何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

ちょっと状況が正しく理解できないのだが、機構も裁判官もアホなのか?

 

奨学金、保証人の義務「半額」なのに…説明せず全額請求:朝日新聞デジタル

大前提として機構側が悪いのだが、ただ「9割以上が裁判などを経て応じた」となっているのだが、裁判官は一体何を見て機構側の主張が正しいと結論づけたのか・・・。普通、契約書の提出はさせるわけで、一体これは?

 

いや、記事にあるとおり、確かに主張されないものを採用する事がないというのは前提ではあるのだが、ただ、一般的(というとアレですが)に民事で企業対個人という構図でおおよそ最高裁の争いでもないだろうに、地裁または簡裁程度の争いであればおおよそ裁判所は契約書面の提出と併せて一般的な民事上の双方の瑕疵について確認をするのだが。

 

その中で、原告からの請求内容が妥当である事を確認する過程で、それと同時に被告側にその責任が十分にあるのかという確認をするわけです。

 

当然、原告側の提出書類の真贋の判断は被告側の意見がでなければ判断できない(極論言えば、虚偽の書面による申立が行われ、それについて被告が否定しないようなケースは、事実でないにも関わらず申立てが通る)わけですが、おおよそ裁判の手続きとして契約書の提出をしないなどという事は考えられない。

 

で、裁判官及び書記官がこの「分別の利益」について知らないなどという事はあり得ず(いや、ないよね?)、主張の有無にかかわらず請求内容の妥当性について検証していればおおよそ判る話しであって、いったいどういった進行が行われたのかの方がむしろきになる。

 

唯一の可能性は提出された契約書面が虚偽であり裁判所では判断できなかった場合でこれは裁判所にはどうすることもできないので、被告側が契約書面の不備を主張するしかなく、つまりは機構側が糞だったという事になる。

 

ただ、契約書および被告人のその契約での位置付けについて「保証人」なのか「連帯保証人」なのかというとのは裁判の進行上非常に重要な点でこれを正しく確認しないまま進行したというのであれば機構も裁判所も糞だったという事でしかない。

 

まぁ、もう一つの可能性は、裁判所としては「分別の利益」について指摘し訴額の訂正を求めたが機構側が訂正しないとして強行した可能性もゼロではないかなぁ。

別に書記官から訂正を求められても応じなければならないわけではないので、結果としてそれが正当であると主張し、相手が反論しなければいいわけですが、普通反論するよなぁ、という気もしなくはない。その状況でも裁判所が「分別の利益」について一切触れず、ただ呆然と「いいの?あっそう」と進行したとすると、「公平な第三者」というか「無知の第三者」でしかないわけで・・・。

 

虚偽の請求が建前上は法的な請求の根拠が成立しているのに対して、そもそも訴額の算出根拠が誤っている場合は、それは請求自体を認めるべきではないし、訂正させるか、またはその訴額の法的根拠を確認するのは被告の責任ではなく裁判所の役目であって、それすらしてないとか流石にないと思うのだが。

 

虚偽の請求の場合法的な立て付けは完璧なんですよ。例えば、購入した商品の代金の支払いが行われていないという虚偽の申し立てをした場合、購入した商品の代金の支払いを行う(求める)事は適法で、それに利息をつけて請求するというのは何も問題がないわけです。ただ、そのような取引がないと主張されれば、原告はその取引が存在していたことを証明しなければならず、そこで証明できなければ根拠がないとなるわけです。

 

 

というか、私の認識では「分別の利益」 はそもそも保証人に対して請求できる根拠についての規定であって、原告が被告として保証人を指名している事は大凡裁判の進行上わかっている(おそらくそれ以前に契約者への督促は行ったが支払が履行されないのでという立て付け)わけで、その時点で民法上の規定で少なくとも一般的な保証人に対してはそもそもその割合分しか請求できないという事なのであって、請求する事自体が不法なのではないかと思うのだが?

 

確かに私は連帯保証人付きの案件をやっていたわけではないので認識に間違いが有る可能性はあるが、ただ、訴額の認定とはそもそもそういった法的な根拠や取引の正当性によって評価されるものであって、請求根拠の金額が民法上の規定を上回っている場合に裁判所が「これ民法上の規定上回っているけどなんで?」って聞かないのは相当クレイジーだと思うんだが・・・。

 

例えば、過払い請求で唐突に「僕は辛かったから遅延損害金として年利25%頂きますからね」と行ったところで普通に提出書面に対して書記官から「民法上その利率では請求できませんよ?」って突っ込まれるのと同じです。

いや、実際には裁判所に記載内容の是非を論じる必要も責任もないのですが、なんでしょうか、裁判所も縦社会なので書記官が明らかに矛盾した書類や計算書をそのまま受け取ってなにも確認せずに裁判にのぞむなどと言うことはまずありません。

あの糞数の多い時期の過払い訴訟ですら、まとめての照会ではあったものの、そういった計算根拠の確認はされているわけで、流石にそれ以上に圧倒的に数の少ないこの程度の案件で、さらに判りやすい中身であるわけで、何も請求内容の妥当性について確認しないというのはありえないと思うのですが。

 

普通の裁判は事前に証拠書類の提出と内容の確認が行われ、さらには事前の調整が必要な場合は準備手続きなどで証拠書類の確認や内容の説明が求められるなどありまして、テレビのようないきなりだまし討ちをするような事はほぼほぼありません。

 

少なくとも私が知る限りの貸金関係の裁判では。

 

なので、このやり取りで「2017年度までの8年間で延べ825人に全額請求した総額は約13億円で、9割以上が裁判などを経て応じた」という状況は正直異常じゃないの?としか思えないわけで。

 

これが裁判などを経ずに独自の取り立てや直接の和解であった場合は、当然通知しなかったという事が問題なのですが、これ、法的な手続きを9割は経ているわけで、いったいどういった手続き・進行であったのか非常に気になります。

他の人の「正しい」に追い込まれる必要はない

 

中田敦彦インタビューで実感。家事をフローで理解せず、イベント実行する男たち - エモの名は。

いや、仕事でも遊びでも進め方・やり方、それに対する感想というのは人それぞれだと思うが。彼のやり方・考え方がよいとは思わんが、それに対して自分の考えが正しく他人の家族のあり方を全否定するとかちと異常では

 

中田氏の意見よりも、正直このブログの記事の意見がちょっと怖い。

 

というのも、まず、私の持論として、夫婦に限らず、上司と部下、友達、恋人、親子、あらゆる関係は、その人達の置かれている環境、性格、年齢などあらゆる事により多用であるべきで、基本的にはそれに善し悪しをつける事はあまり良い事ではないという持論があります。

 

もっとも、例えば暴力を振るったとか、違反であるとかそういった類いの事は第三者であっても放置するという事は難しいですが、何でも感でも「モラハラだ!」と叫んでしまうと、世の中の男性だけでなく、女性も追い込まれる事になります。

 

例えば、女性の家事一つとっても、他の家庭であるやり方で上手にできていたとして、そのやり方をまねたとします。結果としてそのように上手くいかないとしても気に病むことはありませんし、他の方法を試しても上手くいかないなら、もういっその事「その状況が自分達の普通」と割り切ってしまって良いと僕は思うんですよ。

 

そこで夫や妻が「他の家庭では」等と言い始めると、地獄でしか有りません。

 

隣の子供はちゃんと奥さんがしつけているじゃないかとか、隣の旦那さんはこれもしてくれるとか、あの家庭はこんなに旅行にいってるのにとか、なんでうちは、なんであなたは、なんでお前は・・・他人の「正しい」と比較すると、もうそれは本当に地獄でしかありません。

 

良いところはまねればいい、でも、それは決して同じ結果を生むわけではありません。

人はひとりひとり個性があります、器用な人にとっては当然できる事が、私にはどんなに努力してもできないかもしれない、でもそれを責められても私にはどうすることもおそらくできません。

 

できない事は、おそらくその夫婦ではできないのですよ。

逆に、他の夫婦にはできないことが私たち夫婦ではできているかもしれない。

 

全てが良い形ではないでしょう。

でも、同じように全てが悪い形であるわけでもありません。

 

 

ある所は短所で、ある所は長所で、人も夫婦もそんなもんじゃないかなと思うんですよ。

 

完璧な妻でなくてもいいし、完璧な夫でなくてもいいし、完璧な親でなくてもいいし、完璧な子供でなくてもいい。

 

有るところではダメな夫だったとして、そこが旨くできないならそれ以外のところで普通以上に頑張ってダメな部分をパートナーに補って貰う分の働きをして返せばいいんじゃないんですかね?

 

それができているのか、できていないのか、夫婦間でどのような形である事がよいのかそこまで判る記事だとは私は思わないですが。

 

記事主の理想の形の男女、夫婦の形ではなかったと思います。

ただ、それを理由に「ダメ夫」と罵るのはあまり正当な評価とは思いませんし、おそらく評価された側の夫だけでなく、その夫を持つ妻もあまりよい気持ちではないかもしれません。

 

少なくともあの記事からはわかりませんよ。

 

この話しは今回夫婦の話しとして記事になっていますが、妻がうつ病になる理由の一つに他人ができる事が自分はできない、という事が切っ掛けになるものがあります。

責任感が強い人が「あの奥さんはできるのに私はできていない」とか「となりの夫婦では上手くいっているのにうちでは上手くいかない」とか、子供の事や家庭の事を他の家庭と比べてしまう事で自分を追い込んでしまう事があります。

 

これは当然女性だけがなるものではありません。

男性も、夫もなるのです。

 

ですから、私は夫や妻が何か逃げる事を選択であったり、他の夫婦や家庭ではできる事を自分達夫婦では諦めたとしても、それは全体の中で、夫婦がちゃんとバランスをとっていけているのであれば、多少歪でもいいじゃないか、と思っています。

 

理想的な形ではない、完璧ではない、隣の家庭とは違う。

 

でも、私たちは私たちの形があって、隣の夫婦は隣の夫婦の形がある。

幸せの形も違うし、幸せの評価軸も違う、それでいいと思うんですよ。

 

当然、モラハラとの線引きは必要です。

ですから何か判断を下すとき、夫婦内で上手に判断できないのであれば第三者の判断を仰ぐというのは凄く大切な事です。

それを「お墨付き」と表現する事はよいとは思いませんが、私は夫婦だけで議論するよりも他の人、それもより客観的に、そういった事情を受け止められる人であるカウンセラーやセラピストに間に入って貰う事は、夫にとっても、妻にとっても良い事だと思います。

 

なお、日本ではまだまだ夫婦や家庭の問題にそういった第三者を加える事は珍しいとは思いますが、海外ではむしろ裁判や別居に至る前にはそういった手続きをとることは決して少なくありません。

 

日本では「家庭が一つのあつまり」として捉えがちですが、基本的には家庭は「個人の集まりの一つの形に過ぎない」と考える海外では、夫婦であっても「別な尊重される個人同士」ですから、そういった意味でもどちらが正しいではなく「夫婦にとってどうするべきか」を第三者に入ってもらって調整するというのは離婚に至らない夫婦でも普通にあります。

 

ある考え方に夫または妻が固執してしまっているときはそれを諭す事もありますし、当然と思っている事がもう一人には当然でない事もあります。

そういった「違い」をどうすれば双方受け止められるのか、という事は夫婦だけで、その「違い」を持つもの同士だけで話すのではなく、客観的に「違う」という事をまずは理解させてもらい、その上でその「違い」を夫婦としてどう受け止めるか、どのように受け止めれば「夫婦」にとって一番よい形であるかとするわけです。

 

昨今では人によってはそもそも最初から毎月カウンセラーと会話する事を決めている夫婦もおり、それは仲が悪かったり、問題を抱えているから行うわけでは無く、自分達が潜在的に不満や悩みを抱えてしまい、その結果夫婦の中が壊れないように、という前向きな取り組みをしている夫婦もいます。

 

ですので、第三者の意見を求めた行為自体は私は問題だったとは思いません。

 

いろいろ意見はあってよいですが、記事の前提が「この夫はダメ」という定義からスタートしているように感じます。

 

 

ですので、見えていないような部分も「こうだろう」と自分の中の一つの答え、自分の中の「正しい」とは違うという事により否定しているように思えます。

 

その考えは、家庭に限らず、組織の中でも危険ですし、他人を追い込みかねません。

 

潜在的ニーズ」の話しがでてきましたが、部下や同僚に「当然のことをできているだけではダメなんだよ!」とは決していってはなりません。

 

基本的に会社は全ての社員が経営者ではありません。

「当然のことをしている」という状況は、評価する必要もありませんが、批判する事も必要ない普通の状況です。

会社や上司としてはもっとその先の結果が欲しくなるものですが、それは「付加された結果」であって「普通」ではありません。

その「潜在的ニーズ」に気付けなかったというだけで「だからお前はだめなんだ」などと言われては流石に同僚も部下もたまったものではありません。

 

また「私は気付くけど?」という表現も危険です。

「気づき」とは人により全く違う感性です。男女でも違うでしょうが、それ以前に同じ性別でも、年齢、環境、状況、経験あらゆるものの影響で「気付く人」もいれば「気付けない人」もいます。

それは「気付ける人」を褒める事はあっても「気付けない人」を罵ってよいわけではありません。

「気付けない人」がいた場合は、なぜ気付けないのかという事を考え事こそが上司の役割であり「なんでお前は気付けないんだ!」などと追い込む事は上司の仕事ではありません。

 

日本の社会は多くの場合で減点方式です。

 

ですが、減点方式では多くの場合、人や組織を追い込む事が多く、時と場合を考えなければ危険です。

 

夫婦や親子でも同じです。

気付けない夫、気付けない妻がいれば、それはきっとその夫や妻には苦手な事なのかもしれません。

もしもそれを妻または夫が補えるならその事は補ってあげればいいのです、そしてその他の部分では逆の事が起きているかもしれません、その時は逆にその部分は補って貰えばいいのです。

 

もしかすると一方的に補い続ける事になるかもしれません。

家庭内の負担も、経済的な負担も全てどちらかに頼りっきり担ってしまっている状況がきてしまっている場合もなくはないでしょう。

 

その時は、まずは第三者を入れて話し合いましょう。

 

人間はそれほど精神的にも肉体的にも強くありませんから「自分が頑張れば」などというのは大抵の場合「自分が壊れなければ」と同様の意味を持ちます。

 

そんな危険な賭をする必要はありません。

 

そういった状況では素直に第三者(可能な限り親や友達ではなく専門家がよいです。なぜなら大抵の関係者は利害関係者であり客観的な結果にはならないので)へ相談する方が、大抵の場合で夫婦によってはよい結果になると私は思います。

 

なお、そういった状況にも関わらず第三者への相談も拒まれた場合は、もう諦めて離婚なり逃げるなりする方がよいかもしれません。

 

自分が我慢すれば、ではいつか必ず自分の限界が到来し、結果としてその関係は崩れますから。

ですのでまだ自分だけでも冷静な判断ができる段階で自分を守る為にどうするかを考え行動しましょう。

 

これも『他の人の「正しい」に追い込まれる必要はない』という事です。

自分にとっては必然、他人にとっては偶然

 

電車内で言い返せない母親を責め立てるのがいかに格好悪いか。赤ちゃんと母親は乗客皆で守るべき。 - 主夫の日々

本文とまったく関係ないのだが、貴方の周りには相当な子供を嫌うオーラが満ちているように思えます。具体的には事件と引っ切りなしに遭遇するコナンまたは暴漢に遭う蘭並の引きなので一度お祓いする事をお勧めします

 

本文とほぼ関係の無いコメントで恐縮です。

が、一応意味ありますので・・・。

 

主夫の記事を書き始めるというのは最近というかここ数年非常に多いケースで、ある程度話題も得やすく、まだまだそういったブログ数自体が少ないという事情もありますが、こういったはてブもある程度上がってきますね。

 

で、こういった記事を書く場合も、読む場合も気をつけるべき視点というものがあり、それは「自分にとっては必然、他人にとっては偶然」というものです。

 

前者はちょっと強引です。韻が悪かったので「必然」としました。すみません。

 

こういった記事で煽られる場合は大抵が男性であるわけですが、個人的にはそんなにこういった事が溢れているとは思いません。

1年間で私自身がそういった事に遭遇するケースというのは、1週間に5日は会社を往復し、土日も外にでて、そして子育て世帯に補助がでるマンションに住んでおり、つまりは子育て世帯が周りに溢れいているような私ですが、そういったものを見かけるのは年に1回または2回あるかないか程度です。

 

一方で、記事主のような方は、記事を拝見するとほぼ毎週何かしらの不遇な状況に遭遇しています。

ちょっと意地悪なぶコメですが、一見すると本当に「お前はコナンか!」と思うほどの確率で遭遇しており、またそれ以外でも子育てに理解のない周囲の環境、男女間の問題に理解のない環境、etc・・・、ありとあらゆる男女間の問題を一身に背負っているような雰囲気の記事が続きます。

 

実はこれは2つの当然の事象により起きています。

 

まず1つは本人からすれば全てに不満があるから。

「全て」なんて書くと「全てではない」と言われそうですが、もっと判りやすくいえば、自分の視点が理解されない、共有されない事にストレスを感じるというものです。

タイトルにも書いたように、自分の行動や行為考えは常に必然であり、偶然すれちがった人との間の事柄も1対1の一つの事象となります。一方で、偶然すれ違った方からすればN分の1の事柄に過ぎず、極論言えば「そんなことあったっけ?」という程度の認識かもしれません。

これは凄く重要なポイントで、自分が感じているほど他人は自分に厳しいわけでも、実は悪意があるわけでもないかもしれないという事であり、同時に、貴方が考えているよりも相手は負担やストレスを感じているかもしれないという両面の意味があります。

 

昨日の話題で「コミュ障」の言葉遣いという話しがありました。

 

勝又健太@テック系Youtuber on Twitter: "「コミュ障エンジニア」の他の特徴として、Slackやプルリク等での文章のやりとりにおいて「断定形/詰問形/命令形が非常に多い」というのがありまして、「違います/〜しましたか/〜してください」みたいな、ビジネスマナーを理解できてない… https://t.co/ChM3eZ78m6"

自分が解説している事が受け手によって評価が分かれるという事象を自らのツィートにより表現することによりコミュニケーションとは双方の意識を疎通したいという気持ちが大事だというメッセージへ変換している(はず

 

これも同じ事だと私は思います。

相手が「コミュ障」だと定義した瞬間に相手と自分の関係は決まってしまい、自分は正しい、相手が正すべきとなります。

そしてそれを補強するために周囲に「こうした方がみんないいよね?」という本来不要な同調を求める事になります。

確かに「こうした方がみんないいよね」という事には一定の理解があつまるでしょう。なぜならば人はある一定のルールの中で行動する方が安心感を得られますし、一体感も得られますから。他にもイライラしないとか、まぁ、いろいろあるかもしれません。

 

が、一方で、相手は本当に「悪意」をもってそういった事をしているのか?という視点は完全にかけているでしょう。

 

本日の話題で外国での労働では賃金が4倍というものがありました。

 

マカオ転職で給料4倍! このままでは日本の賃金が危ない! (1/3) - ITmedia ビジネスオンライン

うーん、日本人労働者で外国人のホワイトカラーと同じレベルで働ける人ってそんなにいるかなぁというのが本音。おそらく日本人同士でイチャイチャしているようなレベルで外国人と働くとか確実に無理なんだけど・・・

 

私は香港や中国を中心に比較的海外との仕事が多く、インドやマレーシア、ヨーロッパ系の方とも直接・間接的に仕事をする事が望まないのですが定期的に生まれます。

私の英語力は0に近く、その上中国語(2種)、フランス語、スペイン語など当然話せるわけもありませんから、それぞれ必要に応じて通訳の方がフォローしてくださるわけです。

 

で、その場合に常に言われるのは「目的を明確にして下さい」という事です。極論いえば「どう思いますか?」とか「と思うのですがいかがですか」のような曖昧な問いを訳し伝えると「貴方はどうしたいのですか」となるのが通常です。

 

特に仕事では「自分はどう思う」という事と「自分はどうして欲しい」という事を明確に伝え、相手も私に対して「わかった」「無理」「条件がある」のような具体的な反応を基本的には返します。

 

あの条件があるがの時に「OK〜」と軽くいった感じの後に、サクッと微妙な条件を軽く話す感じは日本人では最初は戸惑うかもしれません。

「お前、それ、ぜんぜんOKじゃねーんじゃねーの?」みたいな。

ただ、具体的に条件は示されますので、今度はこちらがそれを受けるのか、受けないのか明確に意思表示をすればといだけの事ではあります。

 

ちょっと脱線しましたが、つまりは、コミュニケーションというものは立場が変われば受け止めるべきポイントや受け止めかたそのものが変わるという事です。

 

当然日本人同士のコミュニケーションでわざわざ外国人とのコミュニケーションを意識して方向性を修正する必要はありませんが、例えば、前述の議論であればコミット時のコメントはどうするかという話しであれば、別に断定系でも問題ないですし、むしろ省略すべきことはバシバシ省略すればいいし、それが判らない時は普通に聞けばよいだけのことですからね。

そういった適宜状況に応じて対応することこそが「コミュニケーション」であって、相手に求めるというのはそれは自分よりも相手の方が「コミュニケーション能力が高い」と自分が考えるから求めるべき事であり、相手を「コミュ障」と定義しておきながら相手に改善を求めるというのはどうかな、と思います。

 

このように、立場が変われば今まで見えなかった事が見えてくる、というのは当然のことです。

ただ、注意して欲しいのは、その事が「全て」ではないという事です。

 

政治的な話題でもそうなのですが、自分と違う意見は「右だ!」「左だ!」と言い始める人がいます。

実際の世の中はそれほど極論には満ちあふれていなくて、大抵の人は、右も左もいろいろな考えを織り交ぜてもっている事が普通です。

これを「ダブルスタンダードだ!」と罵る人もいますが、そもそも人はそれほど完璧ではありません。

 

つまり、ある局面で子供に対して不適切な行動をとった人がいたとして、その人が全てを否定されるべき人間であるかといえば私はそうは思わないし、もっと言えば、その人にもその人の視点があり、許容できる事、許容できない事もあるという事です。

 

男性が育児に参加する事で、これまで女性の視点でしか語られなかった事がもっと踏み込んで、実体験として語られる事は凄く良い事ですし、もっと広がるべき事だと思います。

というか、そもそも子供には少なくとも同数程度は男親もいるはずなわけで、それが直接なのか結果的には間接的なのかというのは状況によるとしても、少なくとも同数程度は子育てに関わる男親がいるべきで、そういった状況であれば、こういった男性が子育てについて語るブログが「珍しい」という事で目立つという状況ではなく、「為になる」とか「拠り所」としての存在になって、当然の状況になることがあるべき姿であると思います。

 

そして、そういった人を、つまり自分と同じ境遇、子育てをする男性だけでなく、当然女性もいるわけですから、私はそういった人達が抱えている不満や境遇を上手に伝え、それを理解できない人達とどうやって橋渡しをするかという事の方が大事だと思います。

 

理解できない人に対して「お前はクズだ!」と罵るのは、正直あまりお勧めしません。

実際「クズ」なのかもしれませんが、ただ、相手を「お前はクズだ!」と罵ってしまうと、一定数の「興味の無い第三者」の反感を買う事が多いのです。

この「興味の無い第三者」とは、子供にも別に興味は無く、別に嫌悪感も持たないものの、ただ、一方的に義務を負わされる事を嫌う層です。

 

子供は社会が育てるもの、というのは私も理解しますし同意します。

が、世の中にはそう思わない人もいるわけです。

そういった人を「敵」として定義してしまうと、これは「子育てをする層」または「子育てを支援する層」つまり「肯定派」と、「子育てに興味の無い層」または「子供が嫌いな層」つまり「否定派」の争いになりかねません。

 

このこの争いは正直非常に無意味で、結局最後は「倫理感」とか「一般常識」というようなもので相手を縛る以外には無くなります。

というのも、そもそも「子供が騒ぐのは当然ですよね?」のという価値観を肯定していない人と共存するわけですから、そういったもので意見を合わせる事など最初からできないのですよ。なので、どちらかの言い分で相手の言い分をねじ伏せるしかありません。

 

私は根本的にこういった何かで相手をねじ伏せるというのは好きではありません。

いや、実際自分が生活の中で論理的に相手をねじ伏せていないか?と問われるとアレですが、それでも一定の自由や選択権は与えた上で、その上で合理的な選択肢として選択してもらえるよう配慮しているつもりです。

まぁ、完全に自己弁護ですが。。。

 

「持続可能な社会」というものを考えた時、以前述べているように、基本的には当面、それもこれらか相当長い期間、子育て世帯というのはマイノリティとなります。

 

これは「子供を育てる苦労」というものが、どんどん共有されない社会になっていくという事です。

 

この事実と対峙するときに考えないといけない事は、社会として「子供を受け入れる人」「受け入れない人」という溝を作らないようにしなければならないという事です。

 

もしもこの溝を作る方向で議論が進めば、つまり短絡的に「義務」のような形で相手を縛る事を当然としてしまえばおおよそ多数はは「子供を育てていない人」になりますから、判りやすい部分では理解を示してもらえるものの、所謂実体験に基づかないと理解できないような問題は全て黙殺されかねません。

 

そう考えたとき、つまりは「自分にとっては必然、他人にとっては偶然」と考えれば、自分の境遇や状態を相手はなぜりかいできないのか、という視点も少し持って欲しく、そしてそこからどうすればそういった状況を共感してもらえるか?という方向で動いて欲しいなと思います。

 

今後も男性が子育てに積極的に関わる(この表現がそもそもおかしい)事が増えるでしょう。その時に男性が果たすべき役割は、女性と同じ事をする事も大事ですが、男性だからこそできる行動や視点、そういった事も一つ役割として担って欲しいと思いますし、私は自分がそういった立場になれば担いたいと思います。

 

おそらく男性がそういった事に参加した時「女性のこの気持ちがよくわかる」という意思表示をする事が一番共感を得られるとは思いますが、それはいわゆる「内輪の共感」を得ているに過ぎません。

 

「内輪の共感」は、自己肯定感こそ充足すれど、そこから得られるものは極論言えばなにもありません。

 

当然子育てのストレスや不安をブログを通じてただ発散するというのであればそれで満たされると思いますので話しは終わりですが、記事やブログからはそういった状況に一石を投じるという意思も感じますので、そうであればそういった「内輪の共感」だけでなく、もう一歩進んでみるのもよいのではないかと思います。

 

なお、もう一つのですが、既に述べているので端的に。

つまり「そういった話題に触れる方が共感や話題を得やすいから」です。

男性が育児をただ頑張ったという話しですと正直埋もれます。

ですので、そういった話題を常に書き続けるというのは良くある手法です。

が、あまり無理に話題を作り続けると、見る側もちょっと飽きてしまうので、そういった視点でいるようであれば短命なブログにしたいのか、それとも息の長いブログにしたいのか、一度冷静になって頂く方がよいのではないかと思います。

 

最初の頃はぶコメも少なかったですよね。でもあの頃の記事は結構きらいじゃないです。

 

 

この記事とか、正直今と比べるとつたない構成ですが、中身は凄く真に迫るものがありますよね。これは貴方自身の実体験でありそこに貴方の視点が凄く入っています。

その前のいつまでもあると思うな「親子の時間」もいいですよね。というかその後の【子供連れはただ外出するだけでも滅茶苦茶大変】~ある夏(夏休み)の日の子供達との過ごし方~も面白いと思います。

 

この頃の記事が個人的には好きで、なぜかといえば記事主の日常が凄く見えていたから。

当然今書かれている事もそうなのだと思うのですが、それはどちらかというと世に溢れている声を拾っているように思えるのですよ。世にそういった事が溢れいているというんは凄く残念なのですが。

 

例えば男性が「家事・育児」に参加しにくい理由という話し。これはなかなか攻めている記事だと思います。なぜ男性が参加しないのか、女性から言われている何気ない言葉にどう感じているか、まさに男性という書き手が生きている記事ですよね。でも女性からの共感は得にくいですよね。この後にある【前編】子育ての大変さがイマイチわからない男性のために部下に置き換えてみたら想像以上にヤバくなった件あたりは、そもそも育児に参加していない男性にどうやって理解させるかという、私が上で触れたような視点で書かれていてなかなか興味深かった事を覚えています。

 

なんか私の視聴履歴を延々と思い出しても意味がないのですが、昔の記事は、貴方にしかかけない記事だったと私は感じているんですよね。

 

そういった視聴者からすると、ちょっと最近の「育児に理解のある人」と「育児に理解の無い人」の対立を主とした記事というのは、おそらく反響はそちらの方があるのでしょうが、ブログがもっていた個性が失われて、だんだん世に溢れる、いわゆる共感を得やすいネタを扱うブログになっていっているような気がします。

 

いや、最近の記事もそういったものばかりではないのですよ。

でも何というか、そういった記事の方がバズってますよね。で、そのバズった感じの記事が最近は定期的に出てきているように感じるのですよね。

個人的には他の記事と比較して方向性が一気に振り切っている感じではあるので、そうういった怒りなんだろうとは思いますが・・・。

 

常に書いていますが、当然ブログは個人が勝手に書いているものですのでどのような方向性で書いてもよいと思うのですが、ちょっとその辺にある普通のブログというか、子育てに奮闘する男性というか、そういったオリジナリティが失われていく記事が増えるのは残念だなぁと思わなくもありません。

 

2つめの理由は杞憂であってほしいものですが、ちょっと気になる点ではありました。

 

まぁ、コナンが事件に遭わないというのは、もはやお話として成立していないわけですが、ただ、子育て中の人が不遇な境遇に常に置かれているとは私は思わないのですよ。おそらく多くの人は貴方が気づかないところで沢山の小さな配慮をしてくれているし、たぶん貴方も周りの人が気づいてくれていない多くの努力をしていると思います。そして、その中心にいる子供自身も我々大人が気づかないような沢山の不安や恐怖、そして喜びや感謝のようなものももっていると思うのですよ。

 

そういった全ての事が沢山あると思うので「対立」や「怒り」というものだけが溢れているような絶望したものが「子育てである」というのは読み手の感想としてちょっと残念ですかね。

 

と、個人的に感じた次第です。

たぶん禁煙者向けマンションは多少家賃高くても埋まると思うが

 

「どこで吸えばいいの」ベランダ喫煙トラブル、解決に限界 受動喫煙でうつ病リスクも(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

飲食店だって喫煙者向け、禁煙車向け、分煙ってあるんだから、いい加減マンションもそうして欲しいのだけど。分煙オフィスビル同様に喫煙所作ればいいし、禁煙は確認されしだい退去でいいだろ。これで平和的に解決

 

そもそもなんでやらないのか、といいつつ、多くのマンションではそもそも共有部分は禁煙(というか火気厳禁の指定も結構多い、つまりバーべーキューもダメ)なので、根本的にベランダでの喫煙はルール違反でしかないというのは今更の話。

 

喫煙が妥当か否かではなく、煙害云々でもなく、そもそも火災予防も含め禁止になっているマンションの方が圧倒的に多いのが少なくとも東京では実情です。で、普通は入居時に説明されているんですけどね…。

 

ただ、当然そこを無視している喫煙者は多く、わがマンションでもやらかしている奴がおり、当然のごとく「ベランダや共有スペースでの喫煙は禁止しております」とのダサい張り紙がされているわけで。

 

で、私は昔から思うのですが、そもそも喫煙者専用マンションを作れば普通に埋まると思うのですよ。

 

家賃を多少割高にしても埋まると思われるので、是非作っていただきたい。

 

一方で、個人的には分煙マンションというものも作ればいいのだと思うんですよ。

オフィスビルなどではもう当たり前ですが、ビル内では指定の箇所でしか吸えませんし、当然勝手に非常階段や屋上などで吸う事も許されていません。

で、その分、ビル内に数か所の喫煙所があるので、別に寒空の下や雨の降る中などで修行のように吸わなくとも、室内で座りながら吸えるわけですよ。

 

マンションでもそうすべきだと思うんです。

その上で、ベランダでの喫煙を確認した場合は退去または罰金とすればいいわけで。

 

そこまで配慮されてもベランダで吸うような人は凡そ何をやってもダメなので、譲歩する必要はないと思いますしね。

 

私はルールの中で正しく吸う分には別に好きにしてくれればいいと思うんですよ。

禁止されているベランダや共有スペースでの喫煙をするからトラブルになるわけであって。

 

既に散々言われている室内で吸えよ、という意見についても、そもそも家庭内ですら喫煙者としての居場所がないが、それでも禁煙(または自宅での喫煙のみやめる)という事ができない時点、意思が弱いという事はほぼほぼ確定なので、そのような人に真っ当にルールを守れといったところで聞くわけでもないなぁとは思います。

 

いわゆる「禁煙できる人はさっくりできるし、できない人はいつまでたってもできない」まさにあれです。

 

なので居住環境というのはもう、禁煙者なのか、喫煙者なのかで分けるほうが双方幸せだし、当然家族内に喫煙者がいてしまった(望まない結果)場合も、一応分煙というルールを守る事を条件に共存すればよいのだと思います。

 

この場合、分煙マンションはかなり厳しくしないと無法地帯になりかねないので、その点は若干不安も残りますが、その場合は家族内で話し合うしかないでしょうね。

 

例えば、夫婦の何れかが喫煙者という場合は結構不幸な感じもしますが、そもそもそういったケースが現状他人に一番迷惑をかけているケースであるとも思いますので、いつまでも家族内での協議から逃げずに、ちゃんと話し合ってルールを守るのか、それとも禁煙するのか、それとも自室内で喫煙できるようにするのか等ちゃんと家族なんだから話し合うべきであって、それができない家族の問題を他の家族を巻き込んで放置するというのはもう時代としても受け入れられないところに来ていると思います。

 

その他、室内の壁紙が~とかいう人は、そもそも救いようがない(家族内の喫煙・禁煙派による戦いですらない)ので、そういった人はいわゆる喫煙者専用マンションというもので生活するようにすればいいのだと思います。

 

 

何れにせよ、ベランダというのは一般的には専有部ではないので、居住者の自由にはできません。通常は共有部ですのでそこで勝手にタバコを吸う行為に限らず、そもそも火器を扱う事を禁止していることが一般的です。

 

なので、喫煙者の権利云々ではなく、そもそもルール違反であるという事を理解していただき、その前提でそういった人も救われるよう、喫煙者向け、禁煙車向けというそれぞれに適した環境を整備するほうが圧倒的に救われると思うんですよね。

 

まぁ、やらないというか、多くのマンションでは共有部(つまりベランダ)でさえ吸わなければそこまで厳しい事を言うつもりもないというのが本音なんですが、なぜか喫煙者が自らルールを破りに行くので不動産業界としても困っているというのが実情だとは思いますが…。

先生、凄く申し上げにくい事なのですが・・・

 


 先生、凄く申し上げにくい事なのですが、それほど我が国の国民は賢くありません・・・。

 

本件を見る際に重要なポイントは、記事にあるように「URLとともに」という点で、このようなツイートを見る通常人は、単にツイートの本文だけでなくリンク先も併せて読むものでしょう。

引用元:https://blog.yoji-ochiai.jp/entry/2018/10/18/162801

 

例えば、ネットの新聞記事ではタイトル文しか読まない人は沢山いるしそればかりか中身を読んでいないにも関わらず暴言すら吐いてくる人もおられます。その他Twitterでは幾つものツィートにより構成される話しであっても、そのたった一つのみを取り上げて批判する人も非常に多く、というか、正直そういった人の方が多いのが実情でございまして・・・。

 

誠に申し上げにくいのですが、日本のネットリテラシーとは、現状はその程度でございます点、ご理解頂けますと幸いです。

いや、、、いじめたら負けなんて幼稚園でも小学校でも言われてきたでしょ?

 

ドリーさんのツイート: "いや、だからさ、おっさん。自殺する子供を本当に減らしたいのなら「死んだら負け」と言うよりも「いじめたら負け」「人を苦しめたやつは負け」「パワハラする奴は負け」と声を大にして言おうよ。それを言うのが大人だろう。なんで常に被害者に努力を強いて加害者はお咎めなしなん?おかしいやん。… https://t.co/mX6akZ6whj"

まぁ、それで問題が解決するならアホな大人も喜んでそうするわけなんだが、君も含め学校でイジメは良くないよね?ってあれだけ教えても、テレビで報道しても、まったく効果が無いから緊急措置的にいっているわけで。

 

全体は読んでないしあまり読む価値を感じなかったので、論点がズレているのであればご意見いただきたいわけだが、まったくこの意見への共感に理解できない。

 

そもそも、もう相当昔、そうですね、おっさんである私が幼稚園のころから、アンパンマンの絵本でもそうだったし、おおくのアニメや漫画、道徳の授業まで含め、多くのもので「イジメはだめよ?」「そんなかっこ悪いことやめようね」と言われているとおもうんですが。

 

まぁ、もしかすると地域によりそういった教育が一切行われないという地域が有る可能性も否定しないが、教科書というのは検定もあるので、一定の内容が含まれているはずで、とりあえず教科書というものには載っているので、まぁ、まったくそういった事に触れていないというのなら、その事が問題かと。

 

話しの筋は別として、そもそもイジメを行う奴に「止めろ」なんてのはずっといわれているし、社会的にも「止めろ」という事を言い続けていると思う。

 

が、当然ですがそういった事をする人にとっては止める理由なんてないし周囲から「イジメはかっこ悪いよ」と言ったところで「だから?」程度でしかない。

 

いや、そうでしょ、自分の周りでは一切イジメがなかったと?

あったよね?いや、僕の人生の中で一切イジメと無縁な組織なんて無かったと思うし、小さい事から大きな事まで、大抵はイジメに類する事は平気で行われているわけで。

 

で、それを見過ごしている、見落としているのも特別な事ではなくて実は結構当たり前におこなわれて「しまっている」事なんだよ。

 

これは、周りから見ればイジメと思われない事でも、本人からすれば明らかにイジメであるようなケースもあり、凄く難しい問題なんだよ。

 

それでも、その人が命を落とす、そういった選択をするという事は可能であれば避けたいし、そこに何か可能性のようなものを届けられるなら届けるべきだと思うが。

 

「イジメは良くないと声高に叫ぼう」というのは良いと思うよ。

でも、それが浸透し、その社会的常識が、本当の意味で万人の常識に変わり、他人の叫びが当然のように受け止められるように社会がなるまでの間、我々は目の前で死んでいく子供をただ見続け、その子供の横で「イジメは良くない!」「イジメなんてかっこ悪いよね!」と言うことが果たして正しいのだろうか?

 

どちらをすべきなんて話しではない。

 

どっちもやるべきであって、もし、それ以外にもよい方法があればそれもやるべき。

 

いや、やれよ。

 

だいたいどの程度イジメに詳しいかしらないが、イジメなんて本当に難しくて、極論いえば、本人ですら気づいていないようなものもある。

周囲からすれば明らかにいじめられているし、そこまで我慢しなくてもいいのにと思い声がけしても、本人はまったく意に介していない事もある。

それが後に大きな事件に繋がるような事もあれば、何事もなく大人になり本当にまったく何事もなかったようにそれ自体を語れるような人もいる。

 

本当に難しいんだよ。

 

父が教員であった為、そういった問題は本当に腐る程見聞きしてきた。

私の家には生徒が相談に来ることもあったし、田舎では以前も書いたが全く知らないおっさんが一升瓶かかえて(酔っ払って)相談にきている事も普通にあった。

なぜ僕は小学生にも関わらず一人で水知らずの酔っ払いの相手をしないといけないんだ・・・と思った事もあるが、その後の話しを聞けば親は親で悩んでいるわけで、田舎の小さな教員住宅では全て筒抜けで聞いている子供ですら判るほど感情のこもった話しが行われているわけだよ。

 

そんな環境でいると、イジメと向き合うというのは、イジメられている子も本当に大変だが、その周囲も当然なにもしていないわけではないし、どうやって止めさせるかは当然として、それと並行して、どうやってその子と寄り添うか、さらにはその親とはどう接するべきか、さらには加害者側と被害者側の関係をどうすべきかとか、どう考えても教員の安月給では見合わないようなレベルの壮大な対応を求められているわけで、ただ「イジメはかっこ悪いよね!」なんて言えばいいというレベルではない。

 

「イジメはかっこ悪い」とも言ってるし、「死ぬ必要なんてない」とも言ってるし、正直現場の多くの先生なんてのは、わけもわからない状況で相当必死なんだよ。

 

「わけもわからない」なんて無責任だって?

知らないくせにいうなよ。

子供が何をやっているかなんて先生程度が全て理解できるわけじゃねーんだよ。

先生だって必死に生徒と会話したくても、昔よりも今はもっと難しいんだよ。どんなに寄り添っても限界はあるし、そもそも親ですら先生の方が詳しいのでは?程度の認識であることもざらなんだよ。

 

元々教員が多い家計であったのでこの手の話しは何度となく親戚内でもされたことはあるが、年の近い親戚も教員になった。

これだけ教員が不足しているなかでその採用も結局非常勤であったわけで、これが何を意味しているかと言えば、そもそも教員の質を上げる事など考えていないという事。

 

結局現場ですらそんな状況で、一方で「イジメはかっこ悪い」とあれだけ小さいころから親からも、メディアでも、学校でも言われているのにそれを聞き入れない子供達もいるわけで、そこでどうするかを考えて少しでも即効性のある方法について考えがいく事に否定する事など意味はまったくないよ。

 

もう一度いっておこう。

「ぜんぶやれ」

 

以上。

 

 

スタートラインからズレすぎ

 

キモオタや男が「性欲」についてフェミに語らないのは卑怯だ - サブカル 語る。

論点が謎すぎ。一応マジレスすると海外でその手の意見で「だからミニスカートは着るべきでない」なんて意見すると女性から袋だたきにあう。男性がどうであるかで女性のファッションや存在価値を論じる事は恥ずべき事

 

言いたいことはわかるが、それはもうスタートラインがズレすぎ。

 

そもそも女性のファッションがどうであるかは女性自身に選択肢があることで、その結果それを男性がどうみるかというのは女性には責任も関係も本来はない事。

 

なので、その個人の判断からすれば水着だろうが、下着だろうが、ミニスカートだろうがなんでも自由に選べばいいし、それについて「そんな格好をするから」なんて言うのもナンセンスではあるし、「そんな格好をするのは男性を喜ばせるためだ」というのも当然ナンセンスではある。

 

この議論の本質は「それが自身の意思に基づいて行われたのか?」というのがまず一つにはある。

本人が自らの意思でその選択をしたのであればそれは尊重されるべきだし、その事を他人がとやかく言うことは全くもって意味が無い。

 

もう一つは「それがその場に適していたのか?」という話し。

NHKは実態はともかく一応公共放送と銘打っているので、公共性という観点で適切であったのかという事。

昔は相撲とニュースを流していれば良かったが、既に時代はジャニーズがキャスターを務めるような時代になってきているわけで「時代」として捉える事に無理はないかという視点や、仮に「時代」としては適切な選択であっても「視聴者」の受け入れる限界、つまりそれを許容しない人は一定数いるのは止むを得ない(誰がキャスターでも否定は一定数はあるので)としても、それが度を超えているのは当然よくないわけで、その点でも妥当であったかという事。

 

この話しに対して「男性は所詮は女性をエロ目線でみるよね?」などとアホな意見を投げる事は正直この議論に参加していない女性も含めて全ての女性に対して「あなたの価値はエロで見られるか・見られないかですよ」といっているようなもの。

 

確かに「エロ目線」についても議論する必要があるケースは確かにあるが、大抵の場合、どれもこれも「本当にそうなのか?」という事が必要にはなる。

 

例えば、男性と女性の友情は成立しないと考える人もいれば、いやいや普通に成立するでしょ?という意見もある。

成立すると思う人からすれば、未婚・既婚にかかわらず男女が二人っきりでお酒を飲もうが、一晩過ごそうが、ただ友達と過ごしただけでしょ?という事にはなるが、そうでない人からすれば「いやいや男女が一晩過ごして何もないとかありえないでしょ」という人もそれはいるでしょう。

 

この話でも結局のところ、それぞれ見方・考え方が違うわけで、その見方の「どちらが正しいか」なんてのを議論する事もナンセンスだし、「男性は動物だからお酒なんてのんでいたらきっとスケベな衝動を抑えられないでしょ?」なんて一方的に言い放つのは、男性も対してもそうだけどそれ以前にその女性にもなかなか失礼な事を言っている。

 

相手がVTuberという人格だからそんな事を言い放ってもいいと考えているなら、それこそ誰が相手であれば自分の内なるエロをぶつけてもいいと思っているという選別をしているわけで、相当寒い行為だと思うよ。

 

エロい視線を持つか否かはいろいろあるでしょう。

 

例えば、NHKの筋肉体操。

あれも一部の人は性的な目線を持っているとは思いますよ。

ただ「そう思う人がいる」というだけで「あってはならない番組だよね」「あの格好は適切ではないよね」とは言わないよね?

 

結局はそういうことなんですよ。

 

 

実際問題そういった目線で見る人がいるよね?というのはそれはそうでしょうね、ただ全員が貴方のように全ての異性にエロ目だけで生きていると思うのは失礼な話しだし、そもそも男性の好みや性的興奮の対象なんてそれほど単純じゃないよ。

 

若い人がいい人もいれば、年上がいい人もいるし、スタイルによる差もあれば、しゃべり方であったりなんだりと千差万別。

 

そもそも2次元には反応しない人もいるし、自分では気づかない内なるなにかに突然目覚めてしまう人いるでしょう。

 

そんな「可能性」であったり自分の中にある「常識」で他人を推し量るような事をするから他人の「常識」に理解ができなかったり、自分の「常識」が実は自分が守っていると思っていた人を傷つけてしまったり、また、無闇に女性に「有るべき姿」を押しつける結果になっていくんですよ。

 

環境として女性が制限をうけない、自由に振る舞ってもなんら弊害のない環境をつくるべきだし、確かにその中で、性という問題は非常に根深い問題だが、そのコントロールは男性の目線の問題だったらそれは見る側の意識や抑制という話しに過ぎず、その対象に対して「だからテレビにでるべきではない」とか「でるならこんな格好をすべきではない」と短絡的に述べるべきではない。

 

タイトな服が好きな女性がいても、それはその人の個性であって、別に男性に色目を使うためだけではないでしょ?

それをエロ目で見る男性がいたとしてもそれはエロ目を使う男性の問題であって、その人のファッションを変えるべき話でもないし、その人が自分の個性を消さなければならない問題ではないでしょ?

 

今回はVTuberだから人格がないような議論になっているけど、その1点をまずは考えないとダメだし、それがVTuberだろうが、アイドルだろうが、演歌歌手だろうが、アナウンサーだろうが、その1点は揺らいではだめでしょ。

 

女性の議論(それ以外でもそうですが)をするときに、まず最初に考えるべきは女性の権利と何を守るべきかであって、影響を与えるものは考慮すべきであっても「だから」という理由で女性の権利が失われるような事や、女性の選択が制限されるような事があってはならないと私は思いますけどね。