何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

100字で説明するのは難しい・・・

 

なんで社内の人を「さん付け」して呼んじゃダメなの? (2/13追記)

「さん」に限らず敬称とは相手との関係を示す為につけるもので、なので敬称の選び方により相手を敬っている事を表すこともできますしその逆もできます。意図的に示す必要がない場合はそのまま名詞や代名詞を使うはず

 

良い問いだと思います。

 

「さん」はいわゆる敬称なのですが、敬称とは基本的にはその相手との関係性を示すものです。

 

元々は敬った言葉を使う場合に、その名詞、代名詞にもそれに適した敬称をつけていたため、名詞や代名詞と共に、どのような時やどのような相手に、どのような敬称をつけるのか、という事がある程度セットになってきます。

 

「さん」は現代でこそカジュアルな敬称ですが、もともとは相手を敬った表現とする場合に用いられたものです。

由来には「様」があるとかないとかありますが、そのようにその相手を自分よりも上としておく場合につけるというものです。

 

その前提で、社内の人間を社外に紹介する、表現する場合に、なぜ「さん」をつけないのかというのは、社外の人が入った瞬間に自分と相手の関係に明確な線が引かれる為です。

 

前述のとおり、敬称は、その敬称をつける相手と自分の関係により設定します。

 

一方で、会話であったり文章というのは、原則として話し手と聞き手の二つしかありません。

 

社内の自分と、社外の相手がいる場合、当然関係としては自分と相手ですので、敬称をつける場合はこの二者の関係を中心に表現する事となります。

 

この時、第三者が登場する場合について、今回のように社内の人間となるとそれはいわゆるその関係においては「身内」という事になり、相手からすると「話し手である自分と同じ立場」となりますから、相手からみた場合に「○○さん」とつけられると、その二人での関係に別な関係性を持つ3番目の登場人物が加わる事となります。

 

ただ、一般的に仕事の場合であれば、私とその3番目となる社内の人間は「当社」という言葉に置き換える事ができます。

※仕事は個人でこなすわけですが、実際は法人格として行っているわけですから

 

そのような場合、相手と自分との間でいえば、私もその社内の人間も「当社」として同一の格となるわけですから、敬称をつけないという事になるでしょう。

 

逆に「さん」をつけて表現された場合は、意図的に敬称をつけなければならない相手としての理解となります。

 

つまり自分とは一定の距離がある人間で敬称をつけなければならない関係性という事です。

その為、社内の人間に「さん」をつけるという事は、敬っているという事の表れではなく、どちらかというと「距離があり関係性が乏しい相手」としてあえて誇張することになります。

もともと敬称とは敬う為につけるものですからね、態々社外の人間との関係でも敬わなければならない(つまり、そもそも相手と自分とその社内の3人の関係でいえば、敬うのはその相手だけのはずですから)わけですから、そうなりますよね。

 

という事で、社内の人間を社外の人間に対して表現する場合は、必要がない場合はつけないという認識になるのではないかと思います。

 

私はそんな感じで理解しています。

正しいかどうかはわかりませんが。

 

追記1)

 

社内が「呼び捨て文化」であれば、外に出ても「呼び捨て」はOKだろうけれど
社内で「さん付け文化」なのに、外に出たら「呼び捨て」って違うんじゃない?
そもそも、敬語文化に賛同しているから、社外に対しても「さん付けしてもOKにならないか」と言っているだけだし
私の言っていることはスジが通ってると思うけど。

 

その二つが混在する事に問題はありませんし、矛盾もありません。

 

状況にもよりますが、前提が、社外の人間と自分が話している前提であれば、敬語文化という話しであれば、敬語を使う相手が社外の人間であり、そしてその二者間の関係にあらたに登場する社内の第三者も、その相手に対して敬語を使うべき関係性ですから、結果として「さん」をつけないという事になります。

この場合、「さん」をつけないのは社外の人間と自分ではなく、社外の人間から見えているのは自分を通した「当社」という法人格なので、同じ「当社」に所属する人間を「さん」付けして呼ぶという事は、会話としてはおかしいかと思います。

 

 

結局、その会話が「誰と誰の会話なのか」という話しだと思います。

勘違いしがちなのは、あくまでも仕事の会話は会社の代理で執行しているという事です。

それぞれの権限や役割が移譲、設定されており、その中で行っている事です。

その為、個人名をつけるのはあくまでもコミュニケーションの手段の一環ではありますが、行っているのはあくまでも「会社」であり「法人」ですから、同じ法人の業務遂行者である従業員については社外から見ると全て「○○会社」という表現になるわけです。

 

正しい、が、それってテクニカルチームの敗北宣言では?

脈略もなくF1の話しなんですが。

 

今週からどんどん2019モデルの新車発表が行われております。

12日はベストオブレストの一角であるルノーの新車発表があり、ある意味メーカー系企業としてどの程度の進化を遂げるのかと期待しつつ見ていました。

 

結果としては・・・うーん、ちと拍子抜け。

もっとも、プレス向けの実車での発表は製造の遅れからほぼ昨年モデルだったので、CGベースでしか判断できませんが、どうも今年はレッドブル模倣が主流になりそう。

 

というのも、そもそもトロロッソはリア周りは完全にレッドブルと互換ですし、それ以外のパーツ類も2018モデルのレッドブルからの流用を行う事を既に明言し、実際発表された2019モデルもそのとおりの中身でした。

 

また、発表はまだですが、マクラーレンについても既にレッドブルを参考にして2019モデルを開発していると宣言しているので、発表されるものはおそらく2018モデルのレッドブルをベースにしたものになるでしょう。

 

ハースについては例年フェラーリとの共存がある関係から、基本的にはフェラーリ+α程度のものですから、特に違和感はない(というか、限定的なCGしかでていないので詳細はわからない)ですし、レーシングポイントについても恐らくはそれほど変わらないのでは?と考えています。

 

ウィリアムズはカラーリングのみ発表ですので今後に期待ですが、昨年の状況もありますのでおそらく保守的な設計では?とにらんでいます。

 

と言うことで、あとはアルファロメオルノーといったところが独自性を出すかどうかといったところでしたが、その一角であったルノーについては、公表されたCGを見る限りマクラーレンと同じく2018モデルのレッドブルを参考に開発をしたという事が現実のようで、そういった意味で「ゼロから全て見直した」という事なのかもしれません。

 

うーん、わかるよ、確かにわかる。

 

同じエンジンを積んであれだけ性能差がでるわけだから、極論言えば、シャーシを同じにすれば3強の一角であったレッドブルの2018年の走りを再現できる可能性(2019年はレギュレーションの変更もあるので完全再現は無理)はあるわけですから、そのレッドブルから電撃移籍したリカルドが加入した事を考えてもその路線は選択肢としてある。

 

が、ですよ・・・、それだとテクニカルチームはそれを超えるものが見つけられなかった、と宣言したようなものだと思うんですよね。

 

まぁ、とはいえ、全てが似ているわけでもないですから、いろいろな差はあるのですが、サイドポンツーンあたり、バージボードあたり、そして車体底でダウンフォースを稼ぐ為のレーキ角等など、基本コンセプトからその主な実装周りは完全に2018モデルのレッドブル互換機として開発したように思えます。

 

ちょっと期待したんだけどなぁ。

ゼロから見直したっていう事だったし・・・。

 

もっとも、実車は製造の遅れで未公開だったので、もしかするとプレシーズン初日に「まじか!全然ちがうやんけ!」となる可能性もゼロではありませんが・・・、まぁ、ないでしょうね。

 

これ、今年は確かに3強に迫れる可能性があると思いますが、恐らくは来年、再来年以降のレギュレーション変更時には地力に劣ることになるのでかなり絶望的な未来が見えなくもないのですが・・・。

 

ただ、この状況で一番面白いのは、トロロッソルノーになった事は言うまでもありません。

 

前述のとおり、トロロッソは2018モデルのレッドブルのパーツを多用していますし、リアエンド周りは完全互換ですからね。

その上である意味エンジンだけが異なると考えると、トロロッソ・ホンダとしてはルノーに勝てないのは仕方が無い(如何せん今年もレッドブルの為の実走テストチームとして戦う事になるのは明らかなので)としても、要所では圧倒する走りができないと、ホンダエンジンとしての評価が下がる事になりかねませんね。

 

この点が唯一の見所でしょうか。

 

結局、今年もメルセデスフェラーリ、そしてレッドブルという3強の技術の戦いになりそうです。

 

アルファロメオが唯一のダークホースになりそうな予感ですが、流石に同じフィアットグループでフェラーリを喰いに行くとは考えられないので・・・。

 

まぁ、まずはプレシーズンテストを見て寸評といった所でしょうかね。

いや、根性論でも精神論でもなく正論でしょ・・・

 

志らく、児相の人不足指摘コメントに「数じゃない、心の問題」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

なんで叩かれているのかわからん。人手不足は彼も問題だと言っているわけで。ただ、人手不足だからという理由で今回のような事件が起きてはならないよね、と言っているのだが、それは少なくとも間違ってないと思うが

 

どこをどう読んだら精神論や根性論になるのかと。

 

少なくとも人手不足であることは彼も問題だと認識しているし、それを根性や精神でどうにかしろとは言ってない。

 

ただ、人手が不足しているので毒親に不適切な情報を渡すというのはどう考えても間違っていると指摘しているのが、そのどこが精神論や根性論なんだろうか?

 

いや、現実的には、人手が不足したためにおきたのだろ?という認識は正しい。

ただ、大前提として、児童相談所がその対峙した児童それぞれに対して適切な対応をするというのは当然で、そのラインをずらしてはだめだろ。

 

人手不足という議論と、対応するクオリティというのは実際は2軸の議論。

 

極論言えば、人手が充足してもクオリティが低い事はある。

一般的に逆はないし、その逆を求めるのがいわゆる精神論や根性論だろう。

 

で、人手が不足している時にどのように対応すべきだったか、というのが今回の論点で、仮に人手が不足していたのでそれぞれの対応を雑にしました、となったのが今回の件。

 

で、この話しの論点は、児童相談所の性質からいって、その一つ一つの事案の対応クオリティを下げるという選択肢はそもそもないだろ?と言う意見で、別に精神や根性でなんとかすべきだったなどとはなってない。

 

当然、可能性としては人員が充足していればそれは起きなかった可能性もあるが、前述のとおり、それは可能性に過ぎない。

 

事件が起きた背景は「児童相談所として選択すべき選択肢を正しく選べなかった」というクオリティの問題がまずはあって、その選択が誤った背景には「人員の正しい配置やキャリア形成」と「慢性的な人員不足」の二つがある。

 

前者は結局のところ「異動」というものがある事と、そもそも児童相談所員を率先して選択してくれる人員が非常に限られているという問題があある。

後者については言うまでも無く労働者が不足するのはもうどの業界も大抵そうであって、その上で大変な仕事に対しては特にその影響が出やすい。

 

そういった点についていえば、児童相談所だけの問題ではなく、その他大多数の仕事でも同じだと思う。

 

その時に「足りない現実とどう向き合うか」というのは、業種や仕事内容により異なるのが当然で、ある業種ではクオリティを下げる事で処理数を上げるという選択肢もあるだろうし、ある現場ではクオリティを下げる事が許されないので処理数を下げるという選択肢もあるだろうと思う。

 

当然、これはセットにはなる問題だが、個々の局面ではそれは独立した問題として捉えなければならない。

 

実際問題としては不足している状況を生んでいる事自体が問題ではあるが、その行き着く先として、毒親に相談者の情報を提供するという選択肢が肯定されるべき理由があるのだろうか?

 

いや、1人で見るべき人が増えたから判断を誤ったという事はわかる。

わかる、が、だとしても相談所がその相談者の情報をその被疑者に提供するという選択肢は明らかに不味いし、それを「人手不足なので止むを得ない」などとできるなら、例えば警察がDVの被害者の情報を被疑者に提供したことも許容されるべきだが?

 

そんな事はないだろうし、それも許されない話しでしかない。

 

私も児童相談所に限らずそういった環境が非常に厳しい労働環境にある事は理解しているし、もっと人員やキャリア形成を正しい形で進めて欲しいと強く思っている。

 

だからこそ、そのような場所で、相談者、つまり弱者からの声を誤った判断をしたならば、それは単純にその事象として「それはダメ」と言うべきで、そこに他の理由を介在させてはダメだと思う。

 

精神論や根性論ではなく、それはダメだから正しい選択をするように働きかける事が大事であって、それぞれその事象として冷静に対峙することが必要。

 

その点を勘違いして「人手不足が原因だから止むを得ない」ような論調にしてしまえば、恐らくは仮に人員が充足してもクオリティは正しくならないし、それこそ弱者の声がいつまで経っても正しくくみ上げられない状況になりかねない。

 

我々がすべきことは、児童相談所という場所は、それだけプロフェッショナルで精神的に負担が大きく、対応する仕事の意義が有り、支えていかなければならないものであると認識し、その上で、そういった環境が適切に運営されるよう支持することだと思うが。

個人情報云々というか、名誉毀損の方が明確であるような気もするが・・・

 

「12年前の履歴書の内容を晒すのはルール違反」SKE松村香織がメイドカフェに抗議

志望動機か・・・うーん、これどうなんだろうか。個人情報って法律上の定義でいえば非常に限定されてるわけで、誰の、という点が論点ではあるかな。厚労省ガイドライン上も履歴書ではなく雇用に関する情報としてる

 

これは履歴書云々ではなく、実際は採用/雇用に関する活動中に対象者から企業に対して提供された情報は、あくまでも採用/雇用に関する業務のみに活用し、且つ、その情報は採用/雇用に関わる関係者のみが適切な目的に対してのみ活用できる、としているわけです。

 

なので、志望動機が採用/雇用活動に関わる活動中に提出されている情報であることは明らかだとは思うのですが、個人情報という明確な定義で処理できるかというとなかなかどうなのだろうかと。

 

個人的には、そんな狭い領域で議論するよりも、普通に名誉毀損でいいと思う。

というのも、事実如何に問わず、少なくとも掲載した内容は本人を貶める目的があると考えられるため、仮にその内容が本人により伝えられた内容であっても、それが少なくともそういった行為に利用されたのであれば、それを認定することにそれほどのハードルはないと考えます。

 

賠償請求でいえば、程度にはよりますが、例えば履歴書をそのまま漏洩させているわけでもないので、かなり限定的な争いになるものと考えますし、そもそも個人情報とは?という議論から始まりかねません。

 

もっとも、そもそも履歴書の内容をどのような事情があれば第三者に公言するというのは定義上は違反しているとは思いますが、その話しと怒りの鉄槌を裁判などで下せるかというのはなかなか一致しないのです。

 

なお、芸能人であれば、というのは実際は関係ありません。

仮にこれが個人情報であると認定されたとすれば、これは法律で定められている事であって、法律の下では芸能人であるというだけではその対象から除外されることはありません。

 

精々芸能人であるから侵害された場合にそれを黙認されるケースとしては、結婚や離婚のような情報をあえて公に告知するという行為を第三者が行った場合、それを本人が望まない形で行われた等、そういったケースで名誉毀損であるなどの争いをした場合は、確かに公人として議論が行われますが、それは個人情報の取扱ではなく名誉毀損であったりそういった行為に対する事であって、前提が別ものです。

 

そりゃそうでしょ・・・、公人だからクレジットカードの申込情報を公開されていいとか、ホテルの宿泊情報や予約情報を公開していいなどという事もないわけで。

 

ましてや労働関連の法律に、基本的に公人云々は論点とならないでしょう。

 

唯一あるとすれば、労働者なのか事業者なのかのような議論のみです。

ある契約が業務があった場合、それが労働者として行った行為であればそれは労働者という定義で処理されますし、一方で、事務所と個人事業主として契約し、その上で業務を遂行した場合は、これは限りなく事業者間の契約として処理されますので、一般的な雇用関係時に生じるような法的な規制が多くの場合で適用されないこととなります。

精々善管義務程度が残り、後は関連法規上の制約程度でしょう。

 

なので、労働者と雇用者という関係においては、相手が公人であるかどうかは関係ありません。

 

あくまでも公人であるのは個人の問題であって、雇用関係には影響を及ぼさないので、投稿主がいっている芸能人だから云々はそもそもお門違いでしょう。

 

まぁ、法律云々を除いても少なくとも下品な行為であることは明らかで、なんでこんな行為をしたのかわかりませんね・・・。

「グローバル変数」しか使えない事は本質的な問題ではない

COBOLは難しいか、記者が試しにコードを書いてみた | 日経 xTECH(クロステック)

COBOLでは「グローバル変数」しか使えない。」うん。なのでプログラムを最小単位でバラバラにしないと、メンテナンス不能になるのよ。

 

このコメントは非常に正しい。

もしかすると経験者ではないかな?と思う。

 

グローバル変数しかないという話しだが、そもそもCOBOLのプログラムは一本で全てをこなすことはない(はず)。

 

オフコンのジョブ管理をした人にしかわからないが、ジョブを定義してどのプログラムを、どの順番で実行するか、という事が大事で、実はそれ自体はオブジェクト指向の考えに近い。

 

あるプログラムが担うべき処理は、そのプログラム内に限定され、インプットとアウトプットは厳格に定義される、それがCOBOLの基本的な処理の仕方。

 

会社によって流儀は違うが、前処理と本処理、後処理は別なプログラムとすることが一般的。

 

つまり、グローバル変数しかないけど、そもそも何処で変数が操作されるかなどという事を意識するような規模のプログラムは、普通に分割されるのが一般的で、あくまでも1処理=1プログラムのような形になる。

 

且つ、データの流れも基本的に一方方向でしか作らない(はず・・・)。

 

それらのプログラムは、その処理が終わる都度磁気テープや磁気ディスクに結果を書き出し、それのアウトプットと次のプログラムをジョブローダー(リンカー)によってどんどんつなげていく、こういった事をする専属の人もいました。

 

これがパソコンCOBOLになると、プログラムはそれぞれ別々でよいわけだけど、都度磁気テープなどに書き出すのも無駄なので、仮想的なデバイス(結局ただのファイルなんだけど・・・)に対してそれをエミュレートすることで、これまで定義したプログラム、ジョブローダー(リンカー)をそのまま生かす事ができるわけです。

 

元記事を書いている人が恐らくはプログラムを書いたことがある程度の人なので、グローバル変数=良くない、と感じる事は止むを得ないと思いますが、プログラムを日常的に書く人は、グローバル変数の悪影響はそういった短絡的な話しではなく、書き方や使い方により決まるという点は理解すべきでしょう。

昔はパソコンCOBOLとVisualBasicのコンバータがあった(はず)

COBOLは難しいか、記者が試しにコードを書いてみた | 日経 xTECH(クロステック)

 言語間の翻訳をする、翻訳ソフトって、できないのかな?  COBOL のプログラムを 自動的に別の言語のプログラムに書き換える。割と定型化されそうなものだが。 人工知能ができる時代でも、無理なの?


少なくとも私が学生の頃には既に存在していました。

 

当日はCOBOLという言語を用いたシステムが勘定系では非常に強く、一方で、ダウンサイジング(死語)が声高に叫ばれていた時代であったので、オフコンCOBOLをパソコンCOBOLに移植するという提案と、一方で、技術者の確保というよりも将来的な拡張性(以前も書いたようにCOBOLは環境周りに色々難点がある)も考えて、VisualBasicに移行するという仕組みの提供が各メーカーから行われていました。

 

確か私の学校でもパソコンCOBOLVisualBasicコンバーターが導入されており、こちらはどちらかというと、情報処理技術者試験向けにしか勉強していなかった人にVisualBasicを触らせる目的でいれていたようですが、ぶっちゃけその程度であればコンバータ使わなくても・・・というレベルでした。

 

ただ、そもそもCOBOLは一般的には非常に単純な言語体系なので変換するのは非常に簡単でした。

 

なので、正直な話し、COBOLを動かすだけならパソコン上でもいくらでも動くし、技術者が確保できななら、VisualBasicに変換しても全く問題ありません。

なお、COBOLが動作する環境は昔は無駄に高い機械でしたが、前述のとおり、昨今では資産を既に持っているケースを除き、そもそも並列演算が得意なわけでもないので、パソコンでも普通に動く程度のもので、いくらでも動作環境含め移植は可能でした。

 

唯一気にするとすれば、言語仕様として当時のVisualBasicは32Bit環境でしたので、整数値の限界についての配慮や、計算時の誤差についての配慮など、そういった点についての知識が必要な程度であったとの認識です。

 

その他、COBOLの場合、磁気ディスクよりもテープによるデータの交換が結構多く、月末に振り込みデータをテープで送るなどというアホな事は、結構近代まで行われていました。

 

その為、メーカーの方が気をつかったのは、どちらかというとそういった資源(磁気ディスク/ドラム、磁気テープ、場合によってはパンチカード・・・死)をパソコンCOBOLからも使えるようなドライバーの開発であったり、大きな演算処理について複数のバッチとして分割し、結果を統合するような仕組み(いわゆるジョブトランザクションを管理し、水平分散を行う仕組み)を如何に提供するかという事が主戦場であったと認識しています。

 

何れにせよ、もう10年以上前、15年ぐらいなのか? 何れにせよWindows95の頃にはパソコンCOBOLは既に存在し、VisualBasicとのコンバーターもありましたから、そういった環境、状況も含めて、なすすべ無し、等という事はありえません。

 

単純にあの問題は、数学的素養の無い集団にそういった仕事をさせたというだけの話しで、プログラミングやコンピューターという次元の議論ですらないのです。

 

 

 

主夫になる事の何が問題かわからんし、そもそも子供に関係なく価値観が相違しているだけ

 

お前が主夫になるんだよと言われ、俺のプライド無事死亡

よくわからんが、共働きを二人で成立させられないならいずれかが専業主夫/主婦になるしかないのでは?それも無理なら離婚するしかないと思うが。別に今時主夫なんて珍しくもないし、家計を考えれば否定もできんよ。

 

ブコメ釣り釣り煩いな。共働きで世帯年収1000万越えで子育て経験あるやつだ..

そもそも日本は上の足を引っ張るという点については誰も問題だと考えていないからな。自分より金を持ってる/稼いでいる=お前は俺より幸福だろうが、という謎理論しか持ってないから基本的に日本人は幸せになれない

 

 

まず、大前提として、二人とも働きたいという時点で、どちらが優先されるべきものでもないし、どちらかを優先したいなら、優先すべき理由について二人で合意するしかない、それが行われないのはどんな理由をつけても、どちらもただの我が儘。

 

経済的利点について優先するなら、妻の方が所得が高くなるなら妻の仕事をメインにするのは合理的ではある。それに納得できないなら、相手も同意できるだけの提案をするなどと言う事は、30歳になる君ならわかるはずだ。

 

それができないのであれば、後はその環境を受け入れるかどうかでしかない。

 

なお、離婚後の話しがあるが、普通に相手の所得に関係なく、君自身の養育すべき責任は変わらないので、離婚したとしても負担は変わらんよ。

 

むしろ離婚したという事で単身者としてのサポートを受けられる可能性もあるので、そもそも夫婦で協力できないなら離婚してもしなくてもそもそも差はない。むしろ一緒にいることで負担を感じるなら、いっそうのこと離婚した方がお互いストレスが軽減されるという点は否定できない。

 

何れにせよ金銭的余裕がないといっている状況なので有れば、相手の方が経済的に勝っているならもはや選択肢などないでしょ。

 

その点ついて「自分のプライドが」等と言っているが、プライドについて論じるなら、まずは昇進や所得で負けた自分の責任と、その環境でも自分を優先させて欲しいと説得できない自分の無能さにまずは恥じるべきで、その上で、プライドについて論じるべきだろう。

 

あと、確かに君の世帯年収に嫉妬している人はいるだろうとは思う。

世帯年収で1,000万円を超えていれば、まぁ、少なくとも貧困とは言えないし、いろいろコントロールすればそれなりの暮らしはできる。

一方で、800万円あたりから1,500万円ぐらいは一番キツい世帯年収でもあるのは事実で、公的補助がほとんど受けられないのに、税金面での優遇が一切無いので、事実上それ以下の所得と可処分所得としては差があまりなくなる。

その上、年収でみれば低くもないので、暮らしを下げるというのは中々難しいだろうし、結局一番厳しい状況であるのはわかる。

 

そういった事情にまったく興味がないのが日本人の特徴で、そりゃ、労働者が幸せになる未来はないよな、としか言えない。

 

そもそも世帯年収が高い人を否定する理由なんてのは何も無いんだけどな。

仮に世帯年収が高い人が何らかの理由で世帯年収が下がったとして、その他大勢の世帯年収への影響は皆無であって、別に嫉妬すべき理由もない。

普通に考えてそんな事で他の従業員の給与があがるなら、とっくに企業は全従業員の給与をもっとあげているだろうが、そんな事は行われないわけで。

 

が、そういった当たり前の事が当たり前の議論できないので、日本では一方では新しい価値観を賞賛し、一方では古い価値観を押しつけるという非常に矛盾した理論が跋扈する。

 

その点について絶望しているなら、もう少し世帯年収を上げるか、それか面倒な日本ではなく別な国で生活するというのもお勧めですよ。

 

パートナーもIT系という事だし、別に日本に固執しなければならない事情もなさそうだしね。

 

そういった点も含め、根本的に、価値観の相違がそもそも有るのではないか、という点から話し合ってはどうだろうかと思う。