何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

恐るべきは時間の使い方

王位戦第一局。

なかなか凄い結果でしたね。

 

雰囲気的には棋聖戦の渡辺三冠の得意戦型にあえて挑んだ藤井七段のように、何れあたることになる角代わりを受けるという木村王位らしい開戦となりました。

 

結果だけ見ると実際には一方的な結果に思えますが、その中で私が素人なりに驚いたのは藤井七段の時間の使い方でした。

 

今回初めての2日制でもあり、時間の使い方はなかなか難しいと私は考えていました。

時間が沢山あるという事は利点ですが、言い換えればその時間をどう使うのか、1日目と2日目でどの程度の配分とするのか、それは何処で投入すべきなのかという点も難しく、時間が長い=簡単というわけではありませんからね。

 

そんな中、圧巻だったのは53手目の時間の使い方でした。

局面として基本的には49手目の7五歩から51手目の7四歩がほぼノータイムで指している事から、その後53手目の7三歩成は既定路線でした。

この時点でまだ封じ手までは2時間30分ほどありましたから、ここで2時間も消費する意味はなく、もう少し手が進むのではないかとも考えてました。

 

というのも、この時点ではまだ後手に詰み筋はなく、その後の変化や後手の受け次第で全く流れは変わってしまいますから、その後の戦略を立てる意味でも、実際には7三歩成に対して木村王位が強く受けるのか、それとも一旦守りに入るのかという状況を見極める必要がありました。

 

しかし、藤井七段はこの53手目の7三歩成の一手に約1時間30分という時間を投じます。

この時点で封じ手を誰がするのかというのはほぼ木村王位の判断に委ねられます。

 

もっとも、封じ手自体には優劣はなく、どちらが封じ手をするとしても影響はないのですが、但し、その局面は大きく影響します。

 

この日、53手目の7三歩成に対して木村王位が打てる手は実質2択でした。

1つは封じ手ともなった2九角成とし、藤井七段の飛車を取り、その上で相手陣に拠点を築く手です。

もう1つは7三歩成を直接受ける為に金または何かしらの駒を動かすという手です。

ただ、実際には52手目の木村王位の9二角という手から、封じ手となった2九角成の筋が有力で、仮にそれを指さなかった場合も流れは藤井七段の攻めにおされる事は明らかでした。

(仮に逃げれば角が死んだ上に攻め手を引き続き相手に渡すわけで厳しい状況)

 

ここで木村王位は封じ手をするか、それとも封じ手を相手に渡すか考える必要がありますが、局面的に仮に封じ手となった2九角成を先に指せば、どちらの戦略でその後戦う事となるのか確定させる事となり、可能性に過ぎなかったものが確定してしまうという状況になります。

その為、1時間程度であればその時点での藤井七段との消費時間の差(この時点で藤井七段は3時間57分を消化し、一方の木村王位は2時間31分)を考えれば、封じ手を自分がする方が良いと判断する事は理にかなっています。

 

が、余りにも局面が限定されすぎており、どちらを選んでも厳しい状況でした。

 

結局翌朝の封じ手に対する藤井七段の手は6二とで、これをほぼノータイムで打つわけですが、それもそのはずでこれは2九角成を指された時点で大凡だれであってもそうする手順ですから。

仮に木村王位が2九角成とせず別な手であればその時点で考えても良いですし、拠点となる7三とがとられてしまえば飛車を逃がせば良く、逆に7三とがとられなければ角を殺せば良い(それも、実際には飛、角、香の何れか二つが手に入る為、確実に駒得する流れ/もっとも取りに行くのは私みたいな素人でおそらくプロは殺すだけで放置)だけであって実質どの手順であっても藤井七段が優勢な状況はおそらく変わりませんでした。

 

つまり、この勝負、1日目の封じ手前の時点で大きく形勢は動いており、それを封じ手という不慣れな場をつかって確定させるという恐ろしい事をやってのけていたわけです。

 

木村王位が「封じ手のところでは苦しいうえに変化のしようがないので、一方的な感じになりました」と仰っているように、実際にはその前の時点49手目の7五歩を指された時点でその後の流れはハッキリしていたので、9二角という手による牽制自体が無意味であったように思えます。

 

これは木村王位の手がどうであったか、という話し以前にそこまでの流れとあの封じ手の局面をあのタイミング、時間差が明らかにあり手番を回す意味がないという状況までも作り出した時間の使い方の妙が全てであったように思えますし、この雰囲気でいえば、2日制というのは藤井七段の強さをより強くするもののようにも感じます。

 

もっとも、1日制である棋聖戦で渡辺三冠相手に2連勝している時点で2日制の時間の使い方に注目は集まらないかもしれませんが、この時間の使い方というのはもっと賞賛されてもよいのではないかと感じました。

 

以前時間の使い方が課題としえて挙げていた藤井七段ですが、この状況を見る限り明らかに時間の使い方という点で勉強されているという事がわかります。

 

しかし、羽生九段を超える天才が自分が存命の間にそう易々とでててこないだろうと思っていると、渡辺三冠、広瀬八段が存在感を示し、そうしていると豊島竜王・名人が天才の評に恥じない結果で力を見せる時代が来たかと思えば、もう次の世代として永瀬二冠がそこに並びつつあるわけですが、そうこうしているうちに藤井七段というさらに次の世代が台頭してくるという恐ろしい状況です。

 

また、西山三段/女流三冠の存在も大きい事は言うまでも無く、なんというか、非常に面白い時代に自分は生きているなぁ、という事を実感しており、願わくば自分が存命の間に女性プロ棋士と男性プロ棋士の7番勝負というものを見てみたいなと思わずにはいられませんね。

 

そういえば、プロ棋士になった場合、女流棋戦はどうするのだろうか・・・。

藤井七段の状況を見てもかなり対局数が多く非常に厳しいわけですが、これにさらに女流棋戦を含めるとなると現実的なのだろうか・・・。

(なお、既に規定は改定され両方に属する事は可能になっています)

 

新型コロナウイルスで止まっていた時が一気に動き始めているわけですが、将棋、野球、サッカー、F1と私が視聴するものはどんどん話題を提供してくれており嬉しい限りです。

 

こういった日常が送れる、少なくとも警戒や制限はありながらも送れるという事に、やはり感謝せずにはおられませんね。

 

自粛要請を緊急事態宣言再宣言時にのみ考える方がよほど問題

 

「緊急事態宣言は誰もやりたくない」西村大臣|TBS NEWS

なぜこの発言が叩かれるのかさっぱりわからん。当然の事では?むしろ緊急事態宣言を何のためらいもなく連発される事態の方が異常。結果としてやるべき事と、それを率先してやるべきなのか否かは別次元の話が当たり前

 

恐らく中身も確認せずに批判する人の心理としては、最近の諸々を混ぜ込んで批判しているのでしょうが、言っている事は当たり前の事。

 

また、基本的に一度解除した宣言を再度行うという事は、疲弊した経済と精神に大きな影響を与える事は確実で、恐らく1度目の宣言より効果は低い上に、悪影響は大きく出る事は素人でもわかる事で、その意味でも再宣言には慎重さが求められる。

 

特に政府の視点で言えば、東京都の事だけを見るわけではなく、あくまでも全国の状況を踏まえての判断が必要なわけで、確かに東京以外でも幾つかの地域で悪化しているところもあるが、それはまだ一部地域に過ぎず、それをもって政府として動くというのは余りにも地方自治を蔑ろにし過ぎ。

 

で、これ本来の問題は、政府が緊急事態宣言を改めてしないと、東京都として自粛派しないよ?という事の方がよほど問題であって、少なくとも都民においてはそちらを問題とすべき。

 

私的には夜の街界隈だけが問題だとは思っておらず、結局のところ、都民がアホというだけの事であって、そのアホに合わせた生活様式や対策を考えなければならない。

 

職場クラスターがまだまだそれほど大きな問題とまではなっていないのは幸いだが、今後は点がつながる事で恐らくはそれが顕著に影響を及ぼしてくることは明らかで、折角前向きになり始めた経済も人間の心理にもおおきな影響を及ぼす事は明らかなわけで、だからこそ、本来は自治体として緊急事態宣言が出される前に、心理的悪影響を及ぼす前に、先手先手で小さな対策から積み上げる必要がある。

 

既に私たちは一度緊急事態宣言と大幅な自粛という期間を経ているわけで、ここでこれが正しく乗り切れないと、このウイルスが世界から亡くならない限り、永遠に緊急事態宣言下で生活する事になりかねない。

 

だからこそ、小さな対策、小さな変化を積み上げて、大きな対策を講じることなく、一歩ずつ前に進むしかない。

 

それがリーダーシップであり戦略であり、結果を伴う決断とその責任であるはずなのだが、前回同様に基本的に東京都は全責任と権限をぶん投げているわけで。

 

通常、他の国でもメガシティ(死語)の首長は比較的独自性を持った対策を講じ、その上で政府と対立する事も少なくないのだが、わが国ではそれがない。

 

批判すべき、嘆くべきはその事であって、緊急事態宣言の再宣言なんてだれもやりたくないという当然の話を批判している場合ではないのだが。

 

 

実際はその前時点で形勢は動いていた

 

31銀の何がすごいのか頑張って説明してみる話

何を説明しているのかちょっとわからなかったのだけど将棋の概要としてとしては概ねあってる。ただ、この説明から3一銀について戦略的な意味は伝わらないのではないかと思うしあれはその前の桂得からの流れだからね

 

棋聖戦第2局。 - 渡辺明ブログ

正しい評価かと。個人的には1手違うだけで8七歩はなかったかもしれなくてそれが勝敗を分けた一つの要因かな。例えば9六歩が突かれているだけでもその後の流れ的にあの時点で歩を打たれる事はなかったかもしれない。

  

藤井聡太七段(17歳)最強将棋ソフトが6億手以上読んでようやく最善と判断する異次元の手を23分で指す(松本博文) - 個人 - Yahoo!ニュース

正しく評価するならば、別にアレが別な手であってもあの直前の4筋の攻防で飛車が回った後の角の道を防げた時点であの将棋の大局は決していたかと。ただ、その中で一番効率が良かったのが3一銀だったというのが真実。

 

自分理解として、そもそもあの勝負ではコメントにも書いたようにその前時点の4筋の攻防への布石である程度の仕込みは終わっていたと思う。

 

渡辺棋聖の得意戦型でもある櫓からの攻めに対して数的に負けない配置をとり、4筋の攻防で結果として桂得でやり取りを終えています。

 

この時点で本来は先手が手番を持っているので次の攻めに行かないといけない(そもそもあのまま4筋の攻防に入る時点で桂損は確定していた)わけだけど、その後の手としては良い攻め手がなかったわけです。

唯一攻防を兼ねての角道についても話題となっている3一銀によって完璧に封じられてしまっていたのですが、その前に桂得しているので、先手の薄い守り側からの攻めの可能性がその時点で出ていました。

具体的には 8七歩を垂らされる際、あの後の流れは仮に同金ならば9六歩を突くしかなったわけで、その為に渡辺棋聖は先に9六歩を同金の前に突いたわけです。

この手順は本来先に9六歩が突かれていれば発生しないのですが、実践では渡辺棋聖が先手であり、得意戦型からの攻めを先に繰り出していた場面で本来はその部分の受けを考える必要がなかった(仮に考えるとしてもその時には相手陣に拠点ができており速度的に負けない/角が成り入る等)はずだったわけですが、3一銀によりその状況は一変したわけです。

 

これだけであれば渡辺棋聖の仰るように形勢としてはそれほど劣勢ではなかったわけですが、事前の4筋の攻防で桂損した事から相手は桂馬を絡めた攻めが有効となっている状況でした。そこに本来比較的守りの手として突き上げる9六歩がつかれていない事から、8七歩、同金、9五桂の流れがでてきます。

 

この流れは完全に攻防が入れ替わる手順で、実際には1四角のような攻めも想定される中で言えば完全に読み漏れ(漏れというと失礼な気もしますが、おそらくその手筋がそれほど怖いものになるとは考えていなかった為、限りある時間の中での優先順位が低かった)だったのではないかと思います。

実践では9六歩を想定して、そもそも7五桂と打った事からわかるように完全にその局面を読み切った上での手順であったことがわかります。

 

つまりあの3一銀はからの流れは、その前の桂得をした時点で藤井七段の構想はおそらく固まっており、その構想がある為、あの時点で完全な受けを行う事が優先されたわけです。

 

もしあの時点で桂得していなかったり、又は9六歩が突かれており守りの形が違ったとするとあの時点で攻め駒を減らす選択は出来ず、3一銀という選択肢はなかったと思われます。

 

残り時間を見てもその事がよくわかります。

8七歩を垂らした時点で残り時間は24分。

そこから間に渡辺棋聖の手番を挟みますが、次の手は約6分、その次はほぼノータイムで指し、次の7五桂打は約3分程で指すこととなります。

このスピードから桂得した時点からこの構想が確定しており、後は寄せる流れの中で駒得すれば寄せきれるという事がわかります。

 

いや、当然3一銀は凄いのですが、その候補手をひねり出し選択するにあたり、桂得した時点/9六歩が突かれていない事を含めそこから終盤までの流れを完全に構築し上げたという事そのものが凄い事で、その構想というかその読みの深さが、結果的に守備的な一手と思わせたあの3一銀を『攻め駒として使う事を恐れる必要がない』という着想にまで到達させたのだと思います。

というか、読み切れていないと迂闊に守りに手駒の金銀を投入するという事は難しく、ぱっと見素人目には形勢は五分に見えていましたから、普通であれば手駒をあえて投入するという選択肢はなかったと思います。それを投入する事が問題ないという事を読んだという事、読む為に必要な情報を漏らさず把握し、活用できたこと、これは本当に恐ろしい事です。

 

勝負感というとあっさりしているのですが、駒得した、確かに攻め駒として優秀な桂馬を手にしたという事は大きいとしてもそこからあの流れを導き出し、きっちり攻めきるという読みの深さは本当に恐ろしく『もう勝負感というか何か守護霊がつぶやいてない?』ぐらいのレベルに思えます。

 

というわけで、想像を超える1手が出た!というよりも、その前の櫓から起きる事が想定された4筋の攻防を確実に制し、駒得という状況を作った上で、そのままその駒得を生かした戦略をくみ上げ、相手が渡辺棋聖(三冠)という誰から見ても明らかに現役最強クラスの棋士を相手にミスをする事なく寄り切る。

 

本当にこれは地力がきっちりついている事の表れだと思います。

 

それが素人である私が見ても「これは凄い・・・」と思えるわけですから、おそらく棋士の先生方からすると私のような素人以上に「ひえー/ひょえー」とつい言ってしまう程の驚きだと思います。 

確かにそうではあるが

 

長男が不登校の時に担任教師が「あなたには学校に来る義務がある」と言ったら「大人の義務であり僕の義務ではない」と言い切った話 - Togetter

これ子供が賢かったから救われている話しになっているのだけど長男も三男も不登校になったのであれば三男の時にはそうならない若しくは子供にあった教育という選択はなかったのだろうか。美談として消化してよいの?

 

三男の発言自体はその通りではあるし、非常に賢いというか冷静な子供であると感心はするのだけど、三男の立場と親の立場ではその言葉の受け止め方は違うべきではないかと。

 

当然、三男がそこまで冷静な判断をできているというのはご両親がそういった環境を作っているという事が背景にあるのだと思うし、長男の経緯やその彼の今の現状を考えても不登校自体がそれ程人生に影響を及ぼさないのでは?と考えたのであろうとは思う。

 

ただ、それって結果論でしかないし、長男と三男で同じ道を辿れるわけでもなく、極論言えば、同じ環境に全く同じように置いたとしても、長男と三男が同じ結論に到るとは限らないわけです。

 

なので、親の立場としては、この発言を子供がした事に親として子供の成長を誇らしく思う一方で、その子供に対して今の現状とこれからについて親としてどうするべきかという点により重きが置かれるべきで、個人的には長男も三男も不登校になったのであれば、もっと三男に対して違うアプローチというか違う環境を準備するという事も可能だったのではないかと思わなくもない。

 

もっとも、そうしたとしても結局不登校にはなる可能性は否定できないし、少なくとも不登校を選択するのは極論本人なので、親にできる事はせいぜい選択肢を提示する事と、その選択肢に対して冷静に判断するだけの教育をそこまでの間に行う程度でしかないわけで、できる事は限られているのは事実ですが。

 

なんというか、同じ兄弟や同じ学年同じ境遇でも結果が同じになるわけではない、という点には注意して欲しくて、私の父が教育者であったときに、同じ言葉、同じ態度を示したとしても受け手によって結果は180度変わってしまうという事は常に言っていたわけで、おそらくそれは教師という立場よりも親の立場の方が重たいのだろうと思う。

 

教育者からすればどんなに親身になって向き合ったとしても精々3年〜6年前後、卒業後の付き合いを入れても10年程度しか積極的に関わる事はないわけで、それに対して親というのはある意味ほぼ全ての期間の全ての事に責任を持たなければならないという、ある意味「呪い」を負っている。

 

「呪い」等というと子育て中の方は「ふざけるな」と思うかもしれないが、結局親にできる事は「提供」や「整備」でしかないので、何ら決定権も選択権もない状況で責任を負うというのは私は「呪い」だと思う。

 

その「呪い」を負ったとしても、それを上回るモノを得る事が「子育て」なんだろうと思うし、逆を言えば、それだけの熱量を結果として投じなければならないのが「子育て」なのだと思う。

 

それから、1点だけ教育者の立場(いや、私は教育者ではないのだが)を擁護しておくとすると、私の父もそうであったが不登校に限らず子供がイレギュラーな環境に置かれた後、それが功を奏して結果として良い境遇にいたるケースは本当に少ない。というか、昔は少なかった。

時代が変わったので昔とは違い世の中も寛容にもなっているし、極論言えばそれを受け入れられる、支援する事ができる親が増えているのも事実だが、イレギュラーな環境に置かれた子供が結果的に不幸になっている事を知っている教育者からすると、不登校であったり子供同士の対立や親との不仲とかいろいろなモノに対してどうにかしなければならないという重い責任を負わされているという点も理解して欲しい。

 

当然本件の発言についてはあまり関係がないかもしれないが、その発言の背景にはもしかすると色々な思いや経験がある事もあるわけで、自身の子供の境遇一つで相手を「ダメ教師」と断ずるのは一度冷静になって貰いたい所はある。

 

教師も1人1人に向き合いたいと多くの場合では思っているし、且つ、自分の経験を生かしてうまく対応したいと思っているが、親からすれば唯一(クラスや学年の中であればという意味)である事に対して、教師からすればそのうちの1人となってしまう上、昨今の教師は正直ブラックな環境でもあるわけで、親と比較して到らない点がある事は多少は理解してあげて欲しい。

 

免罪符にさせろ、という話しでは無く、そういった境遇であるからこそ、そこでは教育者と親という両者が二人三脚で子供と向き合うという態勢にならないと、現実的に教師は他を捨てて全てを投じるというのは難しいという事情もあるわけで。

 

直会社で大人の面倒を見るのですら5人前後になると結構大変なわけで、それが1クラス25人〜40人という規模で、且つ、相手は子供となれば社会人の管理職以上に負担や苦労はあるという点は理解して欲しい。 

話しを複雑にする周囲が問題かと

 

批判の文化が日本を技術後進国にしているかもしれないという話 - メソッド屋のブログ

逆だろ。技術者としてで言えば単純に間違いは間違いで受け入れるそれだけ。人格攻撃がされたなら別だが、単純にテスト漏れや実装漏れがあったことが指摘された程度で「批判は慎め」とか言われるのはおそらく日本だけ

接触確認アプリの不具合という問題の所在は、OSSコミュニティではなくリリースプロセスの不備にあるのでは|Hal Seki|note

だからこそ不具合があり指摘されたら「おっと、すまん、修正するわ、指摘ありがとう」で終わる話。それを周囲が「社会的意義」とか「OSS活動云々」とか全く関係の無いワードで混乱させただけだと私は思うが。真逆かと

 

僕は先の記事でも述べたが、これは全く逆だと思う。

今回の件は、指摘された不具合が実際にあり、それ自体は事実であったわけで、技術的視点で言えば「指摘ありがとう。直しておくね」程度で終わる話。

 

確かに高木氏の指摘の方法が正しいのかという評価は人に寄ることは私も認めるが、それ自体は事の本質だとは思わない。

 

一番の問題は、ただ単純な不具合の指摘が、アプリの社会的意義であったり、活動の価値であったりと、本来のコードの品質や技術的視点とは全く関係のない話しにそれ、それ自体が本質であるかのようになった事だと私は思う。

 

なぜ、たかが指摘が活動の批判と捉えられたのか私にはわからないし、逆に、今日本の技術界隈が単純な不具合に対して公に指摘する事が問題であると断定するのであれば、もう日本の技術界隈は終わりだろう。

「このアプリは意義があるから、文句を言わずに使うべき」等と、どの国でそんな議論がまかり通っているだろうか。

 

前提として人は間違うし、コードのミス、実装の問題、設計の矛盾などいくらでも問題はでてくるわけで、それはOSSだからではない。

だからこそ間違いを認める事を容易とするべきで、間違いが起きてしてきされたら「ありがとう」で済ます事のできる環境が技術者には必要。それこそが技術者が常に新しい事にどんどんチャレンジできる環境で、批判はあるべきではないというのは私は全く本質を得てはいないと思う。

 

技術者は「間違いが内包されている前提」で、テストを行ったり、そもそも設計段階からどのような方法によりそういった内包された不具合を限りなくゼロにできるのかという事を常に目指している。

 

それは手法という技術的な面もあれば、レビューのような比較的薄い情報も含まれ、極論いえばエクスペリエンスという事ですら不具合という一つの事象の手がかりにすらなり得る。

 

そういった様々な情報を受け止める必要はないとすれば、もう技術が高まる事はないだろう。

 

別に暴言や批判を一方的に受け入れろ、といっているのではない。

事実は事実として受け入れる、これはコードと自分の考えのどちらが正しいのかという視点でみれば、単純な話しで基本的にはコードが正しい。

そこに事実として不具合があればそれは事実として受け入れ、単純にそれを改善するだけの事に過ぎない。

そしてその不具合からは点の問題なのか、線なのか面なのかという様々な情報が得られるわけで、それを生かす事が技術革新だと私は思う。

 

その循環を否定すれば、有るべき姿、到達すべき所、より良い形、それらを否定する事と同義だと私は思う。

 

技術の話しに政治的な議論や社会意義などを持ち込むべきではない。

ただ単純に、コードや仕様は正しかったのかどうか。

間違っていたのであれば修正する。

ただそれだけで良い。

 

当然その裏には人間的な感情や活動に対する思いもあるとは思う。

が、それとコード、仕様、アプリの正しさは関係ない。

 

この話はOSSであったかどうかではなく、単純に技術的議論がいつの間にか政治的な議論や社会意義のような議論で混乱させられた結果、謎の到達点に到った非常に良くない事例だと私は思う。

志が高ければ問題ないというのは日本の悪しき風習

 

デプロイ王子 Kazumi Hirose @ COVID19Radar on Twitter: "納期の事もあって、バタバタと、やむなくOSSとしてボランティアだったのだけど、ボランティアすら殴られるのか・・・何もできなくなる"

問題点を事実に基づいて具体的に指摘されたら暴言吐かれたと思うなら技術者はやめた方がいい。基本的にコードで語れ事実を受け入れろというのは原則で、そこに自分の不手際があったらまずは事実を受け入れる事が大事

 

これはちょまど氏のコメントも含め私は日本の昔からの精神論を中心とする悪しき風習であって、兎に角日本の技術者はこういった悪しき風習を辞めるべき。

 

具体的には「OSSだから」とか「無償だったから」とか「納期に無理があったから」というのであれば、最初から受けるべきではないし、一定の品質が担保できない仕事を受けて、後から「いや、実はさ、こういった事があったからね、仕方ないのよ」というのは理由にもならない。

 

私たちが書くコードは大抵のものは多くの方に使われる前提であり、そしてその挙動を使う側は中身を信じて使うしかない。

 

つまり、そこには信用や信頼という一つの暗黙の了解があるわけで、我々が世の中に何かを出すときは、それがOSSであろうがなかろうが、もっと言えば営利目的であろうが非営利目的であろうが、そういった事は関係なく、利用者の利益に沿うもので、その利益には信頼や信用を裏切らないという一定の品質が担保される必要がある。

 

そして、その品質が担保できない条件であれば、それは技術者として明確に断るべきだし、仮に断れないのであればどのような条件でなければならないかを明らかにし、その条件でのみ行うべきであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

この議論はOSSや無償云々は関係ない、プロダクトやサービスを使う人間に届けるという事に自分がどのようにかかわるのかという責任の問題であって、その自己のプライドをどの程度の位置に置くのかという事に過ぎない。

 

日本でブラック企業がIT界隈に多い原因の一つもこれで、やるべきでない仕事、品質が担保できない仕事を明確に断るという決断ができないエンジニアが多すぎる。

 

私はいくら儲かるプロジェクトであっても、自分が必要とする最低限の品質や機能の提供が担保できないのであれば絶対にやらないし、自分が参画しない場合であっても、会社としてそのようなプロジェクトを進める場合には、直接利害関係者に対して苦言を呈し、やる場合のリスク、特に私はそのような事を進める組織を信用しないし、場合によってはこの組織との関係を清算するがそれでもいいなら進めればよい、という意思表示を行う。

 

海外で言えば、GoogleのエンジニアやAppleFacebookといった企業に属するエンジニアもこういった行動や発言は普通に行っており、私が特殊なのではなく、日本社会がどちらかというと組織や集団という価値、そしてそれを生み出す自分の行動や発言、無責任な権限の委譲や黙認といった行為に無自覚すぎるだけで、世界的にはごくごく普通の事に過ぎない。

 

当然、ただのいちエンジニアが会社にそのような発言をしたところで体制に影響などないと思うだろうが、それでよい。

それは自分がなぜ開発をするのか、このコードはなぜ書いているのかというプライドであって、それは誰の為でもない、単純に自己顕示欲であったり自己の利益に過ぎないわけだから。

その上で、そういった価値観を明確にし、そういった価値観を理解してくれる組織に実際に移ればいいし、そういった選択ができる自分になるように努める事が、成長であり価値の向上というものだと私は思う。

 

納期や工数、課題、様々な理由で求められる品質が担保できない、又は、期待される品質まで到達できない、行うべき工程が消化できない場合やそれが予想される状況であれば、それはエンジニアのプライドと責任において止めるべきで、それができないのであればむしろOSSに関わるべきではないと思う。

 

カン違いしないでほしいのだが、世界中のどこにもOSSだからこの程度でいいよね、などという考えでサービスやアプリを作るエンジニアはいない。

もしいるのであればそれは日本ぐらいだと思うが。

 

OSSである事と、品質を担保する責任がない事は関係ないし、品質を担保するのはそのコードを管理する関係者とそのコードを利用するすべての技術者の共同責任であって、リードエンジニアである人間が「これはOSSだから仕方がない」的な雰囲気で語るべきでも言い訳にする事も恥以外の何物でもない。

 

そしてそれを内輪の人間が「だよね、仕方ないよね」とか「社会的に意義のある事だから気にしなくていい」というような発言でごまかすのもよくないし、同じエンジニアだからこそ、その一点では「こうすべきだったね」とか「僕も協力するから改善しようか」とか、正しいリアクションができるべきで、どこかの政党のような「仕方ないよね」という仲間内だけの反省会をすることは本当にやめるべき。

 

これがやめられないと日本のエンジニアはいつまでたっても世界のエンジニアと同じレベルでは働けないよ。

 

<参考>

 

 

 

 

 

 

 

こういったコメントに対しては、志が高ければそれが全てというのは明らかな間違い。

志が高い事、正しい事を行った事は正しく評価されるべきで、それは私も同じ。

でも、それとは完全に切り離して、コードや設計、プロダクト/サービスに関わる問題は個別の議論として取り扱うべきで、混在させてはならない。

それができないのも日本の悪しき風習だと私は思う。

 

コードの問題は人格を否定するものではないし、同様に取り組みの正しさはコードの正しさを担保する事もない。

 

それが真実でありそれが全てだと私は思う。

 

 <追記2>

 

なお、過去にも発言しているように、私は常に「最初から満点を求めるな」という主義ではあるので、別に問題や課題が内包されていること自体には問題があるとは考えていない。

 

ただ、今回の件は未テストの事項がアプリ/サービスの比較的重要な部分であるととらえると、エンジニア的視点でいえば「なぜソコを放置できたのか」という疑問が沸き、その視点で見直すと「これは少なくともこのような性質のアプリが持つべき品質に達していない」という事は明らかに指摘にいたるとは思うので、高木氏の発言自体は何も間違っていない(言い方/受け取り方は個人の感性によるのであえて言及しませんが)と思う。

 

ではその上でどうすべきだったかといえば、単純に「おっと、確かに、これはまずいですね、コメントありがとう御座います」これだけでよい。

 

マサカリなんてものは「事実かどうか」と「受け入れるのか受け入れないのか」でしかなく、事実であれば「サンキュー」で終わる話。

 

なお、受け入れたくないのであれば「その修正は僕の主義じゃないよ」でもいいし、「OK、好きに修正していいよ?」なんていうリアクションも海外では普通にあるし、それがOSSの強みのはずで、意義とか社会性なんて誰も議論しないよ。

 

その話を精神論やOSS論、社会的意義等、何ら関係のない話題に持ち込むこと自体が私からするとエンジニアの議論でもないし、解決に至らないわけで、一番無意味で無責任な議論だと私は思う。

 

ゼロベースで作る必要はない

 

「AWSって最近すごいらしいね?あれいくらで作れる?1000万くらい?」と聞かれたことがあるけど実際の価格はどれくらい? - Togetter

1000万でも作れるどうかで言えば作れるだろ。そもそも初期の受け入れユーザー数と提供サービスマップによるわけで。なぜ最初から最大規模を目指す。内部的にはOSSのカスタマイズでAPI制限すればそれなりにはなるわけで

 

これは企画職につく人間であれば持つべきスキルなんだけど、最初から何かを作るときに全てを完璧に作る必要はまず無い。

で、利益をどの段階でどのように出すのかという点も大事で、極論アウトプットがどのレベルのものであるのかさえ調整できれば中身はなんでもいいわけで。

 

例えば、ファーストユーザーに提供すべきサービスが4つしかないとすれば、その4つのサービスにだけ特化して初期投資すればいい。

当然だが構築基盤だって物理サーバー上であっても良いし、安価なクラウド基盤のAPIをラップしたライブラリを準備し再販してもよい。

 

ここで重要になるのは「AWSを作る」という言葉が何を目的としているのかという定義を共有できるかという話しで、それがサービスとしての話しであればスモールスタートで対応できるし、逆にプロダクトとしてのクローンとして話されているのであればOSS ベースであってもそれなりの工数が必要となる。

 

究極の事を言えば、AWSをラップしたサービスを再販したとしてもそれは「AWS的なもの」であるわけで、その場合は基盤ビジネスとしては儲けられないというだけであって、別にサービス全体では儲けがでるのであればそれでよい。

 

この辺の思考の整理と議論を交わすことについて日本人は本当に下手だと思う。

 

「AはAであって、それ以外はありえないでしょ」的な固定概念にとらわれる必要はないし、完璧である必要もない、むしろ最小限である方がランニングコストも安く、当然人件費も抑えられるわけで。

 

私はよく「今○○ってサービスが広まりつつあるんだけど、あれいくらで作れる?」という恐ろしい相談を受けるわけだが、その時はだいたい下限から上限まで相当な開きのある基準を示す。

 

極論言えば、ただのクローン的なサービスが提供できれば良いだけであれば3ヶ月程度でリリース可能だし、UIも(自社の)既存サービスのデザインの焼き直し程度であれば良いのであればコストも抑えられる(同じデザイナー/コーダーの方に発注しますからね/それでも数十万は掛かりますが・・・)。

 

私が今提供しているサービスの一つなんか、最初は1枚の画面キャプチャと先行企業のサイト上の文言しかなったわけで、そこにビジネスモデルの整理、目指すべき到達点とそこへの道筋を立て、実現性や可能性を分析し企画化するか否かの判断も含めて行うのが企画屋というものです。

 

もっとも問われた人自体が「いや、ぼく、ただのプログラマーなんですが・・・」という話しであればそれは聞くべき相手を間違ったという事に過ぎないかと。

 

全てを理解して上で「1,000万円で」という人もどうかと思うが、それを含めて聞いているのであれば「1,000万円という制限であれば」という話しをするのが建設的な議論というものではないだろうかとは思うが。