力の低さという意味ではもうずっとそんな感じだと思います。

 

基本的に自分の意見と違う=敵という考え方や、ゼロか百かという極端な思考というのは日本ではなぜか普通にまかり通っています。

 

意見が違うというのは個性の差であるのでそこは当たり前の事なんですよ。

 

例えばキズナアイの件も「私は嫌い」というのは全くもって問題無いし、それを芸能人が言おうが、政治家が言おうが好きにすればいいと思う。

ただ、そこで自分の意見が世の中の主流であり、自分の意見とは違うものは異質なもので排除すべきものだとする発言をしたり、相手の意見を否定する事を目的とした意見をぶつけ合い始めるともう議論にはなりません。

 

議論というのは、そもそも相手の意見や主張を理解する所を目的としています。

なお、別に同意する必要はないしいずれかの意見に集約する必要もないんです。

 

ただ、議論する事でなぜ相手はそう考えたか、なぜ自分はそう考えるかを相手にも自分も理解する事が重要で、その上で仮に課題があるならその課題への解決策や回避策を議論すればいいだけなんです。

 

ただ、日本で行われる議論は議論開始時点で悪か善かであったり、正しい・正しくないという定義を先に決めて、その定義に従って双方が議論し始めます。

 

私も最近とあるコミュニティで似通った事例にあいました。

 

ある事について問題を起こした事は是正されるべきだが、ただ、その問題の本質を解決しないと結局その問題が起きる原因が排除されない為、起こす人、起きる時が違うだけで再発するよねという意見を述べました。その時、問題を起こした人の意見を聞くとそこには問題が起きる原因を示す一端があったので、あぁこのような考え方になるというのは、行動を選択する時にそれを選択する事由があると勘違いしている事が原因であるため、その点を排除(そこでは問題が起きる選択肢を選ぶ自由はない)しないとダメですね、と意見しました。

 

すると見事に斜め上の批判が来るわけです。

なぜ問題を起こした人間の意見に理解すべきものがあるのか!問題を起こした人間の意見を肯定するか!と。

 

結局これも同じ構図で、問題を起こした瞬間にその人は悪であると断定されており、その後のやり取りは悪である人間の発言には一切の考える、くみ取るべき余地はないと本気で考えているわけです。

 

その後何度も考え方、問題を再発させない事が大事で、その為には問題を起こした人間の考え方を理解してそれを生かさなければならない、再発させない為には常にその原因を排除しなければ誰も救われませんよね、と、なぜそのような考え方をしなければならないのかを説明しましたが、延々と「そんな事を私は聞いていない、私は貴方がなぜ問題を起こした人間の意見を重要視するのかという事だ!」と同じ事を何度も繰り返し説明しても「それは答えではない」をこれまた延々と繰り返すわけです。

 

この「それは答えではない」という意見は結局のところ「それは(私の望む)答えではない」というものであるわけで、その時点で私はその議論を止め、論点がかみ合わない議論は続ける事に意味はないとして終わりにしました。

 

この様な議論はどちらの派閥、つまり今回でいえば肯定する側、否定する側両方に非常に多くいるわけで、そのノイズが正しい議論の妨げになっているのは間違いありません。

実際問題、私の意見も、相手の意見も間違っている可能姓はあるわけで、それですら話し合って相手の言い分を聞いて、理解し、違いがなんであるかを双方で落とし込むしかないわけですが、これは双方が行えないと成立しません。

 

 

結局のところ、以前から述べていますが、日本人・日本という社会自体に「議論する」「理解する」という素地がなく、社会そのものが「善と悪」のような明確な線引きがなければ状況を飲み込めないのだと思います。

 

おおよそトップダウンの環境、家というコミュニティであれば家主、会社というコミュニティであれば上司、学校というコミュニティであれば先生と誰かが方向を決める、つまりコレが正しい、コレは間違いとした明確な線引きをしてくれる環境で育ち、それが当たり前であると思っていると、知らず知らずのうちに善と悪以外の選択がある事や、悪は全てが悪とは限らないという事、同意するというのは必ずしも全ての同意するわけでもなく、否定するというのも同様に全てを否定するわけでもないというこういった曖昧な環境で生きる・過ごす事ができなくなってしまうのだろうと思います。

 

基本的には何かを考えるのは自分であり、正しい・正しくないというのは基本的には「自分にとって」という事である事を理解する必要があります。

 

仮に、社会的な問題であっても、それを語る時は結局は「その事象は自分にとっては」となるべきで、そこでこの意見が世の中の当然だからという意見で進めればそれは議論になりません。現実社会ではそういった状況も起きますが、その時はなぜそうなるのか、つまり自分はそれを肯定(否定)するが、それはどういった理由がある為であるかを説明すればよく、その時に「それが当たり前だから」とするのは議論を放棄する事と同じです。

 

こういった環境を変えるには、小さいコミュニティであったりで、子供のうちであったり、家庭の中であったり、仕事の中であったり、そういった身近なところでそういった考え方、そういった状況というのは当たり前なのだと、というよりも、そもそも自分と他人は最初から違うし、意見が合わない事は当たり前で当然であると、当然なのだからまずは相手がなぜそのような事を言っているのか考え、それは関係者がお互い考え、そして歩み寄る必要はないが理解できない=拒絶ではなく、理解できないならそういった考えもあるのだろうと理解するしかなく、そこまで進めて初めて議論をする、どうするかを話し合う事ができる素地ができるのだと学ぶ・教える必要があるのだと思います。

 

こういった事を理解したり、小さい所から変えて行かないと、意見が違う=敵であったり、意見が違う=悪でとしてラベリングし、結果として意見が違う相手は社会的に抹殺するべきという結論に短絡的に持って行ってしまう状況を改善する事はできないのだろうなとは思います。

 

 

聞き手を軽んじすぎ問題

 

キズナアイの騒動に寄せて―アンビバレンツな態度をいかに保つか - あままこのブログ

実際問題聞き手が若い女性ばかりというのは問題ではある。というのも、そもそも話し手は自己の都合で語るもので且つその事を理解している人であるのに対して聞き手は視聴者との橋渡しが必要なので本来スキルが必要。

 

あんまり興味のない話題だったけど、ちょっと違う方向で気になったので。

 

そもそも聞き手って、相当難しい役割なんだよね。

ただ相づちを打つだけでは無く、流れを読みつつしっかりと視聴者のリズムをイメージして飛躍しすぎた部分は間を埋めるようにちゃんと自然に問いを準備する必要もあるし、旨く語り手を乗せていかなければならないところもある、実際には何もしらない人では無くて、どちらかというと素人の振りした上手な聞き手でなければならないわけで、これは相当スキルが必要なんだよね。

 

その上、専門的な話しになればなるほど語り手はその事が当然であるように話す事もあるわけで、そういったある意味自己中心的な話しであっても視聴者との距離感を離しすぎないように上手にマネージメントしないといけない。

 

当然台本はあるわけだけど、その台本を使った打ち合わせの中で、当然聞き手としてはそれが伝わるのか?(語り手は詳しいわけで伝わると思い込んでいるのでその行間を埋めるのはまさに聞き手の腕の見せ所)をちゃんと考えて、必要に応じて質問し、補足をもとめ、それでもダメなら自分で補足を入れる(引き出す)力が必要になるわけですよ。

 

そう考えれば、語り手というのはある程度尺を理解してくれる専門家であればいいが、聞き手というのは放送というものを理解しているだけでなく、その時の専門的な話題にある程度知識を持ち、且つ、対人能力が優れていなければならないわけで、どう考えても選ばれた人しかできないと思うんですよ。

 

例えば女性アナウンサーばかりがやっているのはこれはある意味偏見もあると思うんだけど、どちらかというとあれって九州男児を手のひらで転がす女性同様に、番組を女性が仕切っているという女性のスキルの真骨頂のような気もするんだよね。

まぁ、だからといって昨今のアホっぽい感じ(と僕は思っていないけど、そう感じる人もいるんでしょうから・・・)で若い女性が聞いている姿勢は必要なのか?という話しはあるのだけれども。

 

正直おっさんが聞き手だったら、相当飲み込み悪そう(そしてコレが偏見というオチ)で、語り手が「だから!」みたいな感じで番組の主旨に反して漫才のような結末も見えるわけだけど、それはそれで面白そうだよね。坂上忍とか明後日の方向の質問して語り手が答えないと逆ギレするみたいな構図で面白そうだよね。

 

あとは、ちょっとインテリぽくて柔軟性の足りない人とかを聞き手にして、語り手があえて単純化して視聴者に分かりやすくしているところを「そこおかしくないですか?」みたいな無粋なツッコミをしまくって尺が足りなくなったり、余計に分かり難い番組になったりするのも面白いよね。

 

レースクイーン問題然り、見方が変わればそれが差別であったり侮辱であると受け取る人がいるとは思うので、現代の「万人に受け入れられる、受け入れられない人がいるならそれは止めよう」方式で行く限りはまぁこういったある意味女性スタッフのスキルというのを生かす場はなくなるんだろうなぁとは思う。

 

個人的には枡君みたいな人を聞き手にすると危険な時があるから、旨く使い分けてくれるなら男性に聞き手を持ってきても余裕でOKなんでどんどん切り替えていけばいいんじゃないかなとも思う。

 

そんな感じかな。

女性だけ、男性だけ

 

シュナムルさんのツイート: "凄いのは、河野さんは女性外相会合にノコノコ出席した自分が場違いだと全く気づいてなくて、誇らしげに自分のツイッターに集合写真を上げてるところ。国際舞台で自分の振る舞いがどういう意味を持つか、自分がどんな風に見られているか全く自覚できない人がこの国の外交を司ってるの、普通に怖すぎる。"

仮に事実であれば女性外相の愚かさが露呈するし逆に事実でなければ女性外相のプライドを傷つける行為に過ぎない。結局この手の発言は誰でもないそこにいた女性に「女性とはこうあるべき」という脅迫をしているだけ。

 

「女性の為の会議」の場に男性は不要なのか。

「男性の為の会議」の場に女性は不要なのか。

 

そもそも「女性の為」の議論を女性だけでする意味は実際ないし、同様に「男性の為の会議」を男性だけでする意味もない。

 

理由は単純で、そもそも社会では男性、女性が普通に混在する事が当たり前で、職業や一部の場ではたまたまどちらかの比率が高い事はあれど、それは結果に過ぎない。

 

なので、今「女性」または「男性」にとって問題となる事があれば、それは主役はその「女性」または「男性」であったとしても、議論は全ての人、極論言えばそういった性別でない人も含めて行うべきで、それが当たり前の事。

 

「WOMEN Foreign Ministers' Meeting」と書かれている場に男性がいることがおかしいなどというのは、主催者側の問題であって本気で女性だけで議論したいなら、普通に要請時に呼ばない選択をするだけの事。

 

逆に呼んでおいてタイトルを「WOMEN Foreign Ministers' Meeting」とし、その場に来た男性に対して「なんできてんの?」などというのは、少なくとも真っ当な感覚ではない。

 

であるならば、少なくとも「WOMEN Foreign Ministers' Meeting」というタイトルとしているが、実際には意訳すれば「女性外相を中心とした会議」または「女性外相の為の会議」となるわけで、「女性外相だけの会議」とするのはいかにも日本的な表現だなぁと思った。

 

もっとも、実際どっちの意味であるかはわからない(主催者に聞かないとニュアンスはわからんし、実際タイトルより招待があったのかの方が重要ですからね)けども、むしろこの場合は、一人だけ訪れた男性を否定せず受け入れた女性外相を褒めるべきであって、逆に来た男性外相を批判するというのも、まさに古き日本の考え方だなぁ、と思った。

 

昔は「こうあるべき」という一つの型があって、その型に当てはめて考えられない人はレールを外れた人、常識のない人として扱う事が当たり前のように行われていたし、それをおかしな事、差別的な行為、排外的な行為とは当時の人は考えていなかった。そういう時代だからね。

 

しかし今は違う。

本質的に意味のあることであれば、場が許すなら喜んで受け入れるし、前述のとおり、「女性外相が中心となった会議」に、仮に呼ばれていない男性外相が突然現れたとしても、それを上手に受け入れ、差別する事もなく議論に入れるという、そういった価値観が普通になってきているわけで、今の考え方でいえばその事を普通に行った女性外相こそが国際協調のあり方について、性別云々に固執せずに行う姿はまさにリーダーシップをとって行ったと賞賛すべき事に過ぎない。

 

結局、こういった物事と向き合った時に、人は本音であったり、自分の本質的な考え方・ココロにあるものの考え方のルールを露呈してしまうので、注意してほしいと思う。

 

個人的には、河野外相が仮に招待されていなかったとすれば、あれだけ上手に対応した女性外相はやっぱリーダーたる資質があると思うし、逆に男性外相も同様に呼んでいたのであれば、それもこれからの男性・女性などの性を超えた課題との向き合い方という、新しい会議の形を示したのだと思うので、結局は賞賛すべき事に過ぎないと思うんですけどね。

 

まぁ、海外でどう受け取るかはしらないけど、僕はそういったものの見方をしたいと思う人なんで。

 

あれは完全に失敗

 

ウィキペディアが、実は「男の世界」だって知っていましたか(北村 紗衣) | 現代新書 | 講談社(1/4)

若干間違ってる。ドレスについてまとめるのか、それとも個人の情報としてまとめるのかの議論もズレてる。ルールとしてドレス文化・製品としての歴史ならそちらへ、個人の服飾としてであれば採用されないという話し。

 

正しい事としては、実際問題エディターが偏ってる点、もっと言えば、宗教や政治的紛争が持ち込まれており項目によってかなり偏っている点、そして文章自体や構成自体が男性中心である点は正しい。

 

が、件のドレスは、ルール上の問題が大きい。

 

例であるLinuxで言えば、あれは製品としての文化について列挙しており、文化的にも枝分かれしているという問題があるのでその事実を記載している。

 

件の話しは、ドレスというものは個人について表すものではあるが、ただ、ドレスを全て列挙するような話しではないし、特定のドレスの善し悪しはドレスの議論であって彼女のドレスについて、という記事を作る話ではないという議論であったとの認識。

 

実際、それはそうで、例えばある人の特定の事だけ切り出すというのは過去にも認めていなくて、例えば特定の作品に関する情報が肥大化した場合は、その出演者一覧やキャラクター一覧として枝分かれさせる事はあるものの、それ自体を単独の記事とする事は基本的に行っていない。

 

やるのであれば、本来は彼女の記事の中に書くのか、それともドレスの文化としてまとめるのかという議論にすべきであったが、その記事の書き方自体が女性軽視だとして紛争になったわけで、正直あれは歪んだ議論でしかない。

 

結局あれを認めるという事は、今後、誰かのファッションについて単独の記事を否定するような事もできないし、一つの物事がちりぢりになる恐れもある。

 

ある意味百科事典として崩壊する引き金になりかねないぐらい大きな話しを、性差別という議論にすり替えたのはかなりの問題だと僕は思うよ。

 

(追記)

ちなみにそもそも著名人の服飾については他にも記事がある事は議論(どちらの陣営も)されていて、その著名人と比較して彼女のドレスの扱いはそれだけの価値があるのか?それは万人にとって、という議論が主であって、ウィキペディア自体ではそういった項目は既に存在しています。

議論の中心は、なんでもかんでも別項を作るというのは方針として正しいのか?という事であって、男女云々でもないし、過去にもそういった文化を尊重していた事実もありますので。

親方のやり方・人格がどうであろうと協会がブラックな事には関係がない

 

貴乃花親方が日本相撲協会に退職願を提出:朝日新聞デジタル

協会は単純に日馬富士の断髪式までに事件の事実を流せる状態にしたかったので、一門制の強制と一門入りの条件を突きつけただけだと思うが。彼が正しいか正しくないかは関係ない。辞職もそもそも受理云々は関係ない。

 

こういう話になると「一方の言い分では」とか「彼にも落ち度はあった」とかいう話を持ち出す人がいるんだが、これ雇用関係の話であり、退職という手続きの話であるので、それ以外の事はほぼすべて関係がない話ですよね?

 

なぜ辞めるのかは弁護士の説明を聞く限りは、まだそんな話やってたわけ?としか思えないし、実際問題お金の流れを管理するための一門制ってのは明らかの異常であって、よほど壮大な説明がないとむしろ組織にお金を流す方がうやむやになるのは政治家を見てよくわかる話だと思うが。

 

で、協会がブラック企業と同じ構図なのは退職願を受理しないという理由。

完全にブラック企業のそれでしかない。

 

まず「退職届が必要」と協会自ら宣言しているので、いわゆる一般的な雇用関係と同様の手続きを求めているものと思われる。

 

確か親方としては業務委託契約で行っているものの、協会勤めは雇用関係にあるので退職が必要、という整理だったような気がする…どこか詳細があれば追記しますが、間違いがあればお教えくださいませ。

 

とすれば、少なくとも労働者側は職を辞する意思を示せばよいだけであって、必ずしも書面が必要なわけではない。

それも今回は言葉は違えど明確に職を辞する意思を労働者側が提示しているわけであって、その時点で双方雇用関係を清算する事については十分である。

 

この「書面が当社のものではない」という言い分はよくブラック企業が使う手法そのもので他にも「当社ではFAXでは受け付けない」とか「当社では指定の書面を指定の日付までに所定の承認を経て提出が必要」となっていたり、まぁ、いろいろ難癖をつけるのはブラック企業の典型でして、それを知らないで、公共の電波にブラック企業ですと宣言するような話をぶちまけるあたりが、いったいどこの弁護士がフォローに入っているのか調べたくなるぐらいのお粗末さ。

 

結局のところ、相撲協会としてはこの話は恐らく想定外の行動ではあったものと推測します。

 

明らかに日馬富士の断髪式までに事件の清算を済ませ、あわよくば事件がなかったことになれば親方待遇での雇用を考えていたのではないかと思う。

そのためには、事件が円満に解決したという状況にしなければならないわけで、そんな事を言い出す人といえば…と多少相撲協会のいきさつを追いかけている人であれば想像してもおかしくはない。

 

が、まぁ、それは想像でしかないのであれとして、いずれにせよ、親方の言動や行動に問題があったとしても、結局のところ協会側のやっている事に妥当性がないという事実はかわらないので、とりあえずはブラック協会であることは確定です。

 

ブラック企業(協会)の怖いところは、彼らは自分たちは正しいと思ってやっているので、本当にたちが悪い。

悪質社労士もそうだなんだけど、彼らの考えでは「雇ってやってる」という考えで「雇ってやってるのだから言う事を聞くのは当然」という前提でしか考えない、なので、法律上の定義や手続きなんてものには興味がないし、そういった事、それもこのご時世にこんな脇の甘い事を平気でするというのは、もう、典型的な中小企業のブラック企業社長と同じ思考・行動だと言わざるを得ない。

 

将棋とは違いそれほどもう相撲には興味がないので勝手にやってくれていいのだけど、本当にこれ協会認定解除できないのかね?と思うんだけど、なんでこんなところが公認なんだろうか…。暴力、八百長、ブラック運営と雰囲気的には漢検に追いつくぐらい結構ヤバイ組織だと思うんだけど…。

 

まぁ、そう私が思うだけで、もしかするとすごくすごく素晴らしい組織なのかもしれませんけどねー。