何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

それは結局性別や身体的特徴で差別している事だと思いますが

 

男女平等な社会でも重い荷物は男性が運ぶべき? - Togetter

身体的性差なんて無いし身長が高い人が必ずしも力が強いわけでもない。全てただの個性であってただ身長が高いというだけで判断するならば、それは男だから女だからという偏見となんら代わらない。平等・公平は難しい

 

まず、この話しは2つの問題を一緒くたにして考えており、発言主もそれを理解できていない事が問題です。

 

まず、そもそも同一業務同一賃金は法律でも定められている話しで、労働内容に著しい差や偏りがでるようであれば、それは業務を整理し、業務内容に応じた役割、権限、賃金を適切に割り当てるべきはなしです。

つまり、業務上肉体的労働が伴う事として、予め賃金にそれが反映されているとするならば、それは男女、体格差など問わず、その業務に従事する前に会社と労働者がちゃんと話し合っておくべき事に過ぎません。

それが、現場で突然、偏った仕事が発生し、それを誰かが受け入れないという不公平な状況を作り出した結果「誰がやるべきか」という議論になるわけです。

当然、こういった事の整理ができていないのが日本社会なのですが、それを単純に「性別云々」や「身体的特徴云々」で片付けたり、「思いやり」であったり、「常識的」であったりという社会的な圧力にとって解決する方法は適切ではありません。

 

で、性別や身体的特徴による役割の割当についても、安易に「身長が高いから」とか、「君は体が大きいから」とか、そういった外見的特徴で議論すべき話しでもありません。

例えば、レスリング選手は思っているよりも小柄な方も多く、当然そういった方は見た目以上に筋力がある上、力の使い方が上手ですので男性、女性を問わず、そういった仕事でより対応できる事があるケースも少なくありません。

一方で、仮に過去にレスリング選手であったとしても、全員が一線級の選手なわけでもなく、場合によっては怪我や持病、既に競技を離れている等の理由から経歴や外見的特徴だけでは正しい判断ができない事も少なくありません。

 

結局、どういった事であっても、労働負荷を受け入れられるかどうかは、労働契約に反映して、それを労働者自身がうけいれるかどうかという前提でしか議論できません。

もしもそういった業務(例えば販売点等の棚卸し業務であったり、事務作業でもファイル整理であったり)が含まれる前提であった場合に、同じ条件、同じ賃金で働いているのであれば、前提として男女、年齢、経歴問わず、仕事の割当は当然公平になされるべきで、それが不当だと思うのであれば、正しく賃金に労働負荷を反映すべきなのです。

 

その労働契約上の問題を協議せず、ただ現場で何となく行われている一コマで、誰が悪いと罵ったところで、基本的には「誰かが負債を引き取るべき」と言っているだけで、その「負債を引き取った人はいい人」「負債を引き取らなかった人は悪い人」という一方的な意見を述べているに過ぎません。

 

本来会社では、様々な書面を準備し、その中では職務分掌や業務規定、職務規程など、労働契約に付帯する業務をより具体的に定めるものを準備する必要があります。

これらの中で、責任の所在や役割のあり方、業務と機能の関係や、職務上の等級と給与の関係などが整理され、それが労働契約と連動する事で、個人の業務や給与が決定されるわけですが、日本の企業ではこの部分を本当に曖昧で未定義とする事が多く、そしてそれをやらない事を「おもいやり」や「協調性」という間違った善意で曖昧にする事を良しとする文化が根強くあります。

 

「気づいた人がやるべき」「できる人がやるべき」というのは、基本的に「やらない側の意見」であり、「やらされる側の意見」で言えば「同じ労働条件なら性差、身体的特徴、年齢に関わらずやれよ」というのは実際至極真っ当な意見です。

 

また「私もやっていたから」や「あの人はやっていた」と言う意見をもって「だから貴方もやるべき」という意見を発するのは非常に恥ずべき行為です。

何かをやるのか、やらないのかは本人の意思であり、それを誰かが同じ判断をしなかったとして批判する根拠にはなりません。

それをやった結果、誰かが恩恵を受けたなら、それはその恩恵を受けた人が感謝すれば事足りる話しであり、それをやらなかった人を責めるべき理由はありません。

 

この話しは一見すると男女や性差の話しのように見えますが、実際はそういったレベルの話しではなく、単純に「自分にとっての正義に従えない人は悪」という短絡的な意見を述べているだけであり、男女平等の議論で言えば、女性に対しても「女性よりも男性は云々」というラベルを一方的に貼り付ける事で、ある領域の女性を守っている反面、一方でそれ以外の女性には望まないラベルを貼り付けているただの性差別に過ぎないと私は思います。

 

性別であれ、身体的特徴であれ、全てはただの個性に過ぎません。

たまたま女性であっただけで、力の有無や足の速さ賢さ等など全ての事はそういった事とは関係なくその人個人が持つ事実に基づき判断されればよいだけの事です。

そして、それが労働や労働に伴う賃金に影響するのであれば、行うべき労働は同様の性別や身体的特徴云々で決まるのではなく、まずは行うべき労働内容と労働契約を適切に整理し、その個人がその労働を受け入れるのか、受け入れないのか、あの人と私は同じ仕事内容なのか、違うのか等、そういった事を環境を正していく事に力を入れるべきであって、それを「男性は」「身長が高いのだから」等という個人の特徴によって解決するような話しにすべきではありません。

 

こういった発言は冷静に向き合わないと、逆に社会的偏見を助長しかねないものだと私は思います。

そもそも多くの場合で目的と手段が間違っていると思うのだが

 

10秒で衝突するUUIDの作り方 - Speaker Deck

この例示の問題点はそもそもUUIDの生成ロジックがヤバいのと、乱数の発生自体の方法も誤用というダブルのミスを前提としている点。いないとは言わないがおそらくこのレベルの人は別言語でもやらかす人かと思われる。

メルセンヌツイスタはそんなに衝突しない - Qiita

細かい点は除いて同意。というか多くの場合乱数とUUIDには本来なんら関係がないのだがなぜかUUIDをランダムに生成したがる人が多いのが問題。値の連続性を秘匿したいのであればそれは暗号化の論点でありUUIDとは関係ない

 

この話、そもそも以前から疑問に思っている処理として、UUIDの生成に乱数を用いる人がそこそこいるわけですが、まずUUIDは乱数と関係はありません。

生成ルールの選択は、生成・利用環境に依存しており、並列環境で利用する場合は当然ですが生成ルールの選択する時点で善し悪しを選ぶべきなんですよ。

で、特定の情報や環境に依存するのであれば、当然その生成ルールは採用できないと実装前にわかるはずなんですが、なぜか人はネットの情報をそのままコピペするので「ランダムなIDを生成するならUUID」という勘違いをしてしまうわけです。

 

私が経験したケースで言えば、多くのUUIDの目的は、一意なIDを生成したいが連続性のあるIDをそのまま使用したくないというようなケースであったわけですが、それはUUIDでも代用できるものの、目的としてはシリアル値の秘匿化でしかないわけです。

 

で、そのケースでいえば、それは内部的にシリアル値であるべきで、これは衝突する事はありません(但し、疑似乱数同様に生成方法を誤れば別ですが)。

その上で、生成されたシリアル値を可逆でも非可逆でもよいのですが、秘匿化すればいいだけの話しであり、そういったライブラリも普通に存在します。

 

つまり、そもそも無理に適さない選択をする必要もないし、使い慣れない疑似乱数を使う必要もないケースが多数なわけです。

 

当然、有効桁数/有効文字数が有限である限り、仮にシリアル値を秘匿化したとしても結果的に衝突する事はさけられません。

例えば、秘匿化の手段としてハッシュ化を用いたとすると、ハッシュ化のアルゴリズムに依存した割合で衝突のリスクを負います。有名な事例で言えばgithubのようなサービスでもこの手の手法で衝突した云々の話はありましたから、秘匿化の方法を選択する時点でそのリスクは十分に検討すべきですが、それほど神経質にならなくて良い場合が多いでしょう。

逆に決して衝突したくないような要件(例えば、内部的なシリアル値を変更または欠番のような処理ができないようなケース)であれば、多くの場合で可逆のアルゴリズムを利用すれば衝突を避ける事が可能です。

 

当然単純に「UUIDなんだから衝突する事自体がおかしい」という話しはあるわけですが、目的の為に選択する手段が正しいか、またその利用方法は正しいのか、という事を確認できる限りはこの手の話しは多くの場合で問題を回避できます。

 

もっとも、元の記事主もはっきりと「結論:UUID生成はライブラリを使え自分で書くな」と仰っているように、今回のケースに限れば意図的に衝突させる事を目的とした話しですから、ライブラリを用いる事である程度回避可能ですが、それでも衝突するか否かは結局UUIDのバージョン選択やその生成アルゴリズムが自分の環境に適しているかという点を正しく判断できないと、ライブラリを用いても普通に衝突します。

 

ですので、それ本当にUUIDとすべきなのか?という点も含め、設計・実装段階で適切な判断を行う事が大事で、それ以上でもそれ以下でもない話しかと。

 

本質的な議論に至らない事も原因では?

 

桜を見る会 内閣府が名簿提出も「功績者」ほぼ黒塗り | NHKニュース

なんか世論も論点ズレている気がするが。追及は必要だがそれは出席者側を貶める事であってはならんだろ。黒塗りが正しいとは思わんが、やるべきはそもそもこういった行為が妥当なのかどうかであるべきだと思うのだが

 

まぁ、本来黒塗りする意味はないという事は私も思うし、実際この手の不適切な対応を政府が続けている事は許されるべきでもないと思う。

 

が、冷静に考えて、今、名簿を仮にそのまま開示すれば、恐らくは本質的でない問題にばかり議論が至る事は想像に易い。

 

ブコメを見てもわかるように、論点が「誰が呼ばれたのか」になっているのだが、そもそも呼ばれた人は全員が不適切な参加だったわけでもないだろうと思われる。

結果としてマスコミも野党も国民も全員が「この人は呼んだことが妥当なのか」であったり、例えば「あの会は不適切な会であった。なのでその場にいた人も等しく反社である」のような、意味不明な理論で参加者側を十把一絡げ批判の的とすることになる。

 

それは違うでしょ。

 

いや、中には「ひとりひとり個別に判断するので問題はない」と考える人もいるだろうが、そんな冷静な人はブコメ上でもほぼ見受けられないが。

 

仮に不適切な方法や機会により参加した人がいたとしても、実際問題これは主催者側に圧倒的な不備がある話で、そもそもこういった事を平然と税金で行っている事や、そもそも管理ができない事に税金をつぎ込んでいる責任がとれていないという点が本来の問題なわけで、そこの議論が進まないからといって「では呼ばれた側を責めましょうか」というような思考に至るのは流石にどうかと思う。

 

こういった冷静さを欠く議論をする癖を正さなければこういった場合の情報開示は私が担当者であっても判断が難しくなるわけで、そこはちゃんと国民も冷静にならなければならない。

 

「功績者なんだから公表されても問題はないだろ?」

 

いや、貴方を含め多くの人は「功績者」であるかどうかを自分の尺度で測る事を目的としているただの野次馬根性でしかないですよね。

仮に功績者の名前であったと仮定するとそもそも公表の意味はないし、逆に功績者でなかったとすればただの人なわけですから、その人の名前を公表することに意味もないし、そしてその後その人がただ「参加した」という事実だけで延々と非難されることを是とする事になんら正当性なんてないよ。

 

それこそ「何か少しでも間違い、疑念が生じれば、人生を捨てて詫びろ!」と言い放つようなもので、私からすれば参加した側にそこまでの責任があるのか?としか思えない。

 

もし「参加した」程度の事でそれだけの責任を負わせるというなら、大抵の人の人生は終わらせるべきレベルにあるんじゃないのかと思うが。

 

何れにせよ、私はそもそもこういったケースで参加した側が責められるような事はあるべきではないと思うし、システムが悪かった、基準が正しくなかった、運用が間違っていたのであればそれは主催者側を正しく糾弾する以外に選択肢はないし、それ以外の手段や選択肢を容認するような事は、今回本来黒塗りとする根拠が存在しないにも関わらず情報開示を拒否した政府のような「正しくない事を平然と行う」という悪質な行為を自ら行う事であり、同じレベルの人間であると宣言するようなものだと思う。

 

私はそういった人間でありたいとは思わない。

 

世の中に「普通」等存在しない、存在するのは唯一「理想」だけ

 

恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因|minami_it|note

相手に求める条件を自分も満たしてるか、またはそれ以上のものをもっているのであれば本来は問題ないのだよ。成立しないのは相手の期待に添わないか、または、そもそも不釣り合いな要望や願望を持つからだと思うが。

 

まず、大前提として、タイトルに書いたように世の中には「普通」というものは何一つ存在しない。

 

大切な事なのでもう一度書くと、世の中に「普通」というものは何一つ絶対に存在しないので、その事はまず理解していただきたい。

 

例えば、私が「普通はこんな場所で喋らないよね」などと勝手な意見を述べたとする、それは私にとっての「普通」であって、他人にとっての「普通」である保証はない。

 

世の中で言われている「普通」とは、何となく多くの人が「普通」であると考えている事が、偶々集団としての共通の認識であり評価となっている為に生じている現象に過ぎず、それは結果に過ぎない。

 

これはどういうことか。

 

つまりは「普通」という定義はそもそもは存在しないという事だ。

私がそれを「普通」と定義し、それを私以外の誰かも「普通」と定義する。

そしてお互いがこれを「普通」であると定義している事を「認識」し、そしてその「定義」と「認識」を相互にうけいれる事によって、集団としての「普通」は形成される。

 

こうやって書くと理解できると思うが、結局のところ「普通」とは、自分にとっての「理想」に過ぎない。

 

例えば冒頭の私の例でいえば「普通はこんな場所で喋らないよね」は、より具体化すれば「こんなところで喋らないで欲しい」という事に過ぎない。

 

こう考えれば、私のコメントの意味は理解できるのでは?と思う。

 

自分が10の理想を希望するのであれば、自分も相手の10の理想を受け入れられなければならない。

 

実際にはそんな事はないし、そんな相互評価なんてしないが、極論言えば、相手に「これは普通の事、当然の事」というのであれば、それは同時に相手にとっての普通の事、当然の事を10受け入れる事を宣言するに等しい。

 

それは知性かもしれないし、金銭感覚かもしれない、いや所得かもしれないし、母性であったりはたまた父性であるかもしれない、当然、外見かもしれないし、スタイルかもしれないし、それは全て相手の「理想」により定義されるに過ぎない。

 

自分は「普通」しかもとめていないのに・・・というんはたやすいが、相手にとってもその要求は「普通」でしかない。

 

貴方は私の普通を5つも満たしていない。

貴方は私の普通の3つを満たしていない。

 

こういった恋愛を減点方式の恋愛と言います。

そして基本的に減点方式の恋愛は原則として相手も同様の価値観で応じる事が多く、所謂、結婚に至らない恋愛や結婚後に離婚率に高いカップルに多い傾向です。

 

そもそも恋愛も結婚も等しく異なる価値観を尊重する事から始まります。

評価すべきはその異なる事であったり、場合によっては共通する事であったりに対して加点を付ける事で、だからこそ良いところもあれば悪いところもあるわけで、それは自分の相手に対する評価もそうですが、当然相手の自分に対する評価も同じ事です。

 

我慢するべき、という話しではなく、そもそも恋愛をするスタート時点で「普通」という自分の傲慢さを前提にしている時点で、実は恋愛のスタートラインには立てていないと思うのです。

 

ただ、別にその考え方を変えるべきとは思いません。

それが自分の「普通」である以上、結局のその価値観がその人の本質なわけで、大抵の場合本質を変えるというのは容易ではありません。

 

なのでもっとも単純な事は、自分が相手に10の普通という名の理想を求めるならば、自分も他人に勝る、相手の普通という名の理想を10個またはそれ以上満たせばよいだけの事です。

 

それを人は努力と呼びます。

 

記事では相手の普通すら満たせないという事について努力であったり、気配りであったり、そういったことを考えればよい、ただそれだけに過ぎないような事が書かれていますが、まさにそのとおりです。

 

相手が求める事をただ単純にその期待に添えばよいだけの事です。

わかりやすくてとてもよい事だと思います。

 

もしこの文章を読んで「ふざけるな」とおもったのであれば、それは同様にその普通を押しつけられた人が貴方に感じた感情そのものでしょう。

 

相手に求める事は同様に自分に求められる事である。

わかりやすくて良い事です。

 

全ての男性の選択が原因であるとするのは流石に女性の意思を馬鹿にし過ぎ

 

バリキャリは夢を捨てよ:この世にパワーカップルなんて存在しない、マジで。 - トイアンナのぐだぐだ

これはバリキャリの幻想だと思うが。少なくとも日本では一部のバリキャリを除くと単純に専業主婦志望の女性が多くいる為、男性側の意図に関わらず専業主婦を選ぶ女性が普通にいるだけかと。男性の選択だけではないよ

 

僕は少なくとも現代においては昔のように、親や周囲の大きな影響で結婚相手やその決断を女性が強いられるような状況は限りなく少なくなっており、相手や最終的な決断は女性自身の手によって行われていると考えています。

 

言い換えれば、晩婚化や未婚率の上昇というのは、男女共に、自分の判断によりものごとを決める事ができるようになった結果であり、難しい問題である反面、それ自体は自然な事でもあると感じます。

 

ここではパワーカップルなんてものは男性の身勝手な考えによって成立しないという話をされていますが、正直意味がわかりません。

確かに、男性にそういった考えを持つ人がいることもわかるし、もっと踏み込めば、男性に限らず、相手に癒されたい、家に戻れば何も考えずただ安らぎを得たいというのは男性に限らず女性であっても同様の考えだと思うし、いたって普通の希望だと思います。

 

つまり、これはその比較的当然な欲求という「需要」をだれが満たすのか?という単純な話に過ぎず、女性には選択として「専業主婦」というものがそれほど特別なものではなく存在している、という話に過ぎないと思います。

 

結果として、男性からすれば「専業主婦」という選択をする女性がいるわけであればそれはお互いの役割、機能の選択という意味でも調和がとれるわけであれば選ばない理由はないわけですから、そういった出会いがあればその選択を決断することは当然でしょう。

 

いや、正直女性に限らず、男性だってパートナーがそれなりに稼ぐようであれば、役割の分担という意味で専業主夫として活躍する事も考えますし、さらに子育てという負担も加わるのであれば、選択肢というよりも、状況によっては選択せざるを得ないという事も少なくないと思います。

 

この話は、どちらかというと個々人の話というよりも、一つの集団としての意思の違いが結果として集団の一部に不利益をもたらしているという事かと思います。

 

ん?男性だってそれは同じはずだろ?

いやいや、男性は最初から専業主夫という選択ができる人はほぼほぼいませんし、結婚する際に相手に「僕、専業主夫になりたいけど」などという事を受け入れてくれる人もそれほど多くはありません。

さらに言えば、相手のご両親まで含めると、それは自らそういった道を作るというのはありえなくて、結果的にそうなる以外ではほぼその道はあり得ないでしょう。

 

なので、男性多くの場合の選択肢は「共働き」または「専業主婦」の何れかで、女性にとっての選択は「共働き」「専業主婦」「専業主夫」になるわけで、さらに男女共に高収入という条件に限定すれば「共働き」が割合として減る事は至って普通の話です。

 

まぁ、正直、夫婦や家庭なんてものは、結局は自分たちが満足できる形だから作る、継続するものであって、無理に作る必要もないと思うので、そういった相手がいないのであれば無理に結婚する必要も家庭を継続する必要もないと思いますけどね。

 

もう現代は大抵の事は一人でも問題ありませんし。

 

叩いて良いわけでもないし、叩く意味も無いけども

 

武蔵小杉の浸水被害は叩いてもいいという風潮 - レールを外れてもまだ生きる - コロポンのブログ

全然関係ないけど半分は不動産屋が悪い。僕は仕事で昔のあの界隈に出勤していたわけだが明らかに工場地帯で何もなく、で、工場脇の下水道には中国のような色とりどりの排水が垂れ流されていた。そこをなぜ住宅地に。

 

まぁ、この話題をネットに流している人は、単純に面白がっているだけで、本人達には叩くという認識もないのだろうなとは思う。

一方で、言われている側からすればただでさえ被災で辛い上に、生活基盤まで馬鹿にされるという事は耐えがたいとは思う。

 

そもそも被災した結果として住人が苦労しているのは住人が抱えている課題なので、我々には何ら影響がなく、それを我々が外から叩く事に少なくとも正当な理由はないだろうなと思う。

 

で、これについて以前から思っていたのは、なぜあそこをあんな住宅地に・・・という事だけかな。

 

いや、住んだ人が悪いという事よりも、事情をよく知る不動産界隈の方々はあの地域がもともとどういった地域か知っていたし、再開発前は本当になにもなかったわけで、工場周辺なんて明らかにヤバい色の下水が垂れ流されていたのだが、そこで確かどこかのチームのサポーター募集の垂れ幕だけが凜としていたことを覚えている。

なお、当時は駅の向こうなんて道は整っているがお店もなく、昼食をとるだけでも選択肢は限定されていて、駅が綺麗になったのが私があの地域を離れる1年前ぐらいだった気がする。

なので、開発する前からあの地域は大規模な住宅地としての機能が不足している事はわかっていたはずで、水捌けとか治水とかそういった次元の前に環境として一定の投資をしないと安全、安心な暮らしというものにはなかなか届かないとわかっていたはずなんですよ。

 

当然、開発前から人は住んでいたわけだが、高層住宅を建てるような高集積型の住宅を誘致、建築することと、もともとそこに住んでいた人が住み続ける事には、私は明らかな差があると考えているので

 

なので、せめてそれぞれのマンションを建築する際は、地下に設備を設置するのであれば少なくとも万全の体制をそれぞれのマンションで敷かなければならなく、少なくとも住宅地の基盤というのは数年程度では整備されない(要望により調査が入り、設計を行った上で、その後その計画が承認された後に、やっと実施に至るが、それですら最低でも数年かかる事業なわけで・・・)わけですから、その数年、いやもしかすると10年〜20年という間は事業者が最大限の投資をする前提でなければならなかったと思うのだが。

 

当然、他の地域のタワーマンションも構造上は同じではあるものの、あの地域は不動産界隈がこぞって販売したわけで、結果的に住宅地になったようなものではない。

 

意図的に住宅地としてブランドを作り、そこに人を集める事を画策したわけだから、せめて行政の整備が追いつくまでは面倒ちゃんと見ようと、と言うのが個人的な感想。

 

いや、あるマンションが偶々一棟だけたっている、というような状況なら別ですよ。

そうじゃないよね・・・、もう何本も立っているわけで、その地域にそれだけの人間を支えるインフラや環境が整っているかはもう少し冷静に考えて欲しいし、これは以前豪雨被害で斜面の開発による影響が被害拡大の原因だったのでは?という話しの時も感じたわけで、もう少し責任を感じて欲しい。

 

売れてしまえば後は管理団体と仲良く頑張ってね、では済まされないと思うが。

 

そういった意味では、今回十分な対策が出来ていないマンションの販売元はどういった考えでこの地域を選択し、どういった考えで売っていたのか非常に気にはなる。

 

半分と書いたが、3分の2ぐらいは不動産界隈の無責任さが原因で、残り3分の1の半分が行政の努力不足(住人が異常に増加したわけだから、もう少し取り組めたのではと思わなくもない)で、残り半分は住人自身の決断によるものだと思う。

 

もっとも、そもそもが災害であり天災であるわけで、この規模の台風や水害がいつ起きるかなんてのは誰にもわからないわけだが、我々は原発問題を語る時に「起きるかわからないからやらなくて良い等という事はありえない」という事を学んでいるわけで、住宅基盤のない地域を住宅地とするのであれば、原発のコスト試算と同様に、その不足した住宅基盤の整備コストもまた販売コストや投資予算に含めるべきで、それが正しく計画されていない、実行されていないのであれば、原発問題と根っこの部分は同じなんじゃないの?と感じる。

 

今後もこのような災害は残念ながら増える事が予想されるわけで、それぞれの立場で、それぞれが責任をもって対応する必用があるのでは?と思うのですが。

 

社会の枠組の中につなぎ止めることの意味

 

ダイキン、育休中の社員「阪大生」に  :日本経済新聞

理解できていない人も多いが、社会の中で生きている人間が突然「育児」というものと黙々と向き合う事は鬱の原因にもなる。対策としては社会から孤立させずに社会的つながりを維持する中で向き合わせる必要があるのよ

 

同社の思惑がどこにあるかという事は別として、私はこの取り組みの一番の評価点は、それまで仕事を通じて社会の枠組に関わっていた人間が、育児という切っ掛けにより孤立し、そこで追い込まれるような状況から少しでも脱却できる可能性を持っている点を評価している。

 

日本では異常な迄に専業主婦/主夫信仰であったり、家事の分担至上主義という相反するものが秩序無く氾濫している結果、本当の意味で助けが必要な人に何も手が届いていない現実がある。

 

特に、それまで仕事を中心に生活していた人間が、出産や育児という切っ掛けだけでいきなり全てのスイッチが切り替わるわけでもない、が、それらは何も待ってはくれない上に、環境が整っていない中でさらに孤立した環境でそれらと向きあわなければならないというジレンマがある。

さらに言えば、その先にまっているものは、キャリアを捨ててでも組織という社会の枠組に戻るのか、それとも組織ではない新しい社会の枠組に入るのかという極端な2択しかなく、これでは鬱になっても仕方が無い。

 

そういった中で、選択肢が増えるという事は間違いなく良い事であるわけで、子供を産んだら将来の自分を捨てなければならないという決定をする必要もないし、逆に、それを切っ掛けに今までとは違う生き方を選択する事もできるわけで、これは単純に選択肢が増えただけであって喜ばしいことであると思うのだが。

 

日本では冒頭に述べた様な、極端な専業主婦/主夫信仰や家事の分担至上主義によって凄く「自分達に合った選択」というものが失われており、それもまた私は窮屈で生きづらい世の中の原因の一つだと思う。

 

別に分担するなら双方共働きで、生計はともに支えればよいわけだし、一方で、機能的に分ける方が効率的であるとするならば、それぞれ専業として行えばよいだけの事。

 

世の中では云々とか、となりの家庭は云々などというのは、基本的に社宅社会のような同じ会社で同じ給料を貰っている集団の中でのみ意味をなす話しであって、現代のようなそれぞれがそれぞれの事情を持った環境では全く意味は無い。

 

同様に、出産や育児によってその後の人生をどう生きるのか?という選択も、その人1人1人の判断や希望によって選択できる環境があるべきだし、その選択がその人の決断に委ねられるというのはとても良い事だと思う。

 

何より、今までは選択肢が無かった社会とのつながりを維持するという点について私はその合理的で有効な選択肢が加わるという事については、仮に欠点があるとしても受け入れるべきだし、欠点はその後の見直しで改善すればよいだけの事だと思うのだが。

 

全てが最初から満点で完璧などというのは傲慢で、最初は間違いや失敗も受け入れるべき、その経験や体験を通じてよりよい未来というのは築かれるわけで。