何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

初詣しなければいいだけだと思うが?

 

最近の初詣がやたら行列になってるのは、二礼二拍手一礼みたいな時間がかかることをみんなでやり出したからで、昔はこんなのはなかった - Togetter

いや、神道以外の人がわざわざ神社に初詣にきていたのは田舎ぐらい(田舎では、神社とお寺が同じ運営で隣の敷地という形態が比較的多い)だったのに、テレビやネットの影響で猫も杓子も行くようになったからでしょ?

 

私は神道なので、仮にそれが新しいシキタリであったとしても、そうしましょうという事であれば当然従う。

 

別にそんなものはキリスト教であっても同じで、例えば同性愛に対する考え方や接し方を新しい解釈の元に時代にそったものとすることも行われており、一部では反発があるものの、彼らもそれを宗教の方針や教えとして当然従うわけで。

 

結局のところ、もともとは神道やそれに近しい人たち(田舎では、宗教というか神社やお寺自体に集会所のような意味合いもあるので、実際は宗教、宗派に限定されず、どちらかというと神様の種類というか、農家であれば豊穣みたいな、そういったものの影響の方が大きいのですよ)しか行っていなかったので、混むとか混まないというか、地元の神社にお伺いするというのが親の代からずっと続けていたものだと思うのですよ。

 

ところが、だんだんと「パワースポット」とかいう謎の言葉や、日本特有の「宗教ってなんだっけ?」という何でもいっとけ、みたいな扱いにより、ただ「神様なんでしょ?ご利益あるんでしょ?」みたいなことが広まった結果、ただの「年始の一行事」になってしまったのだと思いますが。

 

そもそも私が知る限り、神道ってのは結構すくないのですよ。

たいていが仏教であって、神道はおそらく地域的にある程度多いところもあるでしょうが、それでも圧倒的に仏教よりも少ない。

 

そりゃ、神道でない人は宗教としての扱いではないので前述したような、宗派としてのシキタリであったり、仮に新しいものであっても理解して受け入れるという事には無理解だろうとは思うが、その意見に何の意味があるのかと。

 

逆に、神道である人が、そういった新しいシキタリに対して否定的であれば、別に改宗すればいいだけであって、そこに制限などないわけで。

 

だれからも制限されていないと思うんですが、なんでそこで「新しい」とか「古くからの」という議論になるのかわからない。

 

なんですかね、宗教とは、古の時代から決められたことしかしてはならず、仮に新しい形や文化を広めてはいけないのですかね?

 

なんだろう、この、古臭い意見の塊は…。

 

なんでも「最近できたものに意味はない」と否定すればいいものではないよ。

 

全体的に雑で酷い・・・

 

Suicaのシステムがいかにすごいか仕組みを徹底解説 - 炎と硝煙にむせる開発現場から

"普通のWebサービスのレスポンス速度は1秒以内でも結構早い方で、処理速度的には0.2秒とか意外にかってたりします" は? いつの時代のいつのシステムだよ。仮に通信のオーバーヘッドを加味するなら実態は同等なんだが

 

 

いや、もう、年末になると皆暇なのか、無駄な知識を吐き出したいのか、本当に糞クオリティの記事が大量にでまわる・・・。

 

この記事主、フルスタックエンジニアと自称しているんだけど、お前、その記事、本気で書いてるの?

 

そもそも昨今のアプリで200msで処理とか遅すぎだし、Webサービスは処理よりも通信のオーバーヘッドが大きいし、ただ、相手がICカードの場合、ICカードの通信によるオーバーヘッドも考えれば、実態としては余り差異がないわけで、何を何と比較して、どこが凄いといっているかまったくわからない。

 

勘違いしてはいけないが、ICカードの通信処理は別に速いわけではない。

実際の所400Kbpsとか確かその辺が最速だったと思うのだが、これは普通のネットの通信速度と別に変わらない。というか、状況によっては遅い。

ただ、ICカードは、そもそもICカードに対応した仕組みを構築する際に、そのデータや処理の特性上、WEBサービスのような情報量を取り扱わない処理としているわけで、結果として「見た目上」早いように見えているだけで、特別な事はなにもない。

 

もっと言及すると、ICカードでは一般的にカード情報の更新手続きが伴う事が多い(もっとも、勤怠のよなリードのみのケースも昨今は多いが)為、その書き込み訂正まで含めると、実態としては決して早いとまではいえない。

 

例えば、我々がアプリを操作するときは、ある画面を表示するための操作が失敗することもなければ、その処理が訂正されるような事はない。

 

一方で、ICカードの場合、信号強度や結果の妥当性、エラー時のリカバリーなど、厳密に言えばかなりその中で必要とされる手続きが多い。

もっとも、これらはライブラリ等によりかなり使いやすくはなっているが、例えば同じリーダーに対して複数のICカードが検出された場合にどうするか、といった事も当然考えなければならない。

 

つまりは「WEBサービスとは作り方も何もかも違う」という話しであって、別に「早い」わけでは全くない。

 

というか、例えば昨今のリアルタイム性の高いアプリであれば、局所的なピークではなんとも言えないが、秒間数万処理などというものは普通に存在する。

 

1日4000万件の処理とは、秒間に直せば約470回程度の処理量となる。

例えばTwitterバルスツィートは2013年の記録で約14万3千ツィートとの事であって、その量もインターネット界隈の処理量として議論するとそれほどのものでもない。

 

「いやいや、ピークで言えば違うでしょ」などという君、正しい。

 

2017年の乗車人数のランキングでトップを見ると新宿駅で1日約78万人が利用している。

大凡朝と夕の乗車に偏ると過程し、且つ、昼も比較的多いと想定すると、ざっくり考えて朝夕のピーク時にそれぞれ全体の35%の利用者が集中しているとすると朝のピークで約27万人が利用したと推定される。さらにそれを点のタイミングでつまり秒間で考えた場合、ありえないがその50%が同時に改札を通過するとしても秒間13万5千件でしかない。

 

まぁ、ありえんが、改札の数は固定されているわけで。

具体的な数は見つからなかったが、200件以上みたいな記事があったので、まぁ、雑に10倍だったとしても2000件が基準値で、仮に引用されている記事の「タッチ時間の最短は0.2秒だった」というものを根拠にすれば、(絶対にありえないが)秒間5人が改札を通過するわけだから、2000台の改札を秒間5人が通過するわけで、秒間1万件の処理に過ぎない。

 

秒間1万、うん、ちょっとしたサーバーがあればいける。

というのも、前述のとおりICカードの通信内容は非常に限定的なので。コネクション数の処理さえなんとかなれば、通信内容を元にした処理はさほどのものでもない。

仮に、改札がある程度のスタンドアロンア仕組みを持っていたとするならば、当然同時コネクション数が通過数の想定値を大きく超える事はないので、そこに求められる処理もさほどの事はない。

 

ようは、分解して考えればそこは驚きポイントがずれている事は直ぐにわかる。

 

 

あと、お前が言っているのは「ICカード乗車券システム」の事で、それはSuicaではない。

ICカード乗車券システム」とは「Suica」というICカードシステムを用いた、「乗車券システム」のことで、実際お前が引用した記事にもそう書いてあるし、その説明は全てそのことだろうが・・・。

 

例えば、処理時間「0.1秒」の前提も、「改札」という特性上、そういった処理体系を考える必要があるわけで、別に「Suica」としては必要がない、というか「Suica」自体は普通のICカードなのでそのような仕組みはない。

 

実際自分でテストできるので、フルスタックエンジニアであればお手元のSuicaとリーダーを買ってきて試せば普通にわかるが、ただのICカードのリード/ライトをやっているだけで、なにも変わらない。

 

この記事は、全般的に言ってる事が「ICカード乗車券システム」の話しをただ、書き換えているだけなのだが、結果として「だからSuicaは6000万枚も普及した」といってる。

 

意味がわからん。

 

Suicaが普及したのは単純に日常利用されるもっとも身近な電子マネーシステムであった、というだけでしかない。

 

考察もまとめも、使っている用語も全て雑だし、雑というか本気で間違っているのではないかとすら思える。

 

だが彼は「フルスタックエンジニア」なんだよ。

フルスタックエンジニア」も随分と安い存在になったものだと思う。

日本人技術者っぽい意見が集まってるまとめではある

 

日本人、ようやく「あれは人工知能ではない」と気づき始めたらしい「遅えよ」「何でもかんでも人工知能言い過ぎ」 - Togetter

ふむ。私の認識では別に人工知能機械学習という言葉に分類上の違いはあまりないと思うのだが。機械学習と深層学習は体系的に(厳格には)別であるべきだが、一方で人工知能は結果としては何れからも導き出せるだろ

 

なんだかよくわからないまとめではあるものの、集まっている意見というものは日本の技術者っぽい意見で興味深い。

 

そもそも「人工知能」という定義は難しく、というか、機械学習もそうだし、それ以外のあらゆる用語は大抵時間と共にある段階でこれが定説として認識されるまでは、何がそれであると定義されたのか、などというものは決定されない。

 

そもそも「知能」を「人工的に」生みだした物が「人工知能」であるとすれば、その手段として「機械学習」の結果が用いられようが、「深層学習」の結果が用いられようがなんでもかまわない。

 

もっと言えば、昔はやった「人工無能」。あれも一つの「人工的に作り出された知能」の一つである。

ただ、決定的に学習要素が少なすぎて限定的な再現しかできないだけで、あれを膨大な学習に基づいてやったら、結局昨今のそれと基本変わらない。

 

これについては批判的な意見や否定的な意見もある。

それは当然で、定義が未だ曖昧でそもそもそれを日本語化している時点でより日本では適当な定義が一人歩きしているからだ。

 

もっとも、日本ではそれに限らず、何かを日本で広めるときに翻訳以前になにもかもかなり適当なので、今更ではあるが。

 

なお当然、変わらないといっても変わっているものもある。

実現するためのアルゴリズムというものも進化しているし、それを実現できるだけでの環境も整ってきた。

 

ワードについての検索量の違いでいえば、別に疑問もなにもない。

 

日本は典型的に「結果」から入る。

人工知能という一つの結果がワードとして一人歩きし、それを構成する要素はまだ日本では一般的になっていなかった。それが徐々に人工知能というものを実現、活用するためにはその実現手段を学ぶ必要があるとわかり、そこで必要なものとして手近な「機械学習」や「深層学習」というものに辿り着いた。

 

また、日本ではワンテンポ遅い云々も完全に的外れ。

そもそも日本の技術者が単純に最先端の情報に触れるときにわざわざ日本語で情報を探る意味も無いし、探ったところでなにもでてこない。

アカデミックな領域であればなおさら日本語で検索などしないし。

 

プログラミングやインフラ界隈でいえば、そもそも具体的なアルゴリズムやそれを容易に実現するライブラリーやモデル、データ等があれば、大抵の場合はその具体的な名称で検索するわけで、その時点で日本語での検索などほぼ行わない。

 

それが日本語により検索されるという事は、日本語でその言葉・ワードが(その分野に接する技術者にとって)一般化されてきたという事で、それだけ情報が集まったからだといえる。

 

日本語で情報が集まる頃というのは、当然英語圏で情報が普及し当然のようになってからであって、それらの情報に当然のように触れていた人の一部がブログなどで情報を発信した結果、その情報に日本語で触れるようになるとい過程が繰り返される以上、当然の結果でしかないし、なんら疑問を挟む余地などない。

 

この手の話しはもう昔から何度も言い尽くされている話しで、昔以上に今の技術者は英語が当然できる人が多くなっている現状を鑑みるに、よりその傾向は強まっていると考えるべきで、そう考えれば日本語の情報がなかなか増えない事になんらの疑問はない。

 

この程度の事について「日本は」のような接頭語をつけて話すような技術者になってはいけない。

 

技術者とは常に「なぜそうであるのか」という事や、「それは本当にそうであるのか」という点を自ら問いかけるものであると思う。

 

極論言えば、ブログに書かれている一つの事例があったとしても、それを再現しない限りは事実であるかどうかはわからない。

 

当然、ものによっては再現できないものもあるが、その時は「何を検証すればこの事を客観的に判定できるのか」というポイントを探る、そのような手段の選択や判断基準の設定も重要な要素であると思う。

 

そういった視点や、考え方というものがあれば、自ずと巷でまことしやかにつぶやかれている事は本当にそうなのか、という事も自ら一つの仮説を立て、検証し、判断できるようになる。

 

なお、元ネタの人はアカデミックな方面の方なので、当然あの程度の断片的な情報をもって判断したものではないと推測するが、それについては他の投稿も追っかけたがあれ以外の情報が存在しなかったので、なぜあのチャート一つでそのような判断を下したのか全く理解できないが、当然、私のようなものには理解できないような様々な情報によりくだされたのだろうとは思う。

 

このまとめのリアクションは日本の技術界隈の縮図だと思う。

 

許す、許さないではなく、理解する力を養う事が大事

 

「謝ってるから許しなさい」他人を許すことを強要する教育に違和感…謝ったのに許してくれないという思考が生まれる原因にも。大人はどう対応すべきなのか? - Togetter

お前ら本当になんでも違和感を感じるのな。この話状況によるし関係者、その対応などあらゆるものに左右されるわけで正しい答えなんてない。許さない事も自由だし一方で許さない人間になったらそれはそれで大変だぞ?

 

皆もう何でも違和感、既存の価値観はおかしい、それ本当にいいの?とか、もう大変ね。

 

あえて話題に乗ると、私は許すとか許さないというのはそもそも論じる意味はないと考えます。

 

ケースとして、例えばAくんにBくんが悪戯をして、Aくんが怒っているケースで考えます。

この時、BくんがAくんに謝ったとして、Aくんはそれでも許せないとします。

 

ここで問題とすべきはAくんが許すか、許さないかではないでしょう。

それは個人の問題ですし、極論言えば、Bくんが謝るか謝らないかも同じです。

 

一番重要なことは、まずBくんに対しての接し方は「なぜそういった事をしたのか
?」という事でしょう。

特に子供のケースでは、大人や周囲から見るとただの「悪戯」や「いじめ」のような迷惑行為でしかない事でも私たちとは違う考えやなかなか理解し難くはあるものの「悪意のない間違った善意」でやっているような事もあります。

この時、大人や周囲が「謝りなさい」と一方的に言ってしまえば言われた側、つまりBくんはなぜ謝るのかを理解できませんし、そもそもなぜAくんは怒っているのかも理解できません。

背景を理解し、Bくんの行動を正しく理解する事がまずは大事で、結果としてBくんの考えや行動に問題があれば、具体的にその問題をAくんも含め話してあげる事が大事です。

そうすることで、Aくんへの謝罪も適切なポイントを抑える事になりますし、Aくんも自分の怒りを理解されているとして受け入れやすくなるでしょう。

 

当然「悪意のない間違った善意」であった場合、その行動に一定の理解を示す事も大切です。その行動には意味があったわけで、その意味を理解してあげなければ、Bくんも自分の考えや行動に自信を失ってしまいます。何が間違っていたのか、何がズレていたのかさえ理解、修正できればそれは間違っているわけではないのですから、そこはしっかり理解してあげる事が大切です。

 

一方で、Aくんとも会話する事が大切です。

一部の虐めにもある事ですが、人の感じ方や受け止め方は千差万別です。

ある事は他人からすれば大した事がなくとも、その人によっては凄く意味があり重要な事が隠れている事も少なくありません。

その為「怒っているから謝る」といった条件反射的な対応をしてしまうと「何に対して謝っているのか」という点がズレたり、ボケたりし、逆に謝る行為が相手に対して「理解もしていない」事の表れとして写り、余計に事態を悪化させます。

また、ある点の状況での加害者・被害者というものは、全体を通した場合に本当にその構図であるのか?というのはなかなか判断が難しいという事もあります。

例えば、結果的に泣いてしまったのはAくんだったが、実はもともとはAくんがBくんに対して何か言ってはいけない事を言ってしまった、悪意はなかったが何かしてしまった等、そこに至る背景にも配慮する必要があります。

 

場合によっては被害者自身がその事を理解している場合もあります。

そういった場合、被害者自身も自分の落ち度がわかっているためただ謝られるとばつが悪く、余計に話しが拗れるような事もあります。

そういった場合は、当然そういった背景を双方に理解させて、その上でお互いに謝る事も大事でしょうし、場合によっては「謝る」必要もないかもしれません。

 

また話しにでている「謝罪を受け入れる事を強要するのはどうなのか?」という話しについても、これはこれで非常に難しい話しです。

確かに謝罪を受け入れるかどうかというのは受け手の問題ではあります。ただ、仮に謝罪を受け入れない理由がなにであるかそこでは明らかなのか?という問題もありますし、仮に受け入れない事を是としてもそれが結果的にその人の人生を生きづらくしないか?というジレンマも生まれます。

他人事なので皆軽々しく「自分が折れるような人生なんてゴメンだね」といえるのかもしれませんが、その選択は状況によってはその人のその後の人生を左右する事になりまねません。そういった時「そういった理不尽」とどうやって付き合うか、折り合いをつけるかという事を学ぶのも生きる上では凄く重要だと私は思います。

 

いや、確かになぜ「理不尽」と付き合う必要があるのか!とは思いますよ。

でも、人が一人以上一緒に生活するという事は、社会という枠組で生きると言うことは、確実に異なる価値観の人と一緒にいるわけですから、何かしらの「理不尽」と付き合う必要がでてきます。

それは「自分が正しい」場合もあれば「相手が正しい。でも受け入れられない」事もあります。

そういった事を全部ひっくるめて「理不尽とどうやって気軽に付き合うか」という事を学ぶ事も大事でしょう。

 

「責任感を持つ」という事と、「無理をする」という事は似ているようで全く違います。

 

「理不尽とどうやって『気軽に』付き合うか」というのは、この違いを理解する事であったり、その違いをどうやって整理するかという事であったりしますが、それを大人になってから学ぶ事や、対応できるようにする事は非常に難しいものです。

 

そういった物を子供であったり学生にうちから旨く付き合えるように、周囲の大人が対応する事も「教育」であったり、「知識の共有」なのではないかと思います。

 

世の中が理論通りで万人が同じ価値観を持ち、全て正しく、誰も間違った事をしない、そして常にベストな状態が維持されるなら良いですが、そんな事はありません。

 

悪意のない失敗、悪意のある行動、善意の失敗、善意の迷惑行為などなかなか世の中は難しく、それと付き合う事が正直仕事よりも体力を使うというのは少なくないでしょう。

 

そういった意味でも「許す」「許さない」ではなく、「理解する」という事をまずは学び、その上で「どのような選択をするべきか」という考える力を養う事が大切であると思います。

 

正直人生とは最善でないときに、如何に最善の選択をするか、という事ではないかと思うし、そうでないとき(つまり、最善の時)にはそもそもどのような選択をしても大抵は後悔しないものです。

 

そういった話しなのではないかなと思います。

いろいろ話しが混ざっていてまとめ主の感性に疑問を感じるまとめですね

 

【介護】『年始はいい服を着せて初詣に連れて行く事がお年寄りや体の不自由な人にも当然の権利』と現場で言われると、自分達の権利はどこにあるのかなと思う→様々な意見 - Togetter

仕事なんだから業務の範疇かそうでないかで議論すべきだろ。業務外の話しなら別料金または家族が自分でやるべきで、業務範囲(勤務時/サービス内)なら何を言われてもやるだけの事でしょ。心ないも何もただそれだけ

 

これかなり変なまとめでまとめ主の意図もそもそも全体の理解もされているのかかなり疑問なんだが・・・。

 

冒頭の介護のはなしは、別に休日出勤がどうのという話しでもなく、介護が嫌いという話しでもない、ただ、そもそも本人が望んでるのか?とか、それはそもそも仕事の範囲に入っているのか?とか、いろいろとグレーゾーンな話しがあって、そのあたりのモヤモヤについての議論で、これはまぁそうねといえる話し。

 

一方で、まとめの中の半分は本当に「は?同じじゃないでしょ?」という意見が混ざってる。

そういった意見を個人が出している、つまり同じ話と勘違いしているのは別にいいが、まとめ主がそれを同じ話としているという時点で、このまとめ主はそういった感性の持ち主という事でマーキングしておいた方がよいのだろうと感じる。

 

例えば・・・

 

 

まぁ、アパレルはそうね、と思うが、最後の「似ていると思いました」といわれると「まったく話しの趣旨は違うだろ」という事になる。

仮に仕事により年末年始やお盆など、他の方が休んでいる時に働いているという事に違和感を感じるというなら、別に物流、小売り、サービス業など別にアパレル以外も相当数がそんな話しに該当するわけで、もう、公共交通機関を含め、全部一斉休暇にするしかないけど、それ、電車も動かんし、タクシーもバスも、電気もなんも動かないけど、それは話しが違うよね?という事で、それは貴方が自分で理解しているようにモヤモヤではなく「悪意のない我がまま」という奴です。所謂「わかっているけど、辛い」みたいな。

 

元の話しとは全然違うので、そもそもまとめ主がこれをなぜ含めたのか理解できません。

 

 

これもそう。

これも別に悪意もないただの個人の感想で、そうねーとしか言えないが、元の話しとはまったく関係がない。

 

というか、こんな事はそう思う人もいるし、そう思わない人もいるし、別に相手にそれを伝えず自分が感じているだけならどっちでもいいし、気にせんよ、程度のはなし。

何も元の話題と関係はない。本当にまとめ主の感性が理解できない。

 

 

これもそう。

元の話しはそんな主旨ではないし、介護職員としてすべき仕事は当然しているし、そこいに違和感なんて感じてないし、それに不満を持っているわけでもない。

問題の本質はそもそもそれは業務なのか?という事や、それは提供すべきサービスなのか?という事で、別にお金を払っているから神様なわけじゃねーぞ、という短絡的な話しではないと思う。

本当になぜこの話しがまとめに入ったのかまとめ主の感性がまったく理解できない。

 

それも、

 この話しが次にきている。

これは介護職員としてのジレンマについて語っていて、これは元の話題に沿っている話しなのだが、これがさっきのコメントの次に来ると言うことは、この話しとその前の話を一緒の話しであると考えているわけですよね?

まとめ主さん、それ、あんた、本気?この二つ全然論点違うけど。

 

そしてその次でまた明後日の方向の話しを拾ってくる・・・

 これは権利、義務の話しではあるが、そもそも権利に含まれているのか?自体が曖昧で、どちらかというと過剰要求または不要な要求ではないのか?という話しの方が正しいと思う。つまりそもそもそんな権利はないのでは?という話しで、プロとはそもそも決められた範囲で適切なクオリティのサービスを正しく提供するからプロなわけで。この話しは前半はズレているが、後半は添っているので、おそらくは発言主が発言のまとめ方を少し謝ったものだと思う(前後どちらが自分の意見の主なのかによるが)。

だが、そもそもの話しとはズレている事に変わりはない。

 

一方で・・・

これはそう。

結局「介護」とは非常に曖昧な枠組で成立しているので、そこに「甘えている」現実があるのが実態で、その上で「誰が甘えているのか」という話しも相まって複雑になっている。

仮に本人が甘えているならまだ議論の余地はあるが、議論の中では「家族の意見」であったり「現場の企画」のような話しや、そもそも連れ出すことが適切ではないようなケースもあったとあり「介護」の本質にも関わる話しとしてちゃんと議論しないといけない事がわかる。

私は「介護」は「奉仕」ではないと思うし、ある意味「医療行為」に近いものだと感じている、「医療行為」は当然「奉仕」ではないので、ダメなものはダメだし、その判断アは感情にも寄り添うことはあるだろうが、優先すべき安全性がより勝るわけで。

 

もうここに取り上げればキリがないが、以上で上げたそれぞれの意見は「間違い」という事で取り上げているわけではないので勘違いして欲しくない。

ただ、このまとめの主旨(が曖昧なのでなんとも言えないが)というか、元の話題とズレている話題をわざわざ入れているというまとめ主の感性が理解できないという意見を説明するために入れているので、不快に思われたらそれは申し訳ない。

 

が、逆を言えば、それはその人への意見として適切なのか?という私の意見でもあるので、その点で私への意見があればそれはそれでウェルカムですよ。

 

このまとめ主は何を考えてこんなまとめ方をしたのか正直理解できないのだが、ただバズらせたい為にウケそうな意見を拾っているだけのようにも思える。

 

少し注視してこの人のまとめや活動を探ってみたいと思った。

 

 

前竜王

 

羽生善治の肩書について|将棋ニュース|日本将棋連盟

勘違いしている人いるけど、羽生さんは以前は前竜王と名乗ってるよ。たぶんだけど、今度の無冠というのはそれだけご本人の中でもう一度奮起が必要であるとの意思表示であるとも受け取れるので、そこは理解してあげて

 

すごく勘違いしている人が多い。

羽生さんの性格的に選ばない、とか、そういうのは全然関係ない。

実際以前の無冠の時は前竜王を選択しているのよ。

 

で、その時と何が違うか、そこが大事だと思うし、それが伝えたいことではないのかなと。

 

あの時はいろいろな感想があるものの「あの羽生棋士が無冠か…」という大きなインパクトがありながらも、おそらく誰の中にも「限界」とか「若手の台頭」なんて話はなかった。

(いや、羽生さん自体が若手だったわけですからね)

 

ただ、前竜王というのは時期竜王戦終了までの間しか名乗れず、極論言えば、私はあの宣言は羽生さんの「私は取り返すよ」という暗黙の意思表示であったと思っています。

 

実際、そこから棋王竜王、名人、王位、王座、棋聖、そして最後に王将と次々に獲得した事実があります。

(順番はうろ覚えなのであれですが…)

 

今回の竜王戦、潮目が変わったのは間違いなく第三局であり、あの勝負を取り切れなかったという事がとても大きかった。

 

というのも、そもそも広瀬さんは今季圧倒的な強さがあり特に終盤の安定性で言えばずば抜けている。

 

その広瀬さん相手に七番勝負をやるという事は、極論言えば、一歩間違うと一気に取られる可能性すらある、おそらく一部のファンはそのことも少し考えていたと思う、それぐらい広瀬さんは強い、本当に強いのですよ。

実際、最終戦も途中互角から広瀬さんが押し始めたのち、羽生さんが戻したりとしたわけですが、先手有利という事を差し引いてもやはり広瀬さんが優位であったと思う。

それは、序盤の角換わりから攻めを見ても明らかで六局目の影響(羽生さんほどの棋士にそんなものはないと思うが…)を差し引いても、流れは「やはり広瀬さんか…」と思わずにはいられない状況が多々あった。

 

羽生マジックと呼ばれる一手、これは状況を打破するものを差すように思われがちだが実際は違う。

 

それは、そこに至るまでの手順が見ているものには理解できないまま、気が付くとその形に誘い込まれている、そして突然一手が降ってくる、その瞬間に状況が一変している事に気づく、つまり、劣勢などには一度もなっておらず、ただ単純に場が付いてきていないだけのことに過ぎない。

 

本局でもそういった状況のように思われた瞬間はあったが、あれは羽生マジックなどではない。

 

あれはただ只管に価値を模索するなかの一手であり、まさに拮抗する力の中での己の最善手をひねり出そうとした結果に過ぎないと思う。

 

このような状況というのは当然いままでもあったとは思うが、無冠に至るまでの流れも含め、朝日杯等の若手棋士との結果なども含めれば、今までの状況から何かズレがでていると感じても不思議ではないし、羽生さんほどの棋士であればこれは時代が変わってきていると何か気づくものであったと思う。

 

当然、羽生さんが仰られた「自分が強くなるしかない」という言葉が全てではあるが、ただ、それにしても若手の台頭はなかなかどうして勢いがある。

 

それは「前竜王」と名乗り、取り返すと安易に宣言ものではなく、むしろ「もう一度挑戦者として戦う」とリセットすることが必要なほどのものであったのではないかと思う。

 

もしかすると、そう思わせる次世代の台頭があったことは棋士として考えれば喜ばしい事であるかもしれないし、もしかすると時代が一つ終わってしまう事になるのかもしれない。

 

今はまだわからないが、ただ、この「前竜王」と名乗らないというのは、ただ「人柄」のような単純なものではないのではないかと私は思うし、むしろそうであってほしいと(勝手な)願望を持っている。

 

私はその結果をもしかなうのであれば、名人戦で出してもらえると嬉しいと個人的には考えている。

 

分かる人にはわかるだろうな、とは思うが。

 

もっとも、まだ挑戦権は決まっていないが、望むのはここから三局を全勝、つまり順位戦最終局で広瀬竜王を破り、順位戦1位で佐藤名人に再挑戦し、100期を獲得する、そういった物語があってもよいのではないかと思う。

 

それが「前竜王」ではなく「羽生九段」とした理由ではないかと勝手に思っている。

そもそも天然以前に番組に価値がないと思うのだが・・・

 

南青山児相問題で痛恨のミス “天然モンスター”松嶋尚美はなぜやってしまったのか | 文春オンライン

何が言いたいのかわからん。少なくとも休みの日に見たワイドショーなんかに出てるコメンテーターはほぼ全員適用な発言だったし、番組の説明も適当だったし、偶々あれが視聴者に好まれなかっただけで皆適当な対応だが

 

基本私は地上派を見ないので、唯一見るのは食事時妻がテレビを見ている物を一緒に見る程度か、仕事が休みの平日に昼食後にだらだらしている時に着いているテレビを横目で見る程度でしかない。

 

その程度なので正しい評価とは言えない(もしかすると私が見ている時だけが異常にオレベルが低く、おかしいのかもしれない)が、ただ、少なくとも見た限りのワイドショーやニュース番組は大抵コメンテーターや識者、番組が準備したフリップや整理した内容も含め、かなり雑で、ただのグダグダな雑談をしている程度のものだった。

 

彼女の発言は確かに問題があるようにも思えるが、逆に言えば、そもそも彼女以外のコメントはそんなに価値のある議論がなされていたのか甚だ疑問ではある。

 

例えば、意見としては「賛成」するものも、「反対」するものも、これはどちらも間違いではない。

勘違いしてはいけない、意見としては「どちらも正しい」のだ。

 

ただ、何れにもそれぞれ理由があるわけだが、「反対」する意見というものは、その根幹部分が個人の価値観に偏り過ぎているという問題がある程度で、それ以上でもそれ以下でもない。

 

また、「認識違い」というものも影響しているのかもしれないが、仮にそうであればその問題点を明らかにする事や、なぜそういった意見となっているのか等もっと深掘りしなければただ、問題の対立を深くするだけであって、そんな番組に価値などないし、その状況を作りだしている出演者、ましてや識者などというものは看板をさげるべきだろう。

 

結局のところ、その番組やその出演者に限らず、社会的な意義や価値観を元にした番組や放送などほとんどなされていない。

 

おそらくは「どちらの意見の方が、視聴者受けがいいか」程度のものでしかなく、その解釈在りきで番組を作っているに過ぎないので双方の意見の隔たりについての公平な議論も、その根幹の部分についても整理せず、ただただ「問題だー」「けしからん」のような安っぽいコメントが飛び交うだけの番組となる。

 

もっとも、番組制作側からすれば、平日昼間の放送でもっと踏み込んだ内容を放送したところで誰もみねーよ、という意見もあるのかもしれないが、だとすれば平日昼間の視聴者は「内容も本質も理解できない程度の存在」としているわけで、よくそんな番組を見ていられるな・・・とは思う。

 

冷静にふり返っても、自分でその話題についてネットで10分前後情報を探った方が、余程問題について具体的な情報は得られるし、紙面毎の取り上げ方の違いや、媒体や発信主体者(団体、個人、企業等)による意見の違い、論点のずれなども見え、理解や問題の本質が見えてくる。

 

そういった事が「できない」人をターゲットにしているわけであって、おおよそ私のような人間はターゲットでないであろう事は理解できるものの、これって情報商材ビジネスとなんも変わらんよな・・・と思わずにはいられない。

 

無知な人間や、思考停止してしまっている人間をカモにしているわけで、実態はなんらかわらない。

 

確かに、問題を絞って伝えないと理解できない人はいるだろうという意見もわかるが、だとしても番組の作りは雑だと思うし、雑な論点を理解させたところで、結局のところ問題の本質は理解されないわけで、そこから生みだされる世論というものは結局歪んでいるわけで。

 

テレビの報道というものはどんどん価値がなくなっているわけだが、それでも見る人はまだまだ多く、人を誘導してしまう力は侮れないわけで、もう少しプライドを持って報道という仕事に就いて欲しいとは思う。

 

そう考えれば、そもそも出演者に「天然」という人を持ってくるべきだったのか、とか、その時に出演者は適切だったのか、という点から議論・反省できるのではないかと思う。

 

そもそも芸能人がいきなり社会的な問題の本質を理解して語れるほど、世の中は単純でもないし、そんな単純な話しだったらもっと政治も社会も良くなっているわけで。