何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

結局両方とも共同生活に向いていないのではないかと思うが

 

食卓で箸が度々準備されないことに旦那がキレて箸立てをゴミ箱に投げつけて嫁が家出する事態に - Togetter

旦那は化石的な思考であるとは思うし、実際箸なんて無ければとれば良いだけだとは思う。ただ、相手が気にかけるポイントについて、どうするかという事を何度も起きている事案なのに解決できないのは双方の問題かと。

 

実際起きている事はどうしようもない細かい話しではあるし、そんなの自分でとればいいだろ、と思う。

 

が、本質的にはそういう話しでもないのが、こういった問題。

 

人間は大抵だれしも、こだわるポイントはあるし、それは他人からみたら、本当にどうしようもない事で、理解もできない事も多い、というか、大抵は出来ない。

 

そして、夫婦というのは元々他人であって、どんなに長く連れ添ったとしても、まだまだ知らない事や、理解仕切れていない事などいくらでもあるし、それは永遠に続く問題でもある。

 

実際我が家でも最近起きた話しでいえば、妻がYouTubeにはまっているのだが、その中で大食い動画を見ている。

それは別にかまわないのだが、咀嚼音をそこそこの音量で流されて、私はそれが非常に気持ち悪い・・・、もっとも、私は自分の書斎(書斎ではあるが、実際はリビングと半分繋がっている)で多くの時間を過ごすので、距離をとるなり、音楽を流す成りである程度は回避できるが、寝室などはなかなかクレイジーなシチュエーションも起きる。

突然妻が寝れないときにYouTubeを見ていると自動的にお勧め動画で咀嚼音のする動画が流れたり、見ながら寝てしまい、寝室から延々と咀嚼音が流れ続けている等がそれだ。

 

こういった事も、妻からすれば楽しい出来事の延長線上にある事だが、私からすると他人の咀嚼音をわざわざ聞くという事を理解することはできない。

 

が、ここで「理解できない」という話しで終えたり、逆に「寝落ちは仕方ない」としてしまえば、どちらかが不満をため込むこととなるのは言うまでも無い。

 

結局のところ、こういったことが起きた場合、どのようなものであれちゃんと話し合って解決であったり、回避策を検討するしかない。

 

多くの夫対妻の言い争いの話題では「夫が無能すぎる」であったり、「妻が鬼嫁だから」であったり、そういった結論を出しがちなわけだが、それは単純に、自分の家族や家庭がそういった解決できない問題を抱えており、また、自分もそれの被害者であるから何れかの偏った問題であるとする事に共感を覚えるのではないかと感じる。

 

もっとも、実際に極端な例も多くあるが、それでも「離婚」という選択肢を選ぶつもりがないのであれば、結局は相手に対して「無能な夫」「鬼嫁」等と言っても解決しないことは言うまでも無い。

 

件の話しも同じだと思う。

 

妻からすれば「箸がない事がそれほど大きな事とは思わない」「人間なんだから忘れるのは仕方ない」という意見を全く疑わず相手にぶつけているようだが、それを善とするならば、逆に自分にとっては常識でも相手にとっては非常識と思われる事を受け入れなければならない。

なぜなら、相手にとって「食事についての順番にこだわる」という事や「箸が最初に準備されているべき」という事は拘りのポイントである事は疑いはないわけだから、それは非常識なので従ういわれはないとするならば、当然そうなる。

 

そもそも常識や正解などというのは、大抵の場合、多くの人が正しいと信じたものや、過去の歴史によりそうであると決められている程度の事で、極論言えば、そうでないとすること自体に何らおかしな事はない。

 

箸がない事が当然であるという常識もあるだろうし、逆に、箸がないという事が当然ではないという常識もあるだろう。

そして、それが受け入れられるレベルの問題であるという事もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。

 

その違いが人が個人として自己を表すものであって、その個性を全否定するような話しはこの多様化の時代にどうなのかなとは思う。

 

少なくとも夫のコミュニケーションに問題はあったと思う。

夫からすれば、何度もその点について自分はこだわっているという事を話していたのかもしれないし、もしかするとどうしてそこにこだわっているのかという事も話したのかもしれない。

それでも相手には気遣ってもらえなかったという、もしかすると絶望感があったのかもしれないし、単純に怒りが爆発したのかもしれない。

だが、箸立てをぶん投げて相手がその点を理解する程度の問題であれば、おそらくそこに至っていないし、それで解決しないという事を理解できていない点や、結局その時点で怒りをぶつけるという事自体は自己の感情を一方的にぶつけているだけである点も含め、夫の選択、行動について間違っていたことは言うまでも無い。

 

が、それと同様に、妻に何ら非がないとは私は思わない。

前述のように、箸の順番にこだわるというのは、私からしてもなかなか拘りがあるのだろうと感じるし、正直理解もしがたいものがある。

が、言い換えれば、それだけ特徴的な要望であって、私が妻からそういった相談をされれば、これは中々ちゃんと向き合わないといけないな、となるポイントであると理解するものであって、何となくという対応はしないだろう。

 

相手がこだわっている事、それについて理解し、その事を一緒に向き合って考え、できる事から改善するという手順を、単純にこの夫婦は共同作業として行えなかっただけだと私は思う。

 

ともすれば「家事に理解のない夫」のような意見が飛び交うだろうが、そういう話しはあまり価値がない。

 

なぜなら我々はその夫がどのような夫であるかほとんど知らないし、前述のように、なぜ箸にこだわっているのかも何もしらないのだから。

 

その時点で我々はどちらが正しいかもわからないし、どちらがモラハラであるのかも判定はできない。

 

ただ、少なくとも書かれている事実だけを読めば、何もその過程にについては触れておらず、結論在りきの文章である点や、逆になぜ相手の拘りについて親身になってあげられなかったのかという点が置き去りになっている事だけが私には目立っている。ただそれだけの話題だと思う。

 

食事の面で言えば、結構夫婦に異なる文化的違いが生じる事は多い。

先の咀嚼音の件以外にも、単純に我が家でも食の好みから食べ方まで様々な違いがあるし、それは面白がって話題にできるものもあれば、ちゃんと理解してあげなければならない問題もある。

 

都度、我が家ではそういった点は食事をしながらであったり、雑談の中であったり、いろいろな場で話し合いながら、その中で、これはもっと深く考える問題、これは覚えておけば良い問題、これはあまり気にしなくてもよい問題と割り振りながら、それぞれ向き合っていっているわけで、おそらくそれはどの家庭でも同じだと思う。

 

結局、それが機能不全になっていただけであって、結末だけで夫や妻を短絡的に批判するというのは、もしかするとそう考えた人自身も同様に、機能不全に陥った環境にいるのかもしれないと思う。

 

その点に考えが至れないという事であれば、恐らくは当事者の夫婦は双方共に、あまり共同生活というものに向かないのかな、と私は思います。

初心者やWindowsかMacで明確な理由もなく迷うレベルのユーザーはMacを買ってはならない

 

【超初心者向け】WindowsとMacの違いをまとめてみた【令和版】 - kotablog

いろいろと酷い。例えば無料ソフトでの比較でいえば、圧倒的にWindowsの方が選択肢が多い。プリインストールソフトだけで比較するというなら多少の優位性もあるだろうが、使えばわかるがMacで無料ソフトはほぼ壊滅状態

 

高校生が趣味で書いているという前提であっても、ちょっと雑過ぎかと。

特に、初心者向けの記事としても雑過ぎると思う。

 

まず、パソコンやコンピューターの初心者がいきなりMacを買う事はおすすめしない。

特に何のために買うのか、という点が明らかでない人は絶対にMacを買ってはならない。

 

なぜかというと、MacWindowsとは違い、多くの場合で無料ソフトで解決するという事が難しいことが多い。

Windowsの場合、大抵のソフトは無料版があったり、一部の機能が有料、または体験版が提供されるなどでわからないままお金を払うような事はないが、Macではなかなかそうはならない。

どのようなソフトであるか、自分が必要とする機能が全て網羅されているかを調べても、有名ソフト以外は情報も少なく、特に想像以上に皆他人の情報を元にしか利用していないのか、古いメンテナンスもされていないようなソフトの情報しか出てこない事も多い。

結果として何をやるにも自力で解決できる程度の情報収集能力や解決能力がなければならない。

 

より具体的に言えば、例えばMacのソフトでは簡単に導入するのであればストアから検索してインストールするという方法があるが、その方法では大抵の便利なソフトは有料となっている。

一方で一部のソフトは同じソフトであるものの、自分でコンパイルして利用するなら無料としているケースもある。

そういったケースでも自分でコンパイルする環境を構築し、コンパイルし、必要な設定を施すことができれば無料となるが、そうでない場合はお金を払う事でその手間を解決できるわけだが、当然だれでもミスなくできるわけでもない。

 

他にもそもそもOSバージョンが上がった場合、互換性を担保するという操作についてもWindowsと比較して最近は難しいケースが多い。

極論言えば、突然エラーで起動しなくなるという事も普通にあり、Windowsのように、とりあえず互換設定しとけばなんとか動くというケースや、管理者権限で実行すればとりあえずOKのような単純な解決ができない事も多い。

 

Windowsはある意味理解するとジレンマが生まれることが多いが、逆にわからない間はなんとなくでも大抵の事をある程度は可能とできる環境であるといえる。

 

それ以外にもハード周りもなかなか気難しい。

例えば、4Kディスプレイを繋ごうとするとなかなかの確立で相性問題が出たり、仕様はあっているケーブルを使っても正常に表示されなかったり、ケーブル一つ選ぶにもある意味ばくちを打つ必要がある。

いや、正しくは、Appleのいう他社に通じない細かい仕様を理解し、質問しても回答を得られない他社のサポートと根気強く交渉すれば何とか仕様通りであるかどうかは確認できるのだが、多くの場合、Appleの細かく難解な仕様について質問しても「保証できません」という結論に至る事が多い。

なお、私がLGと議論した際は、アップルの公式サイトで取り扱っている商品ですら「細かい仕様については当社では保証しかねる」という回答であったりするレベルであり、基本的には自己責任で調査して進めるしかない。

 

USB関連も実に奥深い。

MacといえばTimeMachineという便利なバックアップ機能があるわけだが、これを利用するときも注意が必要だ。

例えばMacBookであったりすると左右のUSBで仕様が異なることもある。型式によるが、たいていの場合、いずれかのボードの電圧や安定性は逆のポートよりも劣る事が多い。

これは基盤の実装方法による問題で、アップルのサポートと話すと丁寧に説明してくれるが、そういった点も含め、例えば右ではエラーとなるので左を使ってくれ、という話であったり、いやいやこの型番では左の方が安定性が高いので左を使ってくれと言われたりする。

なお、大容量のバックアップを取りたい場合はもっと致命的で、アップル純正のディスクストレージでは日次的に使う事は現実的でなく、一方で、アップル純正品以外の場合で、ストレージ関連のエラーが出た場合は原則ストレージメーカー側に聞いてくれという話になるのだが、大抵の場合は、もっともよいサポートで返金対応してくれるケースで、最悪は相性という事でサポートすらまっとうに受けられないケースがある。

当然、ストレージサイズやバックアップサイクルを事前に理解し、適切な頻度、使い方、パーティション割りなどを行えばよいが、まず初心者がそんな事まで考えて使うとは思えない。

使い始めてしばらくして、ちょっとこれは困ったぞ?となった時には戻れない道となっているケースも少なくない。

 

なお、USBに限らずインターフェース周りで言えば、最近のAppleは頻繁に仕様を変更するため、今買っている機器が次に買い替えたときに使える保証はないという事も理解しておくべきだろう。

私はディスプレイ接続ケーブルから、USB周りに至るまですべて買い直したし、出先と自宅用の電源についてもすべて買い直しとなった。

 

細かい事を言えばいろいろ出てくる、よくわからないが、大抵突然調子がわるくなった際におすすめされる操作はSMCリセットの実行で、なぜそうなるのか説明を求めても何も具体的な説明はされないし、実際それで解決したりするわけだが、それを予防するすべはない。

 

さらに突っ込みを入れれば「コストパフォーマンス」という点で言えば、必ずしもMacは低いわけではない。

恐らく元記事の言いたいことは「安い」という事だが、それはパフォーマンスは含まない。

SSD搭載機のノートで、メモリを大量に積み、そしてあれだけの解像度を出せるマシンはおそらく海外版の某ノートPCだけなのだが、あれを普通に買うとMacBookProのフルスペック並みの金額であるため、決して高くもない。

結局、Windows機でもノート、と言ってしまうとあまり差はなくなる。

一方で、ディスクトップとなる場合は単価の分安く調達することも可能だが、それでも圧倒的に勝るかと問われればそれほどでもない。

結局、Windowsは安くてスペックの低い機種が普通に売っているので、大した用途に用いないのであればMacを買う必要がないというだけだが、その場合、昨今では大抵はタブレットで間に合う事が多いので、そもそもWindowsマシンですら買う必要がない。

 

例えば、ちょっとした文章を書きたいというならもはやパソコンはいらない。

動画の再生にも必要ないし、動画の編集ですらよほど高度な事をしない限りは必要ない。

ちょっとした動画配信程度ならスマホアプリで十分だし、逆にWindows版やMac版のソフトを使って編集する必要がある人はもはや初心者ではないだろう。

 

その他、デザインで言えば、ここ数年に発売された海外メーカーのマシンは少なくともノートに関して言えばMacBookと外見上の差異はそれほどない。

OS上のデザインの違いはあるものの、他人のパソコンのOSをのぞき込む事などほぼないわけで、基本デザイン云々でいうなら外形程度しか初心者は気にしないと思われるので、それであれば別に似たような製品は沢山あるので、お好きなものを選べばいい。

 

結局、どこをとっても初心者があえてMacを選ぶ必要はない。

逆に、Macを欲しいと思うのであれば初心者か否かに関わらず殉教する意気込みで買うべきだし、それができていれば何か壁にぶつかった時も「これがAppleの洗礼か…」と割り切る事ができるだろう。

 

別にWindowsが優れているわけではない。

が、逆にMacが優れているわけでもない。

 

何のためにパソコンが必要なのか?

それはそもそもパソコンでやるべきことなのか?

 

 

そういった事をちゃんと考え、必要な事は自分で調べる、手順を理解して操作できる、それでもダメなら時間を使ってでもサポートと対話できる、そういった人であれば何となくMacという選択もありだと思うが、そこまでの手間はかけられないという人であれば、素直に安価なWindowsマシンをメーカーサポート付きで買う方がよいだろう。

 

なお、開発者ですら今は無理にMacを選ばない時代だ。

大抵の事はWindows環境でもできるし、そうなった時点で冒頭に書いたようにソフトウェア資産の多さからWindowsというか環境はいろいろと便利であり、あえてMacを使う必要もなくなった。

 

Macのソフトは便利なものもあるが、間違いなくまだまだ世の中はWindowsの方が多く、圧縮ファイル一つ、ウェブサイトの閲覧やウェブアプリのサポートなども含め、大抵の場合でWindowsは標準的にサポートされており、それは相手もまたWindowsを使っている確率が高いという事だ。

自分が相手に合わせて行動できるならよいが、それができないなら、相手と同じ環境を使うという事は合理的な判断といえる。

 

つまりは、初心者に対して見栄や酔狂以外でわざわざMacを買う事をお勧めする理由は、(平成の前半にはまだまだそういった理由が存在していたものの)少なくとも令和時代には存在しないという事だ。

是非メルカリで

 

「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」斬新な罵倒に様々な反応が集まる - Togetter

働いている人間に対して、古来の価値観に倣い「家庭の中にいるべき人」という表現を用いて侮蔑する行為は世界中にあります。もっとも、日本では専業主婦という独特の価値観があるので成立し辛いのが味わい深いですが

 

いや、結局差別的であることにはかわらないのですが、なぜ日本では成立し辛いかというと、専業主婦という界隈が一つの市場であるためです。

 

海外ですと、男女がそれぞれ働くと言うことはそれほど違和感がない(当然、昔の日本のようにそうでない国もありますが)ので、そもそも家庭に入るという表現そのものが差別的であるわけです。

 

一方で、以前の日本や今の日本の一部でもまだまだ専業主婦という価値観が残っている為、その価値観を持つ界隈というものが一つの市場となっています。

特に、専業主婦がどう考えるか、という点については、そうでない人とはなかなか単純には理解できないという課題もあり、そうなるとそれこそ専業主婦自身のアイデアや考えが価値を持つ市場であるともいえます。

 

その為「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という、いわゆるお前はその場にいる事がふさわしくない、という趣旨の発言に対して、実際に異なる市場でチャレンジしたら、案外それで成功しちゃう事例というのはあります。

 

所謂主婦/主夫起業家とかそういったものですね。

ただ、一般的な主婦/主婦起業家は、やはり専業主婦/主婦層向けのマネタイズに特化している事もあるので、規模を拡大すると死ぬ事が多いのも特徴です。

近年でも幾つか象徴的な起業家が破産したケースは報じられており、あくまでもその手法や考え方がその市場固有のものであるという事の認識は重要であると考えられます。

 

まぁ、何れにせよ、差別的な表現であることは揺るぎないわけですが、昨今ある「差別に対してユーモアで返す」という大人な対応をする場合、案外そういった事で意趣返しをするもの面白いかもしれません。

 

ちなみに「家庭にいるもの」とするのは差別的である一方で、それと同時に「家庭にいる人は価値がないのか」というジレンマも生まれるわけですが、これは性による役割の固定化と役割に対する価値の付け方の話しで、実際には別物です。

 

まぁ、意図的な表現ではあると思いますね。

そもそも理解できる人に向けて行う意味はない

 

両親学級で男性がお腹に7キロの重りを付けて「楽勝じゃん」と言って腹筋までしてしまう - Togetter

確かにどうかとは思うが、ただ、こういった個性による違いを配慮せずに、ただ「わかるでしょ?」という一方的な決めつけで意見を押しつけるのは、所謂小学校などの教育でもある問題点なんだが。もう少し改善すべき。

 

自分の目論見が外れたのにシームレスに説教に移行する人間てどうなの

極論言えばこれは小学生の算数の計算の順番の議論と同じなのよ。いわゆる空気読めという圧力で異なる考え方に対して「わからないお前がわるい」という論調ね。別に件の人が正しいわけではないが、逆も正しくはないよ

 

この話で思い出したのは、私の父が校長時代に話していたことで、教員ができない生徒を「ダメな生徒」として評価してしまう事をどうすれば改善できるか、という話だった。

 

当時はまだ差別であったり、体罰というものが今よりも激しく、下手をすれば子供の両親ですら、学校に対してそれを求める事すらあった。特に田舎では。

 

どのクラスであっても、何かしら不得手な子供や、いわゆる空気が読めない子供はいくらでもいる。

そういった子供と向き合ったとき、教員は短絡的に「ダメな生徒」としてはならないのだが、当然教員も人間なので、何度教えても理解できない生徒や、どうしてもほかの生徒と違う考え方をする生徒に対して「ダメだこの子は」という価値観に至ってしまう事がある。

 

ある事柄について、人と異なる価値観を持ってしまうのはなにも子供だけではない。

私たちだってある人からすれば異なった価値観を持っている人間かもしれないし、実は相手ではなく自分がズレている可能性もある。

 

ここで大事なのは「他人とずれている」時、周りはどうすべきか?という事だ。

 

例えば、低学年の算数の授業の例で話したと記憶しているが、「1+1は?」と問うとどういった答えが正解になるのか?という話だった。

 

多くの生徒は「2」と答えるが、実はこういったケースでは「たんぼのた」と答えるような生徒も昔はいたし、「11」と答える生徒もいる。

 

この時、教員はどうすることが正しいのか、という話だ。

 

当然ながら、本当に大抵の生徒は「2」と答える。

そういった中で異なる答えを出す生徒は、一歩間違えば虐めの対象となってしまう事もあるし、対応を間違えば算数が嫌いになる可能性や、生徒の個性をつぶしてしまう恐れがある。

だが、ここでは算数の授業として「1+1」の答えは「2」であるという事に納得してもらわなければならない事も事実で、全てを成立させることが求められる。

 

まず議論したのは、否定はしないという話だった(と思う)。

いずれの答えも、そう考えるに至る理由があるはずで、人と違うという事は、その発想や理解には他の人は至っていないという事だ。

いや、正しくは、知っていてもそのほかの生徒はその選択をしなかったという事が大抵の場合の事実で、それも含めて理解/納得させてあげる必要があり、もしも中途半端な理解であったり、一方的に「間違ってるよ」という結論をぶつけ、その子の考え方をそのままにすれば「間違い」という結論で終わってしまい、失敗体験となってしまう。

なのでまず教員がやるべき事は、単なる失敗体験としない事が求められる。

例えば「たんぼのた」と答えられたら「なんでそうなるか、みんなはわかるかな?」と例えばクラスの子に問いてみる。もしもそこで至る理由がわからなければ、本人に説明をさせる。その上で、それ自体は確かにそうなるという理解を示す。

「縦棒があって、十字があって、横棒が2本だと…本当だね!これはたんぼの田だね」と理解を示すことは大事な手順だ。

 

だが、これは算数の時間であることもわすれてはならない。

ではどうするか?

 

例えばと話した内容では「たんぼの田は数字かな?」と聞きき、それは数字ではなく漢字だよね、という話をする。

確かに「1+1」という計算式をくみ上げると「たんぼの田」になるのだけれど、算数の時間では漢字の勉強はしないよね?という話から、では数字だと何になる?という問いに転換する。

こうすることで、ここで行っているのは数字を使った勉強なんだよ、という事を理解してもらい、その場合の答えは「2」になるよね?という理解に進める。

これは複数の選択肢や正解がある場合に、なぜそれを選ぶのか?という整理の話もたしかあったが、詳細は覚えていない…。

 

「11」のケースも何かあった気がするが思い出せない。何か道具を例にしてくっつkる云々の話で説明していたような気もするが、なんだったかわからない…。

 

結局、教えるという事は当然なにか至るべき場所というか、理解してほしいものがあるわけだが、教わる側のスタートラインや姿勢、人間としての性格であったり、いろいろなもので必ずしも期待する状況にならない事はある。

だが、どんな状況であれ、課されたミッションとして「1+1=2」という事を理解してもらうという事に変わりはなく、同時に、教えるという事はある意味自信をつけるという事であったり、学ぶという事を理解してもらうという事なので、どのような状況でも、その本質は失わないように勧める必要があるという話であったと思う。

 

両親学級の件に戻せば、これも同じ話だと思う。

 

 

正しい答えや、期待する応えがくる時、教える側にはそれほどの負担や迷いはない。

が、実際にはわからない人や理解できていない人、理解できていても違う選択をする人もいるわけで、そういった事も含め、今ここで何を伝える事が大事なのか、その時に失敗体験ではなく、結果的には成功体験として記憶に残すにはどうするかという事が教える側の腕の見せ所でもあり、それが教員やコーチ、トレーナーであるわけだ。

 

が、結局、正解なんていつも違うから、常に考える、学ぶしかないよね、みたいな話でまとまった気がする。

それでいいんかい、という気もするが、教えるという事は教科書通りにいかないのだろうと今では理解している。

 

そんな話をしたな、という事を思い出した。

枚数を数える必要はないが、確認画面程度は見ておこう

 

コンビニATMで50万円入金したのに31万円しか反映されなかった - Togetter

絶対ないとは言わないが、基本残合わせの関係上仮にその時点で入金漏れが発生しても券種チェックで後にわかるはずなんだが。念のためセブン銀行に問合せてみたが入金確認でキャンセルすればそのまま戻るとの事だった

 

ATMとはいえ機械なので、絶対はない。

が、50万が31万というのは、仕組み上もなかなかありえないかと。

詳しくは書かないが、そこまで雑な仕組みではないので、19枚も誤差が出ることは、私が知る限りはなかなか起きえない。

恐らくは天文学的数値の奇跡の積み重ねでしかおきえないと認識している。

 

それでもゼロとは言わないが、まぁ、あり得るのは、綺麗なお金が重なって締まっているケース(ただ、この場合、比較的エラーとしてそもそもカウントされずに返却される。なぜならそういったチェックがあるので)なので、流石に19枚も、というのはちょっと原因がわからない。

 

私も全くセブン銀行のATMを使わないわけではないので、念のためセブン銀行に問い合わせてみたが、セブン銀行の電話担当者もとても困惑している状況だった。

 

お付き合いいただいた担当者の方、ご面倒をおかけしました。

 

その上で、まず入金時に仮に何らかの理由(エラー含む)で入金したい金額と確認されている金額が相違している場合、確認画面でキャンセルする事で入金した(する予定)お金をそのまま返金(受け取る)事が可能との事でした。

 

その上で、入金後であっても手続き上の問題があるのであれば備え付けのお問合せ用電話機でご相談いただければ確認させていただいているとの事。

 

もっとも、その確認がどのようなものであるかはご説明いただけなかったが。

 

元ネタを投下した主のいう「計算されない」というのがどの時点(確認前でズレていたのか、確認時点では合っていたのに入金金額はずれていたのか)はわかりませんが、前者であればなぜ確認しなかったのかという話しでしかなく、後者であればおそらくログ上から明らかに残が合わないのでむしろ銀行側が困る話しでしかないのです。

 

また・・・

 

これは勘違いでしょう。

まず大抵のATMは特注ではあるものの、別に銀行が作っているわけではありません。

それぞれの技術はそれを構成するメーカーがもっているので、材質の質感が安っぽいとかそういった違いはありますが、盗難や窃盗も含め対応できるように一定の品質を担保されています。

また、どちらかというとセブン銀行のATMの方が一般的な常識としては先進的で高性能であるとの話しなのです。

もともとセブン銀行は多数のATMを大量に稼働させる事を目的にしていただけでなく、その中で店舗の売り上げや、それに付帯するような法人向けサービスも見越した開発が行われていました。その上でnanacoのような電子マネーへの対応等も実現しており、中身としてはおそらく銀行等のATMよりも高性能で先進的なものでしょう。

 

もっとも、一台あたりの単価で言えば、逆に安いのではあろうと思います。

ただ、それは安物という話しでは無く、セブンイレブンに大量に設置する関係からコストダウンが図れたという事と、そもそも後発であったのでよりよい機材が使えたというだけの話しです。

 

事実、ATMの設置台数で言えば、ゆうちょ銀行が長らく圧倒的な1位でしたが、2018年時点ではもう既にセブン銀行がそれを射程に捉えた2位につけており約2万5千台が稼働しているわけですが、これがどれくらい異常が台数かというと、メガバンクで設置台数No1をうたうみずほ銀行の設置数は、約7200機、それもそのうち直営は約1900機程度に過ぎません。

 

何れにせよ、いろいろと詳細・真偽不明の話しではありますが、尾ひれがついてでている話しについては完全な思い込みでしかありません。

 

まぁ、本件に限らずですが、確認画面というものはちゃんと確認すべき話しで、大抵はそういった手続きをしていれば救われる(はず)という事です。

 

 

 

 

 

ミスに対する改善命令もその結果により減給も解雇も手続き的には可能

給与減額「裁判でも何でもどうぞ」 製菓会社に賠償命令:朝日新聞デジタル

いくらミスをしても解雇どころか減給もできないなら、会社は成り立つのだろうか?

 

これは誤解です。

 

まず、労働者の監督責任は企業側にあるので、当然ミスが発生した場合、労働者自身の責任と同時に企業側の責任が問われます。

なので、一方的に労働者が悪いとすることはできないだけであって、当然労働者自身になんらマイナスがないわけではありません。

 

一般的な手続きとしては、査定の中で対応するもので、具体的に査定基準を策定し、その中で一定の基準を満たせない場合は降級や減額という手続きをとれます。

 

ただ、企業側も勘違いしている所は多く、懲罰的な減給は認められていません。

例えば、ミスをした分は全て給与から減額する、といったものは不適切な事例で、少なくとも作業上の責任の賠償を無条件に行う事はできません。

あくまでも労働者自身が企業の管理に反する行動をとるなど、労働者自身に著しい過失が有った場合に適用できるもので、一般的には懲罰による減給というものは使うべきではなく、仮に使う場合も、支給額に対する一定の割合に制限されています。

 

解雇についても同様です。

企業は解雇できないわけではありません。

企業側が適切に労働環境を整え、監督業務を適切に行っている状況下で、労働者が適切な労働力を提供できない場合は、注意等を行った後に契約を解除する事は可能です。

但し、その場合は、解雇に至るべき適切な理由があったのか、という点が議論となりますので、ただ注意した、程度では解雇事由としては不適切です。

一般的に企業側はどのような労働に従事する事になるのかを事前に明らかにし、その上でその業務に十分対応した労働力であるとして労働者自身の意思により労働契約を結びます。

 

この契約に対する前提条件が双方守られている状況であれば、企業側が一方的に契約を解除することも出来ません。

 

なお、そういった事由がない場合でも解雇は可能で、適切な賠償金額として退職時に支給するほか、解雇事由を明確にすれば解雇自体は可能です。

例えば、経済的な状況により人員を削減するなどがそれで、労働者側に不手際がなかったとしても、会社が事業継続をできないような場合は、適切な手続きをとることで解雇を行う事も可能です。

 

今回の事例でいえば、減給を行う事由が適切でなかったというだけであり、また、7万円の減給というのはかなりの金額(年間84万円)ですから、単純な減給ではなく、降格相当の不手際が無い限りは適切としては認められないでしょう。

 

降級とする程度であれば、例えば事業責任者が就任時にコミットした事業目標を達成できないとか、チームリーダー的な役割を担う労働者がチーム崩壊を招く管理状況であったためリーダーを解任されたとかそのぐらいの話しですから、単純なミスや不手際で減給する額ではありません。

 

また、金額について少ないとの指摘もあるようですが、おそらく訴額として減給された実際の被害額と暴言などに対する賠償額を弁護士が設定しているためにこのような事となっていますので、司法云々という点で言えば、日本の判例主義の限界ではあります。

 

また、裁判所や司法関係者自身にもそれを変えなければならないという価値観を持っている人をほとんど見かけないので、これは法律の問題というよりも、司法制度の運用や環境の問題で、人災であるともいえるかと。

 

さらに言えば、仮に法人として何らかの処分があっても、現実的には数百万程度の金額が命令されるかどうかという程度ですから、実際問題は法人に対する追求というのは甘いというのは否めませんが。

 

なお、この事件が原因で監査などが入ればおそらく法人としての処分が行われるものと思われます。ただ、個別の賠償として裁判を起こしているので、それが行われるのかというのは弁護士の何らかの判断によりその手続きを行わなかったものと思われますが。

 

ですので、解雇ができないわけでも、減給ができないわけでもないのでご安心下さい。

世の中に万人に万能な「当たり前」は存在しない事を理解すべき

 

ダンプカーのブレーキから出火しコンビニで消火器を借りようとしたが、貸してくれずにダンプカーが全焼して駐車場の修理費100万円超えを請求された - Togetter

請求自体については仮に消火器を貸し与えたとしても発生しうる話しなので関係がない。消火活動への支援を断ったという点については、結局社会的信頼性への影響だけにかぎられるものだと思うが。冷静になるべきかと。

 

これ自体については、店舗自身も延焼時の影響であったり、社会的影響を考えた場合に貸し与えるべきだったとは思う。

 

一方で次の様な意見については私は同意しかねます。

 

 

まず、「人として当たり前」という価値観は傲慢であることを理解すべきです。

人には立場、状況あらゆる点で違いがあり、貴方に当然にできる事が、他人にとっても当然にできることではありません。

その「できない事」をただ一方的に責めればそれは言い換えれば、貴方にできない事を他人ができるとき、貴方も一方的に責められることを無条件で受け入れるという宣言に過ぎません。

仮に、貴方自身はそういった非人道的な価値観を正しいものとしても、社会的にはそのような一方的で独善的な価値観は正しいものではありません。

 

仮に相手が間違った判断をしたとしても、まずは冷静になぜそのような状況に至ったのか、そしてそれは組織的責任によるものか、個人的責任によるものかを考えるべきです。

 

例えば、具体的な店舗を出していますが、その責任を誰に押しつけているのでしょうか?

まず第一義に自己の原因は車両の所有者にある事は明らかです。

車両の保有者は同車両を使う前に安全確認措置は都度、確実に行ったのでしょうか?

つまり、この火災は、車両の整備不良や運転手の過失によるものではなく、自然発生的に起きたものであり、基本的に運転手に過失は無かったと言い切れるのでしょうか?

 

と、言われれば、当然「は?この話しにそんな事関係ないだろ?」と言いたくなる人が現れます。

 

当然です。

ですが、その視点の違い、考え方の違いというのが、人が集団で生きる「社会」で当然に起きる違いなのです。

 

ある事が起きれば、そこには様々な視点での考え方があります。

結果として、自分にとっての当然は、他人にとっての当然ではなく、そこから導き出す答えも同じではありません。

 

店舗側が緊急措置に協力しなかったという事実は事実です。

その上で、社会としてそういった行動にどういった意見を持つかは社会を構成するひとりひとりが考えればいいのです。

ただ、その時、自分の考え方が正しく、他人の考え方は正しくないと一方的な価値観で決めつけたり、また、自分が価値のある行動をとった(とれる)としても、それができないひとを貶める必要はありません。

 

他人の失点は貴方の加点ではありません。

貴方が実際に行動したとき、それを他人から評価して貰えばいいのです。

 

実際に行ってもいないことで、他人が出来なかったことを批難するというのは、もっとも最低な発言であり考え方であると私は思います。

 

仮に自己正当化したいなら、その時、自分は別な場所から消火器をもって駆けつけ、店舗に変わって消火活動を行ったと、そういう事であれば、消火活動をしなかった人、店舗に対して「道徳的観点」で発言する事が許されるでしょうが、自身も結果としてそれを行っていないのであれば、その事象については、どちらも「結局なにもできていない」事に変わりはありません。

 

そういった自己に都合の良い考え方は少なくとも「道徳的価値観」ではありません。

 

物事を議論するとき、評価するときは冷静になるべきだし、事実とそれ以外はわけるべきで、事実について議論し評価する事はかまわないと思いますが、事実出ないこと、自身が行っていないことで他人を評価する時には少なくとも「結局自分も同じようになにもしていない」という事を理解した上で発言、評価するようにして欲しいものです。

 

それができないなら、社会からすればただの一方的な正義感や意見を振りまくだけの存在でしかありませんよ。