何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

おそらくそれは火葬を病院で行っても何も改善しない

 

赤木智弘氏「病院で火葬しないのは葬儀社の利権」&「ある程度の規模の病院には炉の設置を義務付けろ」 - Togetter

病院側ではなく家族(遺族)側の問題の方が大きい。通常は遺族がいる場合、まずは何処で葬儀をするか考え、その段階から葬儀社が支援にはいる。葬儀をするのかしないのか、やるならどの程度なのか、その後の手配もね

 

独創的なアイデアと、無知による身勝手な発想は紙一重だと思うが、これはなかなかのものです。

 

そもそも、火葬場は新設自体が難しいだけでなく、葬儀全般含め経営状況としてはそれほど安易に儲かるものでもありません。

近年だけで数件は葬儀・火葬権利の詐欺はありましたし、なぜそんな詐欺が横行したかというと、単純に葬儀場や火葬場が混み合い、死亡から埋葬、埋葬後の手続きまでを安心して送りたい、もっと言えば、自分の死後遺族に面倒はかけたくないという個人の心理を利用された結果、葬儀社の会員権詐欺のようなものが横行しました。

 

確かに、点の部分だけを見れば葬儀自体は利益が出しやすいものです。

花代や香典関連の書費用、各種手配するモノやコトに付帯するサービス料など含めてもそもそも赤字にならないようにする事自体は問題ありません。

 

が、問題はそこではありません。

 

そもそも火葬場云々と指摘していますが、火葬場は稼働率が異様に高く、地方では火葬場待ちと言うことも珍しくありません。

特に近年のように異常気象が続くと、より局所的に死亡数が増える等もあり、且つ、日本固有の事情により火葬場を利用する日が重なる(六曜を参考にするケースやその他関係者の仕事の影響による調整するものなど)ことも多く、結果的に火葬場はあるとき恐ろしく混み合うというジレンマが生まれます。

 

赤木氏の仰っている事は、結局のところ「社会の問題を解決するためには個人は犠牲になるべき」と言っているだけの話しで、その改善には少なくともマイナス以上のメリットはありません。

 

病院から即火葬というのは、都心部のみではまだ議論の余地がのこるでしょうが、ほぼ地方では適用不可能でしょう。

さらに火葬はただ焼くだけではなく、宗教であったり、その人故人やその家族の事情により様々な対応を行います。

当然火葬中も遺族は火葬待ちをしますので、少なくとも数人、多ければ数十人という人間を収容できる場所も必要です。地域によってはこの時に宴会を開いたりする風習(故人を明るく見送る)もあり、ただ火葬スペースだけでは事足りません。

 

さらに病院から直接火葬をするのであれば、通夜の対応や葬儀の対応も必要です。

通夜の場合、これもまた地方により事情は異なる上、宗教によっても対応が異なります。明るく見送るものもあれば、朝までひたすら見届けるものもありますし、地域によっては結婚式などでもあるように、故人と知り合いでなくても訪れるという風習もあります。

 

そういった事を全て病院が対応するのであれば、おそらく今の葬儀社、火葬場の運営よりもよりコストが上がることは容易に想像ができます。

 

赤木氏はそれらについて「やらなければいい」という意見をのべていますが、それは「アイデア」ではなく、ただの権利の剥奪です。

 

個人の権利を剥奪すれば解決すると仰っているわけですが、それで解決されるのはそれ以上のものなのかといえばさっぱりです。

 

そもそも火葬場数を増やす云々ではないので、火葬の数自体はコントロールできません。少なくとも今でさえ火葬場待ちという事がある以上、もしも速やかに火葬するならそれらすら全て改善できるアイデアが最低限なければ議論の土台にすらのりません。

なお、今ぎりぎりなんとか現状を維持できているのは、実は通夜や葬儀の設定が宗教によるのかどうかはありますが、特段この日に設定しなければならないというものがなく、火葬場の予約や葬儀場の予約を調整しつつ、それに対して通夜を設定するという事ができるので、火葬場の予約が取れなくても最悪は火葬のみは近親者で、という対応で回避しています。

 

ですから、仮に病院が即火葬を行うというなら、最短で24時間程度の安置後即火葬なわけですが、まぁ、それを常に回せるだけの環境を作れる病院なんてほぼないでしょうね。

 

なお、葬儀者と火葬場は一般的には別ものです。

たまたま大手が一緒に運営しているところもありますが、多くの葬儀社は火葬場を持ちません。

 

多くの場合火葬場とは自治体が運営するものが多く、公的資金も含めて運営しています。これは葬儀社とは関係ありません。

一方で、葬儀社はJA等の大手から独立系まで含め大小様々なものあがり、最近では安価なサービスまで参入するなど寧ろ低コスト化が進んでおり、病院が参入できるほどの市場ではありません。

 

赤木氏の話しは葬儀と火葬の話しがごっちゃになっている時点で、恐らくはその界隈の事情についてしらないのだろうな、と思うわけですが、アイデアとしてまとめるとしてももう少し市場や状況を確認すべきだろうな、とは思いますね。

 

なお、火葬場を調べる方法は幾つかあるが、例えば厚生労働省のデータベースを活用する方法もある。

 

参考:https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/seikatsu-eisei24/

 

見てみればわかるが、地方では半数以上が市営、村営のものが大半であり、東京のような大都市圏であればなんとか民間の方が多い状況が火葬場の現実。全体でみれば確かに民間事業者も多いわけですが、だからといって民間を全員利用しているわけではありません。地方の場合はだいたい市営・村営が最初の選択肢で、それが一杯の場合はその他の選択となるわけで。

そして火葬自体の料金は暴利をむさぼるほどのものでもなく、安いモノでは数万円(1万円や3万円等)からあり、高くとも概ね10万円を超えない程度の料金に過ぎない。

さらに、組合制度や会員制度による割引や、住民が地域内であれば割り引く等の制度もあり実質的に葬儀全体に占めるコストでいえばそれほど高くもなく、時給換算でも数千円程度であり、それで火葬+火葬の間の休憩施設の利用+火葬後の納骨までのサポートがくるというのはコストとしては圧倒的に安いと考えるべきでしょう。

 

おおよそここを利益云々で議論する意味はなく、寧ろ病院に設置と運営を義務付けるのであれば新しい税金の投入などで支援しなければ、おそらくは成立しないほどだろう。

 

まぁ、私が理解している葬儀・火葬関連の事情としてはそんな感じです。

さっぱり意味がわからない

 

Kentaro Hara on Twitter: "チケット転売が問題になるとき、「そもそもどうして主催者はチケット価格を上げないのか?」が取り沙汰されるけど、今年ANAがスイートラウンジ利用券の転売に対して取った行動がこの疑問に非常にわかりやすい回答を与えているので紹介しておく。"

何処を呼んでもチケット価格をなぜ上げないのか?という話しの回答にはなっていないと思うのは僕だけ?ペナルティがあれば云々で言えばチケットは会員資格の剥奪というANA同様のペナルティがあっても起きるのですが?

 

この一連の投稿で意味を理解している人がいるようなのですが、私にはさっぱりわからない。

 

そもそも会員チケットですら転売されているので、結局のところ資格剥奪というペナルティ程度では影響はしない。

 

いや、それはダイヤモンドクラスが得る利益があってこそでしょ、などという議論をされるのであれば、そもそもイベントのチケットに対してそのバリューをどうやってだすきなの?

 

無理でしょ。

 

いやいや、この話は価格を上げても解決出来ないことについて話しているんだよ?という意見もあるようだが、そんな話はどこにもしていない。

 

いや、仮にしていてもその検証は何処でなさっているの?その話しが成立するのは前述の会員資格のバリューに対して転売行為の利益が少ない(失う利益の方が大きい)ケースでのみ成り立つというだけの話しであって、結局価値による抑制でしかない。

 

結局この話し終始与えられるバリューに対するリスクでしか話しをしていないはずなんだが、どこをどう読んだら、あれが転売に対するチケット価格を上げる行為の回答になるのかさっぱりわからない。

 

なんだろうか、あれか、チケット購入には国民番号のようなもので完全に管理して、転売時されたチケットで入場が確認された場合、その国民番号の所有者はチケット購入の権利を剥奪するという事をやれと?

 

いや、それもう始まってるよね?

 

国民番号ではないが、公的身分証明による本人確認と入場時の同一性確認。

全てではないが普通にやっているわけで、仮にそれが答えだ、というならそういえばよりわかりやすいのだが、結局ANAの事例は何を言いたいのかさっぱりわからん。

 

きっと私の頭が弱いのか、違う世界なのかどちらかなのだろう。

 

追記)

なお、少なくともANAの事例が具体的な回答であるとするためには、少なくともその内容と比較してそうでない方法が適切でないことを説明する必要があると思うが、当然だがこの発言にはそれはい。

ただ、ANAの事例を紹介して、ANAではこういった方法で成功した、と仰っているだけでそれ以上でもそれ以下でもない。

被害届けは逮捕するためではなく、調査する為にだすもの

 

表現の不自由展に脅迫ファクス送った疑い、会社員を逮捕 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

いや、単純に被害届けを正式に出していない状況で、口頭説明のみで逮捕云々の話はできなかっただけでしょ。実際6日に被害届けの提出で、7日に逮捕が実現している。つか、この関係者、本当に普通に対応しようよ・・・

 

いや、普通に被害届けを出していないと一定以上の調査も判断もできんでしょ。

むしろ普段は警察が勝手に動いたり、拡大解釈したりすることについてはてな界隈は五月蠅いわけで、さすがにそれはおかしいでしょ。

 

そもそも発信元云々の開示請求自体が捜査上でしかできないし、事件化されてもいないのに一方的に企業に対して「情報開示しろ」とか「防犯カメラの映像を提供しろ」とはいえんよ。

 

まぁ、カメラ映像は協力という形で提出を求める場合や、実際に率先して提供するケース(直接的な被害がなくとも、治安等に不安がある場合に任意で協力する)はあるが、とはいえ、コンビニ店員が勝手にだすわけにもいかんでしょ。

 

むしろ今回のケース6日に提出された被害届けに対して、7日には逮捕しているわけで、そうとう早い対応だと思うし、そこを否定する理由はないでしょ。

 

むしろ僕からすると、そもそも被害届けは逮捕の可能性があろうがなかろうが、被害の事実があるのであればその時点で提出すべき話しで、で、提出する時に具体的な段取りの説明があるはずです。なので、相談程度の段階ではあくまでも相談主の説明した範疇でしか判断できないし、仮に具体的な番号が明らかにされていても、それだけ逮捕できるとは限らないわけで。

 

なので、少なくとも被害届けが出た後に警察が捜査しなかったなら批判されるべきは警察だが、被害届けが出されてからは少なくとも迅速に対応している時点で、警察が批判されるいわれは今回に限ってはない。

 

これを批判するという事は、今後日本では警察は具体的な手続きを経ずとも勝手に警察の意思で操作、証拠の差し押さえ、逮捕等を行ってかまわないと認めるようなものであって、そんな世の中はまっぴらごめんです。

 

警察はあくまでも我々からの依頼や具体的な手続き、ルールに則って動くべきであり、勝手に動くなというのが基本にあるべきです。

 

少なくとも私はそう思うけどね。

伝える努力をする事を怠るのはダメ

 

生理中の姉の血みどろの姿を見た弟氏の反応が将来有望→男性側からの意見が集まる「みんな隠すの上手すぎる」「殺人事件みたいだった」 - Togetter

これ理解を相手に求める事を前提にするのはもう令和なので辞めよう。生理の重さや辛さは個人差が大きい。全てなんでも同等に求めるのは個性の消失だし、重い人、軽い人それぞれ状況に応じた対応が必要。それが大事。

 

相手が言わずとも理解してくれるというのを前提にするのは、所謂古い世代の人が「言われなくても理解しろ」とか「空気を読め」とか「見て覚えろ」とか、そういった非合理的で非生産的なものに過ぎません。

 

そもそも私が知る限り、生理の辛さ、重さは女性同士でも安易に推測で動く、話すというのは難しいほど、個人差があります。

 

一般的に辛いと言われる生理ですが、辛くない人もいるわけで、実際産婦人科に行けばわかりますが、個人差はあれど動けない程辛いとか、出血が想定以上であるというのは、実は普通ではなく、ちゃんと産婦人科で診察を受ける必要があります。

 

実際私の妻がそうでしたし、診断を受け適切な知識と処方を受ける事である程度軽減されることもあります。

 

こういった事は、当事者でも全ての知識や理解ができるわけではないし、同性同士であっても個人差や知識差、行動力あらゆる面で差がでますから、自分が知っている事、理解を前提に相手を評価する事は適切ではありませんし、それが異性になれば尚更です。

 

冒頭に述べたように昔は「知らない奴が悪」のような体育会系のノリが許された時代でしたが、今はそんな時代ではありません。

 

私たちは同性であっても個人差があるし、性別だけが差の原因ではありません。

結局はお互いがお互いの事を理解できるようにちゃんと話し合って、その上で自分達二人の関係においてどうするか、どうすることが望ましいのか、そういった事をちゃんと話し合うことが大事です。

 

今、SNSのようなもので「私の夫はこんな事をやってくれて最高です」という記事を見ると、いつの間にか「わかってくれない私の夫は最低」という意味不明な評価であったり、逆に「あんなに出来る妻は良い妻」と評価する人がいると、「私の妻はなにもしてくれない鬼嫁です」という人もいます。

 

でも実際はそれぞれの環境、関係、条件は全てことなるわけで、さらにはそこに至るまでにどの程度努力したのか、個性のある二人が二人の将来のためにどれだけ話し合えたのか、そういった事が尽くされれば、本来は他人の結果によって自分達の結果を評価するなど無意味な事がよくわかるはずです。

 

ネットを参考にする事も良い事だし、異なる環境に置かれた人のリアクションを参考にすることも良い事です。

ですが、それを前提に全ての人が全て同じ事ができるとするのは傲慢だし、それは男性が女性に求める事も、女性が男性に求める事も、どちらも同じように傲慢な話しです。

 

男性には女性の事をよく理解できる人もいるし、実際は理解しているように見えて、ただの上っ面だけの人もいます。

逆に理解はないものの、それを理解しようと努力する人や、実際にその努力の結果見違えるように対応が改善する人もいます。

 

問題なのは二人で自分達にあった取り組み方をちゃんと見つけられるか、そういった共同作業をできるのか、その点に過ぎません。

 

当然、伝えられなくてもわかってよ、という話しはあるでしょうが、それはあくまでもそういった事を得意としている相手に対してのみ求めるべき事です。

 

会社や社会の中で「それぐらい感じ取ってやってよ」などといえば、大抵はパワハラモラハラの類いになるわけであって、そんな事を当然であるなとどいうのは家庭の中でも許されません。

 

唯一二人がそこに至るまで十分にコミュニケーションを図った結果、どの程度の事を伝えれば、そこから先は理解してくれるのか、そういった二人の関係を二人で築き上げる事ができた人だけが、そういった事を自然に行う事ができるわけであり、万人がそういった関係を築けるわけではありません。

 

結局、そこに至るにしても自分達の関係、個性にあった伝え方、つまりは伝える努力をする事が必要なのであって、その努力を怠るような人は、相手が変わっても恐らくは何かしら一方的な関係を求める結果となり、問題が尽きない関係になってしまうのだろうなと感じます。

 

こういった記事を見る都度、そういった努力を怠ってはいけないし、そういった努力を怠る事を平然と当然の事のように話すような人間にはならないように自分を顧みなければならないなと思います。

やっとこさ表に情報がではじめた

なに、とは言わないし、どれ、とも言わないけど。

やっと表に情報がでてきましたね。

 

まぁ、事情はいろいろ有るんだけど、神はお許しにならなかった、という事。

 

今後の対応もいろいろあるわけだけど、関係者各位におかれましては、引き続き誠心誠意努力いただければと思います。

 

そして私のところに余計な仕事が舞い込まないよう、最大限の努力をして下さい。

野党に投票しても別に自民全否定ではない

 

森哲平 on Twitter: "自民党でいい、と言う人と話をすると、毎回、おもしろいくらい、「民主党www」って話しかしない。「公文書改竄についてはどうですか?」「民主党www」。「増税でまた経済沈むんですが」「民主党www」。"

まずそういった意見を持つ人が大半であると思い込んでいる事が野党があの程度の自民党に勝てない原因。どう考えても与党にはつけいる隙があるにも関わらず、論点も整理できず、失点の批判しかしていない時点で同じ。

 

私は今回野党に投票したわけですが、その私から見ても、野党ですらクソでしかないと感じるのが今の政治であるというのが結論でしかない。

 

現実問題、私は統計不正問題は自分の仕事にも直結する話しである上に、そこは聖域として政治や状況に流されないものにしなければならないという思いがあるので、少なくともその1点においては自民党は全てのポイントを上回る勢いでマイナスがついた。

 

結果として今回も自民党には投票していない。

 

だが、だからといって自民党が全ての面でクソであるとは思わない。

同様に、投票した先の野党ですら私の1票に見合うだけの実績も公約もない。

 

それでも選挙は行われるし、私は何らかの形で意思を示す必要がある。

 

投票とは全権同意によるものではない。

全権委任と全権同意は全く別物だ。

(最もそもそも全権委任ですらやっているわけではないが)

 

そもそも今の政治には、与党も野党もビジョンがない。

与党の方がビジョンは掲げているが、そもそものビジョンがやらかしているので、ビジョン自体に価値がない。

野党については本質的な意味で言えばビジョンは掲げていないので、ほぼ自民に対してどういう考えであるかでしかない。

 

私は自民党の政策に対して反対か賛成かなどという話しに興味は無い。

 

これから先の社会をどのように変えるのか。

何を変えるのか、なぜ変えるのか、どうやって変えるのか。

 

その点以外に一切の興味は無い。

そういった視点でみると、実はれいわあたりは興味深い対象にはなる。

もっとも、そういったところには投票していないが。

 

結局、れいわもN国も投票する人間がいるという事について否定するのは簡単だが、よくよく調べて見ればよほど与党や多くの野党よりも具体的なものを提示している。

(但し、話しはある程度夢見がちであったり、空想物も入っている)

 

逆に問えば、与党も野党も母体が大きいという事を除けば、より具体的に何を実現するのかという点についてはさっぱり語れていないし、語っているのも「それ社会福祉とか当たり前で程度の差だけじゃないの?」というものでしかない。

 

そういったものをそぎ落とすと、せいぜい残るのは「自民党は頑張ってる」「自民党から政権を奪うべき」であったり、「消費税は10%にすべき」「消費税を10%にするなんてとんでもない」のような、非常にどうでもよいレベルの話ししか残らない。

 

極論言えば、消費税が10%であっても20%であっても何ら問題はない。

その分自分に十分な恩恵があれば良いわけであって、それがない事が問題なのだ。

そう考えると、消費税の税率そのものを議論する事は、せいぜい消費に対するインパクト程度の話しでしかなく、パーセントの議論をする事に意味など無い。

 

下げるか下げないかではないんだよ。

 

例えば、N国が提言しているNHK問題も同様で、そもそも公共放送の是非を本来解く必要などない。

 

問題なのは公共放送が提供している価値に対して無駄にコストが高いという点や、公共放送であるにも関わらず、国民の管理下にないことが問題であって、別にスクランブル放送にするかどうかが論点では本来ない。

 

兎に角、選挙において何処が勝った、どこが負けたを論じる人というのは、基本的には

政治に関心が薄く、本当の意味で政治に危機感や責任感を感じている人ではない。

 

そういった人であれば、大抵は今回の選挙はクソだと、どこの政党もクソだと、もっと真面目にやれと、そういった意見になるべきであって、与党や野党がなどという話しに終始するレベルではない。

 

このようなクソな状態が続く限り、おそらくは今後もれいわやN国のような勢力があきらかに数を増やすだろうし、一方で、旧来の自民支持層は固く、単純に野党が自壊するだけで終わると思われる。

 

本当に本気でやれ。

やる気がないなら政治家にも、政治評論家にもなるなよ。

「最後のシーン、泣きそうになったんだけど、泣けなかった」が真実だと思う

 

感想『天気の子』 新海作品史上最も難解で恐ろしい作品 - LOGのハウス

監督のYahooでの事前インタビュー(若干ネタバレ)を踏まえると、異常が当たり前、自分の正しさと他人の正しさの違いそういった矛盾ですら現実として受け入れる話しでもあるので、まさに皆自分の答えを出す作品かなと

 

『天気の子』は何を描いたのか。新海誠監督の決断が予想以上に凄かった理由(作品解説・レビュー) – ウェブランサー

事前に「前作のヒットがあったので寧ろ自由にやらしてもらえた」とあったので、その答えを探すつもりでみたら、作品の存在自体がその答えだったときは寧ろ監督よりも企画を通した側に若干恐怖したわ・・・怖いよ普通

 

良く的を得ている感想、批評だと思った。

 

私の中では妻の言った「最後のシーン、泣きそうになったんだけど、泣けなかった」これが全てだなと思ったし、おそらくそれが監督が作品を通じてなげかけていたものの正体でもあると思った。

 

全ての登場人物が、無意識的に矛盾や葛藤を抱えていて、全ての圧倒的な正しさがない状況に常に置かれる。

 

それも、それを知ってしまえば異常な状態であるわけだが、それですら知らない人にとっては当たり前に過ぎない事で、その矛盾や対立自体が物語の不均衡さを常に生みだし、それが疾走感があるはずの場面であったり、感動的であったり、涙を誘うシーンでもどこか見る側に疑問を突きつける事で、凄く単純なシーン、ありがちなシーンをそのまま飲み込ませてくれない、それがこの作品の醍醐味なのかなと。

 

ただ、これはなかなか万人受けはしないなと感じる。

一歩間違えば「意味がわからない」であったり「気持ち悪さ」であったりが強くなり、前作品のような凄くわかりやすい一つの結末のようなものからは遠く、敬遠されてしまうのではないかと思う。

 

この部分も監督がインタビューで述べていた「むしろ前作のヒットにより自由にさせてもらえた」部分なんじゃないかなと。

 

おそらく、企画の段階でこの構図はわかっていただろうし、それはつまり、視聴者の中には間違いなく肯定派、否定派が入り乱れて、その意見自体がそもそも作品の作り手自らが作品の意図として込めているわけであり、それを了承するというのは、この規模の作品ではなかなかチャレンジングではあると思う。

 

全員の立ち位置も常に入れ替わる。

能力に対しての意見も、帆高や陽菜に対する意見や立場もどんどん入れわかる。

有るときは良き理解者であっても、ある状況になれば「常識」や「立場」というものを言い訳にして敵となる事もある。

帆高や陽菜ですら、絶対的な善でもなければ、絶対的な悪でもない。

 

 

構図としては実はありふれているわけだが、おそらく幾つかのシーンで涙がでそうだが、出ない、完全に泣くという事にならない、僕は妻が感じたそのなんとも微妙な感情であり感想がおそらくこの映画の持っている魔力のようなものではないかと思う。

 

そもそも陽菜に最後の力を使わせた、またはそこに至る最後のレールを引いたのはだれでもない帆高であって、冷静に考えれば彼女を取り戻すことですらただの贖罪に過ぎない。

さらにその結果起きる事を考えれば彼の選択は正しい選択であるかという事は判断し難い。

 

が、実は他の人からすればそんな事自体が知らぬ事であり、まさにただの天災に過ぎないわけで、その選択の価値自体が結局自分の一つの結論、その程度の意味しか持たない。

そしてそれはごく当たり前の事で、僕の日常は他人の非日常であり、僕にとっての他人もまた同じに過ぎない。

 

そしてその事について、たまたま事情を知り得ている人間が、その他人と同じようなリアクションをするとき、それは一見すると悪に見えるが、実際は知らないその他大勢とその事実は変わらない。そして、前述のように彼自身「晴れて欲しいか?」の問いに「晴れると良いね」と答えている矛盾。

 

言葉にして犠牲を強いた人、言葉にせず犠牲を強いた人、無意識に犠牲を強いた人。

 

一つの物事をとっても、その結果に至るプロセスの中でさまざまな登場人物が無責任であり、身勝手であり、自己中心的である行動をとっている。

 

こういった事は凄く当たり前で、実はファンタージなんだけど、そのファンタジーを現実社会という器を使って、尚、非現実の中で描いている。

 

この構図は凄く当たり前の事に過ぎない。

だが、何れも現実と矛盾と葛藤と、そういったものがごちゃ混ぜになりながらもストーリーとしては一つの方向を明確に指している。

 

おそらく、この物語の結末のある程度は誰しもが冒頭で想像しうるものだ。

だが、最初のシーンから様々な描写、切っ掛けが描かれる中で、その結末に至るピースのはめ込み方はおそらく誰ひとりとして「当然」というものにはならないのではないかと思う。

 

実際は「当然」の答えが数多く並んでいるのだが、登場人物の立ち位置が微妙にずれる事で、所謂人間の少しズルい一面、例えばダブルスタンダードのようなものも表現しているために、その「当然」をそのまま受け入れる事は、ある意味自分の「美しさ」「正しさ」を損ないかねない。なのでその凄く「当然」の事をそのまま受け入れると言うことに個人差はあれど違和感や抵抗がでてしまう。

 

それ自体が実は当たり前で私たちの日常に過ぎない。

 

難解と言われればそうだし、ありきたりな構図と言われれば確かにそうでもある。

 

最後のピースは視聴者の立ち位置なのだと思う。

自分はどの立ち位置に立つのか、それによってこの物語をどう結論付けるか、最後のシーン、あれは陽菜はどのような気持ちであの行動をとっていたのか、帆高はどんな気持ちでそれを見つめていたのか。その答えはおそらく自分の立ち位置によって真逆になるそういった作品であると思う。

 

いや、これ本当によく企画段階でOK出したと思うそんな作品だった。

これを企画段階で読んだ人、そしてOKを出した人、ある意味監督以上にいろいろ見えていたのだろうと感じた。