何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

何でも燃やせばいいわけではないと思うよ?

 

炎上 女性エンジニアが少ないとやる気が出ない問題で波紋「懲戒解雇されてほしい、エンジニアやめろ」など批判 - Togetter

いやこれ記事読めばわかるけど、冒頭部分は完全にネタでしかなくて、本題は機械学習の活用方法についてエンジニアにわかりやすい身近な話題で活用するとこう言った事ができるよ、という一つの提案に過ぎないんだが。

2018/06/22 14:48

 

おぉ、今日のはてブの反映は早い。

はてなの中の人がんばった感じ?ありがとう?

 

さて、件の記事読んでみましたが、うーん、これは燃やす程のネタではないと思う。

 

確かに話題の入りとして男性エンジニアは女性エンジニアがいた方がやる気がでるよね?という話題を振りまいているが、これ自体は当日のテーマの全体をわかりやすくするための切っ掛け作りに過ぎない。

もっとも、それ自体が問題なんだ、という話しはあるが、それは単独の議論であって、特に技術系の人間は話しの全体像とそれぞれのポイントを整理して話し手の言わんとするところ、つまり要旨を理解できなければならない。

 

少なくとも、技術系の人間が、短絡的に「けしからん」というのは余りにも能力の低さを露呈させているので、せめて批判すべきポイントについてもう少し踏みこんでから批判すべき。でないとただの空気で批判しているだけだよ?

 

で、記事を読むと、結局のところ本題は機械学習を活用する事による身近な問題に対する活用提案というものでしかなく、ネタの選定はおおよそ男性が多かった大学生(院生)のもっともウケるネタである男女比問題を担ぎ出したというだけのこと。

 

だけの事でも問題はあるんだけど、これ、社会人になったばかりのルーキーをまさに社会から抹殺すべし的な対応をしている人を見ると、人間って、たかが数ヶ月で万全な状態に成長しなければ許されないほど、パーフェクトな事が求められるのかと、お前らよほどすげーパーフェクトな人間なんだなと思うし、仮に批判するなら、彼ではなく、彼のメンターや上司、レビュワーであるべきで、ルーキーである発表者を血祭りにする話しではない。

 

この話しで短絡的に血祭りにすべし!と動いた・発言した技術者や関連の人間はマジで反省しろ。

 

我々先輩がすべきことは、かれがこう言った事を起こさないようにどう指導するか、であったり、こう言った事が起きたときに、正しく、ただの個人を私刑にするような事では無く、こういった事が起きた背景(おそらく学生時代の延長である為&職場が実際問題としてそういった環境・雰囲気であるのであろう)を理解し、その上で、適切に助言、指導する事であって、若者が少し間違った程度で「社会的抹殺」をするような事ではない。

 

許されない失敗もあるし、治らない問題もある。

が、こういった問題は、少なくとも環境の変化、時代の変化で対応すべき方法が違うのだよ、学生時代とは違うし、特に人はだれかのものではないのだよ、という基本的な人権に関する話しをしっかりとしてあげればいいだけで、それでもダメならその時に退場いただくべき話しで、一発レッドカードを突きつけるような話しではない。

 

こういった事で、そういった背景や状況を冷静に見れないような先輩、同僚になってはならない。

 

むしろこの話しは、そういった短絡的な思考で感情的に動いてしまう人、そういった組織をあぶり出すよい試験であったようにも思える。

 

私は決して、女性エンジニアに対して男性エンジニアの活力になるための存在という話しを肯定しているわけではない。

 

私は、それは間違っているという事は前提として、その間違いが起きている本質的なポイントを理解し、それを正す事をすべきで、それを放棄してただ私刑を実行するような人間というのは、むしろ社会のクズだと思うんですよ。

 

今、僕らが常識と思っている事、それはその組織では当然であっても、他の組織では当然でない事もあるし、同様に学生の頃は当然であったことが社会人になれば当然でない事もある。我が家では当たり前の事が、お隣の家庭では非常識という事もある。

 

違いは何処にでもあるし、それが「違い」である事を気づくのは、実は凄く難しい。

少なくとも本人は切っ掛けがないと気づけないし、世の中の人間は大抵がそんなもので「私は完璧な人間であらゆる事の判断、選択に間違いはない」等という人は、あり得ないのですよ。国、地域、時代、確実に判断基準も社会的環境も変化しているので、だれであっても「完璧」なんて事はあり得ない。

 

少なくとも、彼の間違いは、彼の発表を事前に何も指摘していない組織の問題であって、かれ個人が私刑を受けるべき事でないない。

 

私刑行為を行った人間は本当に反省しろ。

理解を得られないだろうけども実際そうするしかなかったのかなとも思える

 

差別主義者はニコニコへ帰れ!! ネトウヨ帰還事業のお知らせ|木野寿紀|note

実際問題なぜ削除したのか?という疑問はあるのだけれど、一方でニコニコ動画の基本スタンスは「クソの掃きだめでも自由を選ぶ」というのがあって、その上で限りなく自由を許容する表明をしてるだけではあるんだよね

 

確かに、なぜあの条項を消したのか?というのは疑問で、消すべき理由はそれほどなかったんだけど、ただ、当時から右左の激戦区ではあった。

当時はまだまだニコニコ動画というの陰りはあれど勢いはそれなりにあったので、その後の方向性を真剣に議論した結果なのだろうな、と。

 

社会的な意義、という話しで言えば「消すなよ」で終わりなんですが、一方で、事業継続であったり、事業のコア・コンピタンスであったりを考えると、一択であったのだろうと思わなくもない。

 

先日の決算でも触れているが、ニコニコ動画は良い意味でも悪い意味でも「自由」について重きを置いている。例えば、ある物事を肯定する自由もあるし、同時に、ある物事を否定する自由もあると。

 

今の世の中では、ある物事について一つの物差しで測ることが多い中では、ある意味特別なもので、まさにそれがコア・コンピタンスであると認識したのだとは思う。

考えてみれば、そもそもニコニコ動画の歴史というのは、グレートとの共存であったわけで、それ自体が自由と同時に存在するグレー、それも限りなく黒いグレーを如何に白と見做すか、という事との戦いであったと思う。

 

企業としてそんな選択をしてよいのか?という人もいるだろうが、そもそもどのようなご立派な企業であっても、こういった点での駆け引きは行っている。それが、動画配信のような単純に目に見えやすいというだけであって、おおよそ世の中のご立派な上場企業の全てが、何らかの矛盾であったり事業上の選択として社会的に見れば不適切ではないのか?という選択をしている事は少なくない。

 

それらの結果はいわゆる「強さ」であったり「個性」であったりに繋がるので、この選択を否定してしまうというのは起業家としてはあり得ないのはわかる。

 

で、本質的な問題は、実は日本社会の構造ではある。

確かに、規約で縛れば良い、というのは素人目には正しいと思われガチだが、その手の方法では結局いたちごっこを続けるだけで、別に投稿する側がいなくなるわけではない。

「見えなくする」という事は大事ではあるが、それ自体にはなんら社会的構造を改善しているような効果はないので、日本にあるいわゆる特定属性を明確に否定するようなものはなくならない。

 

企業が社会の一員として社会的な指針に従うべきである、というのは正しいものの、同時に企業が合理的に利用者を制限するというのは、反差別の観点でも法的な整理が行われなければならない。

その一つとして「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立したわけですが、中身を見るとかなり玉虫色ではある。

その上、そもそもこの法案事態の成立についても結構微妙な意見が多く、所謂表現の自由との兼ね合いはどうなるのか?国が個人の意見・活動について一方的に判断しそれを取り締まる事を正しいものとして良いのか?という問題も逆に起きている始末。

 

というもの、そもそも「差別」を取り締まるとなると「差別」の定義の議論に至る。

 

で、これが難しい。

 

「多くの人が不快と感じればそれは差別だ」などと、笊な定義にしてしまえば、恐らくは多くのデモは何らかの差別として取り締まられる事になる。つまり、少数意見が黙殺されてしまう社会、絶対多数が正義となる社会になる闇が見えてきているわけで、実はこれは左派も「やばい法律に繋がりかねない」と普通に理解している。

 

なので「規制」とは「自由の制限」との常に線引きが求められるわけで、それを一般人にわかりやすくしているのがニコニコ動画の方針であるのだろうとは思う。

 

 

と、介錯しているわけですが、まぁ、それでも削除についてはもう少し丁寧に対応するべきではあったと思うし、その選択が事業の生き残り、つまり自らが理解するコア・コンピタンスであると主張しているわけなので、もう少しわかりやすく、そして企業も社会の一員であるという部分についてもぎりぎりまでケアするような攻めの姿を見せてもいいのかなとは思う。

 

ただまぁ、今のままだとあと5年もするとニコニコ動画自体が差別主義よりも前に消えてしまいそうな雰囲気はあるのですが・・・。

正直言えば、期待よりも不安の方が大きい

 

HONDA POWER FROM 2019 | Red Bull Racing Formula One Team

きたか!不安の方が大きいのだけれども、それでもやっぱりワクワクしないかといえば嘘になる。今年1年をまずはきっちり結果を出しつつ、来年のPU開発においても結果を出せるように取り組んで欲しい。がんばれホンダ

 

きたか!という喜びと、茨の道ではないのか?という不安の両方が入り交じる発表の受け止め方で、どちらかというと不安の方が大きいと思う。

 

歴史とはおかしなもので、現在トップチームであるメルセデスといえば、旧・ホンダF1(B・A・R)が母体のチームであったわけで、そのメルセデスであったり、レッドブルと黄金時代を築いたセバスチャン・ベッテルが在籍するフェラーリと争う為に、ルノーからホンダエンジンへ切り替えるという決断。

 

ある意味、ここ最近のF1界隈はレッドブルやホンダを中心に動いていると言っても過言ではない(そんな事はないか・・・)のだが、それにしてもなんとも奇妙な事である。

 

実際問題、既に噂になっているように、新しいレギュレーションにると同時にポルシェが参入するという予測もあり、その場合、それを上回るパフォーマンスがだせなければ恐らくはスイッチされてしまうだろうとは思う。

もっとも、ポルシェがフルワークス参戦するというなら話しは別だが、流石にポルシェといえど、いきなりのフルワークス参戦はないとは思う。

ただ、フルワークス参戦の為に、レッドブルレーシングを買収するのではないかという話しもあり、その場合の契約条項の詰めの為に時間が掛かったとの見方もある(トロロッソをホンダが買収するという話)が、正直昔を知るファンとしてはそれは地獄の釜の蓋を開けてしまうのではないかという不安が大きい。

 

日本人ドライバーがF1に参戦して欲しいという願いはあるものの、今のF1で結果を出せるドライバーがいるか?と問われると、なかなか即答できるものでもない。

 

ただ、ホンダといえば「負けるもんか」で有名なわけで、今のホンダにはまさにその精神が必要なのだと思うし、その精神がレッドブルとの提携での一つのキーワードでもあったのかしれないとは思う。

 

まずは今年、トロロッソとの間できっちりと結果を出し、そして同時に、来年に向けてのエンジンを設計・開発してほしい。

 

レッドブルも来年から変更される予定の空力制限について真剣に考えているだろうし、そういった意味では、来年のPUに対して求めるものは、今年以上に重くなる事はいうまでもないだろう。

 

来年に期待するためにも、まずは今年、結果を出してくれるように応援しつつ、祈るしかないかな。

他人の嫌いを全て否定していく先は誰も何も感情を持てない世界だけ

 

「子供嫌いの言い分」のまとめ - Togetter

こういった問題と向き合うときに単純に「こういった意見を出すことが問題」と感じている人は、もう少し冷静に世の中と向き合わないとダメ。誰かの嫌いを否定するというのは彼らの感情と実際は同じで大差がないのよ。

 

自分の「嫌い」を表現するうえで、まぁ、人は少なくとも無意識的にであっても、大抵は「正当化できる理由」を付与したくなるもので、それは実はすごく人間的なことだと思う。

それを全否定してしまうというのは、もはや人間的であるべきではないという事で、それはつまり、子供が子供らしく過ごす事を否定しているのとさほど差はない。

 

当然、人は大人になるにつれ、感情で生きるのではなく、社会との折り合いであったり、仮に自身が嫌いなものであっても、それとどう向き合うかという事を学ぶわけで、考えている事を全て実行・発言に移すわけではない。

 

ただ、そういった反対側の人からみれば「自己中心的」と思われるような考え方であったり、発言であったりを全て否定していくと、誰かの嫌いは誰かの好きであるし、同様に、あなたの好きは誰かの嫌いであるかもしれないわけで、最後は、万人がすべて同様の考えを持たない限りはコミュニケーションが成立しない世の中になる。

 

興味深いのは、こういった考え方は、戦後から現代までの日本でいわゆるムラ社会であったり、昨今の若い人が嫌う長いものに巻かれろという個人の違いを否定する考え方なわけだけど、モノが変わると人はやはりその考え方が冷静ではいられなくなる。

 

子供が嫌いという人は普通に多い。

以前もコメントしたが、そもそも子育て世帯や、子供とかかわる世帯というのは、どんどん少なくなり、基本マイノリティであるわけです。

どんなに綺麗ごとを言っても、自分に直接的に関わらない事に熱心になれる人はそれほど多くなく、正直な意見を述べれば、私が考えるに「子供がうるさい事は当然」と考えている人の中にも実は直接的な何かが起きれば「子供が嫌い」に変わってしまう人もおそらくは大勢いるだろう。

 

結局、こういった意見は、その時、その状況で比較的変わりやすいし、極論言えば、上記の逆で、自分に子供ができた時や、甥っ子ができたときなど、何かの切欠で今まで苦手であったり、嫌いであったものが、そういった切欠で大丈夫になったり、さらには好きに変わることだって普通にある。

 

人と人が関わるときにまず考えないといけないのは、嫌いという事実から議論する事ではなくで、嫌いという事に至っている理由であったり、極論いうと、嫌いな人が嫌いなものと直接かかわらなくてもよい状況にできるのであれば、それはそれでその方がよいわけで、そういったまずは周辺の事情から整理した方が100倍ましだと思う。

 

例えば、登校拒否している生徒に、なぜ学校に行かないのか、という議論をするよりも、学校に行きたくないという事実があるなら、とりあえず学校には行かない方向でもよいけど、将来自分の選択肢がなくなると、それはそれで不幸だから、学校に行かないという事を前提として、そういった問題だけなにか解決できないかという普通に考える、そういった思考が大事だと思う。

 

昨今、マイノリティへの配慮や理解という事が叫ばれるが、結局こういった事もそういった話だと僕は思う。

 

子供を好きになれない。

そういった人は、ある意味社会では単純には受け入れられない。

理由は「子供は守るべきものだから」。

でも、私はそれを社会が秩序であったり、暗黙のルールとして理解させていくには、ただ「お前の事情なんかしるか!」と抑圧するだけではなく、うまくすみわけしたり、また、相手の事情もよくよく理解して共存することもちゃんと考えないとダメだと思う。

 

そこを考えず、ただ「お前の考え方がおかしい」とだけ言い放ってしまうのは、それこそ思考停止で、社会の発展もなく、終わった考え方だと思う。

 

多様性が叫ばれる世の中で、これからどんどん共通的な考え、普遍的な考えというのは変わっていく現代なわけですから、それを生きるわれわれはそういった環境にちゃんと向き合っていかないと、我々が「老害」と批判してきた先代が築いたソレと結局は同じような社会を作ってしまうと思うんですよ。

 

そう思いませんかね。

僕はそう思うけど。

 

 

翻訳時の改変ってのはかなりマズイ話しなんだけど

 

気味の悪い拡張子 「.JSON」という聞いたこともない拡張子 - Togetter

これってさ、翻訳者以外に日本人が関わってないんだけど、翻訳者である藤原朝子氏が勝手に翻訳時に記事を改編したってことなのかね?だとすると相当これまずい話しなんだけど。翻訳は意訳までは許容しても改変はNG

 

 

うーん。

 

内容がどうであるかより、これが誰によってなされたのか、という点が気になる。

 

文末には元記事執筆者の名前と翻訳者の名前しかない。

つまり、この記事は、表向きは内容の責任は元記事執筆者にあるとなるわけだけど、ここで問題になるのは、原文と訳文でかなり内容に差異があるという点。

 

私も仕事の中で専門の翻訳家の方にお願いする事があるので、意訳してもらう部分がでてくるというのは現実的には発生し、それは読む人によっては原文との差異として認識される。

 

ただ、一般的に、意訳というのは、単純に訳すとその言語では適切な表現とならず意味が伝わらない、または間違った意味として伝わってしまうので、その点を補うために意図的に訳文では原文と異なる表現を用いるという事で、原則原文の意味を改編することはない。

 

例えば、慣用句のようなものであると特に地域により表現が異なるので、単純に訳すと全く伝わらないので、そういったものは同様の日本の慣用句に置き換えて、必要に応じて注釈を入れるような形となる。

 

ただ、今回の記事は、内容を追うと、どう考えても意訳ではなく、原文に存在しない文章が追加されていたり、また、原文の意図とは違う話に改編されている。

 

翻訳記事の場合、原則は元記事の執筆者に権利があるので、改編はしない。

ただ、事情があり編集が必要な場合、元記事の著者とは別に、日本語版編集者としての記者名を追記、そして翻訳者も含め列挙するのが「普通」であると思う。

 

もっとも、記事の権利が同じ会社に帰属しており、執筆者を表記しないという無責任な会社もあるので「普通」が何処まで通じるのか、というのはアレだが。

 

翻訳者が本業として翻訳をしている場合、基本的には「勝手に」文章の改編は行わないし、行った場合、それは編集済み文章であり翻訳記事ではなくなるので、その点もよく理解していると思う。

 

少なくとも仕事として翻訳を行われている方であれば。

 

なので、この話しで一番問題なのは、この文末の表記通りであれば、この翻訳者の方はかなりまずい事をしているわけで、仕事を失いかねない話しなんですが・・・。

 

そもそも翻訳者というのは、翻訳行為には責任をもつわけですが、翻訳された内容に対する責任は負わない、というか、そういった契約になっているはずです。普通は。

その為、前述のような、原文と大きくかけ離れた記事へ改編してしまうと、それは翻訳ではなく、編集にあたるので翻訳とは異なり編集部分については責任を負う必要が生じます。

 

そういった契約上のアレやコレやもマズイと思うんですよね。

翻訳業務として仕事を請け負っていたのであれば、ですが。

 

なんとも言えませんが、ちょっと内容よりも、そっちの方が気になってしまう・・・。

 

何れにせよ、これ、翻訳記事としてはあらゆる意味で相当マズイと思うんだけど。

はてなブログは使えば使うほど書く気が失せる・・・

いや、普通さ、同一企業が同一アカウントで提供するサービスってのは、やはり連携とかそのあたりが素晴らしいって事にメリットがあると思うんですよ。

 

で、はてなブログってのは、正直基本機能はWordPress以下で、基本機能でかってるのは恐らくはMarkdownでのライティングが基本機能でははてなブログが上ってだけで、それ以外は正直ダメダメなんだよね。

 

ただ、それでも「はてな」というトータルのサービスで考えた時、総合力として勝っていればそれはそれで良いと僕は考えています。

 

が、結構これがイケてない。

 

一番致命的なのが、まえも書いたと思うんだけど、はてなブックマークでブクマした内容が、いつまでたってもはてなブログのリスト上にでてこない。

 

普通に考えて、はてなブログで記事書く人のそれなりの割合がはてブでブックマークしたものを対象にしていると思うんだけど、ビックリするぐらい遅い。

 

で、遅いと書く気が失せるし、そもそもはてブについて言及しないと決めた瞬間にはてなブログの価値は他のブログと比較しても圧倒的に劣る。

 

まぁ、信者向けのサービスとして細々とやっていくと決めているならいいけど、これ、本当に技術力のなさを露呈しているし、それ以前に、利用者のエクスペリエンスを損なう仕様で、メディアプラットフォームを外販する会社としては致命的なんだけどね。

 

このあたり、日本の大手のメディア会社は横のつながりで仲良しこよし営業しているから、本当に成長しない。

 

海外だと普通に横に圧倒的に性能に勝るライバルが現れてサクッと淘汰されるんだけど、日本だとそれが起きない。

 

で、この程度で切れてるのか、短気だなおい、といわれるようだが、それ以上に致命的なのが、OSXあたりで記事を書いていると、たまに発生する「公開/下書き保存」ボタンを押せなくなる問題。

 

もう致命的というか、基本的な機能すら動作が最近危ういんだけど・・・。

 

以前、というか今年の4月ぐらいまではこの不具合はなかったので、もしかするとchromeあたりのアップデートも影響しているかも、なんて考えて、一応いろいろ探るとそもそも昔からでている問題のようだ。

 

比較的新しいものだと以下の記事。

 

 

ちなみに、この記事を書いている時も同様の現象が発生。

で、その現象が起きているときは、わかっている限り他のボタン操作もおかしい。

上部のメニューを操作していると、なぜか右上のアカウント名のプルダウン時のメニューが出てきたりしていて、もはや「おいおい、なんかDOM操作まちがてるんじゃねーの?」としか思えない。

 

ちなみに上記の方が頂いた返信の内容では「長い文章」云々とありますが、私の場合、序盤の2行でその現象発生していますからね。

確かに2行とはいえ、1行が1万文字とかあれば別ですが、改行含めても71文字なんですけど・・・。

 

記事の保存、公開ができないとか、おまえ、それ、あまりにも基本機能の欠陥なんだけど、それ、放置すんのかよ・・・と、正直回答内容も不思議なんですが・・・。

 

データベースで、一貫性の保持できませーん、というならば、責めて失うメリット以上の何かを提供しないといけないわけですが、はてブの連携は中途半端だし、もうね、もうね、なんだろうか・・・。

 

少なくとも4月以降、1週間に数回は発生していて、その都度もう記事も保存せず放棄している始末。

いや、コピペして保存しとけよ、って話しではあるけど、最初はそうしてたけど、もう、そうやって記事を維持しないとかけないブログに記事を公開するというのは、正直だるい・・・。なので、そういう事が発生したときは、まぁ、それは神様とはてなが何かしらの理由で記事を書くなといっていると考えて、保存せずに破棄する方向にしました。

 

憤る以外にコメントがなにも出てこない。

 

おおよそこの手の話題には「じゃー別なブログつかえよ」という意見がでてくるわけですが、いや、ブックマーク→ブクマ内容についての記事を書く、って流れを手間かけずにやれるならいいけど、基本機能でそれできるのってあったっけ?WordPressプラグイン入れればってのはあるけど、いちいちその為にWordPress立てる/借りるのは面倒だし、chrome拡張作るって手もあるけど、メンテナンスが面倒だよね。

話しは別だけど、基本アカウントを絡むchromeの拡張ってのは入れる気はなくて、さらに言えば、第三者が作った拡張にアカウント認証が絡むデータを中継させるってのはかなり危険。まぁ、気合い入れてソース読むとかするなら別だが、その労力が圧倒的に惜しい。

一応試した代案としては、最近導入されているブックマークに対するURLがあるので、それを引用する事でブログシステムによっては引用時にコメントまで表示できるものはなくはない、が、それを記事を書く都度反復するのかと・・・。

 

僕は、ただ、はてなが提供する、はてなブログで、はてなが提供するはてなブックマークを使い書いたコメントを、はてなブログ上で引用して記事を書きたかっただけなんだよ。

 

で、結局、何年たっても改善されないものとにらみ合っても仕方ないので、書く側が気持ちを萎えさせるしかないという結論に至る。

 

いやー、ないわー。

 

ルール化とか、最大のリスクを回避する為にあるのですよ

 

A on Twitter: "満員電車の中でパウダー塗ったり、リップ塗ったりするのは他人に化粧品が付いちゃうかもしれないから控えるべきだと思うけど、椅子に座って周りに迷惑にならないレベルで化粧するのは全然よくない?なんで社内の化粧が痴漢や足広げる男性や、道に唾を吐くおじさんより批判されてるか理解できない"

そもそも「迷惑」ってのは受け手の感覚の問題なので、化粧という行為そのものを嫌悪する人もいれば、工程や過程に嫌悪感を抱く人もいるので「迷惑にならない」という定義でルール化するとトラブルにしかならないよ。

 

基本的にルールってのは最悪のケースを回避する為に作るのが基本なので、行為そのものへの禁止を明文化する事は希です。

 

で、こういったルールを検討する場合、考えるべきは「化粧」という行為がどうか、ではないのです。

 

では何を考えるべきかというと、そういった行為の先に何が起きるのか?という事で、一番運営側として困るのはお客様同士のトラブル・争いなんですね。

 

特に「価値観」により善悪を決めるような問題は、そもそも運営側としてもどちらが悪いという事を決める事が難しく、基本的には「そいったトラブルが起きない環境にする」というのが鉄則です。

 

で、大抵の場合「気にならない」という意見で解放するというのは悪手で、なぜなら「気になる」という人は、実際のところルールがあろうが、無かろうが気になるわけで、極論いえば、ルールが無くても、ただただ迷惑という意見をぶつけるわけです。

 

当然、ルールが無ければそんな意見はそもそも受け付ける必要はないのですが、鉄道やバスのような交通機関の場合は、無闇に停止、遅延させるわけにも行かないわけです。

 

その為、まずは「トラブルの原因となりうる問題を可能な限り排除するにはどうするか」という視点でものを考えなければなりません。

 

この考え方は、別に運営サイドだけで有効な事ではなく、所謂「正しいけどトラブルになる事」と対峙する時にも参考になります。

 

行っている事は正しい、が、その正しさだけで問題が解決しないというケースですね。

 

エスカレーターの歩行禁止もそれにあたるでしょう。

ただ「歩行は禁止」と啓蒙しても、危険を感じないという人は結局あるくわけです。

いろいろな視点で歩行はすべきではないのですが、歩く人からすると歩くべき理由があるわけで、そこを議論しても表向き「そうですね、すみません」という形だけの対応をされるだけで、その人も含め世の中からエスカレーター内を歩く人がいなくなるわけでも、なぜか歩行するスペースを空ける暗黙のルール的ななにかがなくなるわけでもありません。

 

こういった場合も、「正しい」という議論をするのではなく、「なぜ歩くのか?」という視点で考えると、「歩くべき理由」であったり「歩く必要せいの排除」であったりと違う視点で問題に対処する事ができ、「正しい」を否定する必要もなく、且つ、「歩く人」への対応も可能となるわけです。

 

化粧について言えば、電話問題と本質は同じだと思います。

極論言えば、会話は良くて、ヘッドフォンの音漏れはダメなのかという話しも同じで、何れかを程度問題とするならば、全て程度問題にしなければならないでしょう。

 

また、このような「程度問題」となるようなものを考える時は、自己の都合で尺度を設定する事が多く、本人は真剣に良い案をひねり出そうとしても、冷静に見ると「自己中心的だよね」という結論に至りがちです。

 

そういった場合は、同じような程度問題で、他の問題も全て同様に「程度」で許容できるのか?と考えてみるといいでしょう。

 

「化粧」という行為が程度問題であれば、「ヘッドフォンの音漏れ」「足を広げる行為」「車内での電話」「車内での飲食」など、そういった問題も程度問題として扱えるのか、まぁ、根本的に議論の対象とすべきでない話しも含まれていない気もしなくはないですが、それですら個人の「感覚」でしかないですからね。

 

そうやって考えた時、他の問題は程度問題では許容できないと言ってしまうような場合は、逆に言えば、他の人からは貴方の尺度が受け入れられない可能性があるという事です。

 

点の議論であれは良し、これはダメというのはなかなかこういったルールの議論には悪手で、性別、年齢、仕事などそれぞれの事情で問題に対する感じ方、捉え方がかわりますから、結局はそういった「ズレ」による問題・二次的なトラブルを回避するとなると、極論そもそも他人が迷惑に感じることはダメという結構強引で曖昧なルールにせざるを得ないというわけです。

 

ですから、車内で行うべき、行ってもよいと思われる行為の中で、(一部の)他人からは良しとされない問題があるとすると、ルールを変えるという考え方よりは、どうしてそれは車内で行わなければならないのか?その状況を改善するにはどうすればいいか、という視点で考え直して見る方がよいと思います。

 

ちなみに「最初から家ですれば良い」という結論はこの場合無意味です。

 

こういったケースでは前提条件として「車内で行う必要性がある」という前提をつけなければ、全ての物事は大抵の場合「車内で無くてもよい」となりますからね。