何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

そもそも理解できる人に向けて行う意味はない

 

両親学級で男性がお腹に7キロの重りを付けて「楽勝じゃん」と言って腹筋までしてしまう - Togetter

確かにどうかとは思うが、ただ、こういった個性による違いを配慮せずに、ただ「わかるでしょ?」という一方的な決めつけで意見を押しつけるのは、所謂小学校などの教育でもある問題点なんだが。もう少し改善すべき。

 

自分の目論見が外れたのにシームレスに説教に移行する人間てどうなの

極論言えばこれは小学生の算数の計算の順番の議論と同じなのよ。いわゆる空気読めという圧力で異なる考え方に対して「わからないお前がわるい」という論調ね。別に件の人が正しいわけではないが、逆も正しくはないよ

 

この話で思い出したのは、私の父が校長時代に話していたことで、教員ができない生徒を「ダメな生徒」として評価してしまう事をどうすれば改善できるか、という話だった。

 

当時はまだ差別であったり、体罰というものが今よりも激しく、下手をすれば子供の両親ですら、学校に対してそれを求める事すらあった。特に田舎では。

 

どのクラスであっても、何かしら不得手な子供や、いわゆる空気が読めない子供はいくらでもいる。

そういった子供と向き合ったとき、教員は短絡的に「ダメな生徒」としてはならないのだが、当然教員も人間なので、何度教えても理解できない生徒や、どうしてもほかの生徒と違う考え方をする生徒に対して「ダメだこの子は」という価値観に至ってしまう事がある。

 

ある事柄について、人と異なる価値観を持ってしまうのはなにも子供だけではない。

私たちだってある人からすれば異なった価値観を持っている人間かもしれないし、実は相手ではなく自分がズレている可能性もある。

 

ここで大事なのは「他人とずれている」時、周りはどうすべきか?という事だ。

 

例えば、低学年の算数の授業の例で話したと記憶しているが、「1+1は?」と問うとどういった答えが正解になるのか?という話だった。

 

多くの生徒は「2」と答えるが、実はこういったケースでは「たんぼのた」と答えるような生徒も昔はいたし、「11」と答える生徒もいる。

 

この時、教員はどうすることが正しいのか、という話だ。

 

当然ながら、本当に大抵の生徒は「2」と答える。

そういった中で異なる答えを出す生徒は、一歩間違えば虐めの対象となってしまう事もあるし、対応を間違えば算数が嫌いになる可能性や、生徒の個性をつぶしてしまう恐れがある。

だが、ここでは算数の授業として「1+1」の答えは「2」であるという事に納得してもらわなければならない事も事実で、全てを成立させることが求められる。

 

まず議論したのは、否定はしないという話だった(と思う)。

いずれの答えも、そう考えるに至る理由があるはずで、人と違うという事は、その発想や理解には他の人は至っていないという事だ。

いや、正しくは、知っていてもそのほかの生徒はその選択をしなかったという事が大抵の場合の事実で、それも含めて理解/納得させてあげる必要があり、もしも中途半端な理解であったり、一方的に「間違ってるよ」という結論をぶつけ、その子の考え方をそのままにすれば「間違い」という結論で終わってしまい、失敗体験となってしまう。

なのでまず教員がやるべき事は、単なる失敗体験としない事が求められる。

例えば「たんぼのた」と答えられたら「なんでそうなるか、みんなはわかるかな?」と例えばクラスの子に問いてみる。もしもそこで至る理由がわからなければ、本人に説明をさせる。その上で、それ自体は確かにそうなるという理解を示す。

「縦棒があって、十字があって、横棒が2本だと…本当だね!これはたんぼの田だね」と理解を示すことは大事な手順だ。

 

だが、これは算数の時間であることもわすれてはならない。

ではどうするか?

 

例えばと話した内容では「たんぼの田は数字かな?」と聞きき、それは数字ではなく漢字だよね、という話をする。

確かに「1+1」という計算式をくみ上げると「たんぼの田」になるのだけれど、算数の時間では漢字の勉強はしないよね?という話から、では数字だと何になる?という問いに転換する。

こうすることで、ここで行っているのは数字を使った勉強なんだよ、という事を理解してもらい、その場合の答えは「2」になるよね?という理解に進める。

これは複数の選択肢や正解がある場合に、なぜそれを選ぶのか?という整理の話もたしかあったが、詳細は覚えていない…。

 

「11」のケースも何かあった気がするが思い出せない。何か道具を例にしてくっつkる云々の話で説明していたような気もするが、なんだったかわからない…。

 

結局、教えるという事は当然なにか至るべき場所というか、理解してほしいものがあるわけだが、教わる側のスタートラインや姿勢、人間としての性格であったり、いろいろなもので必ずしも期待する状況にならない事はある。

だが、どんな状況であれ、課されたミッションとして「1+1=2」という事を理解してもらうという事に変わりはなく、同時に、教えるという事はある意味自信をつけるという事であったり、学ぶという事を理解してもらうという事なので、どのような状況でも、その本質は失わないように勧める必要があるという話であったと思う。

 

両親学級の件に戻せば、これも同じ話だと思う。

 

 

正しい答えや、期待する応えがくる時、教える側にはそれほどの負担や迷いはない。

が、実際にはわからない人や理解できていない人、理解できていても違う選択をする人もいるわけで、そういった事も含め、今ここで何を伝える事が大事なのか、その時に失敗体験ではなく、結果的には成功体験として記憶に残すにはどうするかという事が教える側の腕の見せ所でもあり、それが教員やコーチ、トレーナーであるわけだ。

 

が、結局、正解なんていつも違うから、常に考える、学ぶしかないよね、みたいな話でまとまった気がする。

それでいいんかい、という気もするが、教えるという事は教科書通りにいかないのだろうと今では理解している。

 

そんな話をしたな、という事を思い出した。