何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

都合の良い「寛容さ」なんていらない

 

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠

いや、そういったものがどんどん変化するのが時代だろ。例えば子育てなんてものは昔に比べて今は「できない」という意思表示は容易になっている。時代とともに人の感性も重要とするポイントも変わるわけでそれは当然

 

書き方は丁寧だが、中身はトンデモ理論なのでアレなのだけど、一応真面目に意見を述べると、それは「寛容さ」ではなく「自分に都合のよい寛容さ」でしかないだろ。

 

物事を入れ替えて考えてみて欲しい。

例えば、昨今話題のセクハラなんてものは、一昔前では「その程度女が社会にでるなら受け入れるべき事だよ」などと本気で平然と言い放つ人もいた。これは男性から女性だけでなく、女性から女性に対してもだ。恐ろしい。

 

この問題は昨今では当然「許されない」し「理解」もされない。

これは世の中が「不寛容」になった為だろうか。

違うだろ。

 

元々それはやってはいけない行為でしかなく、それを「自分達の都合が良いように解釈していた」だけのこと。

 

ダメな事を自分が行う為に正当化していただけで、実際には正当化できるだけの根拠も理由もなにもなかった。

 

タバコはどうだろうか。

タバコを批判する人には概ね2つのタイプがある。

一つは公共の場や他人に迷惑の掛かる場所では辞めて欲しい。自己の責任で周りに迷惑を与えないならすきにすればいい派。私が思うにこれが多数だと思う。

もう一つはタバコ憎し、喫煙者は駆逐すべき派。確かにいる、が、全体を見ても少ないと思うが。

後者のタイプについては極論過ぎて前者の派閥ですら「そりゃ言い過ぎだろ」というレベルであって論外として、そもそも公共の場で他人に迷惑を掛けないというのは当たり前の事であってそれ以外のなにものでもない。

 

というときっと「いや、昔は公共の場で云々なんてなかっただろ」という人間がいるだろうが、それが「そもそも間違っている事を平然とやっていただけのことで正しいわけではない」という事だ。

 

ただ「公共の場」と呼ばれるもの自体は時代により変化しているという事は事実で、例えば、一昔前の公共の場というのは非常に狭かった。

極論言えば、ただ人が多く集まる程度では「公共の場」とは呼ばなかったし、多少人が集まってもそれは「勝手に人が集まっているだけの場所」であって「自己責任でしょ」という意見も確かに少なくはなかった。

 

しかし、昨今は情報化社会になり、人が画一化する時代であるため、何かしらの情報が飛び交うと、その情報に操作されるかのように人は一気に行動する。

 

結果として人はより局所に集中し、その場所では「ローカルルール」のようなものが構築され、何れ「公共の場」のような曖昧な定義の場所が増えていく。

 

ただ、この事をただ「不寛容」と言ってしまってはダメ。

 

なぜ「ダメ」なのか、という事をまずは考える必要がある。

 

例えばタバコについて言えば、そもそも「なぜ他人に寛容さ」を求める必要があるのか考えた事はあるのだろうか?

 

貴方が「当然」と思う事について、必ずしも他人は「当然」とは思わない。

これは当たり前の事で、今更説明するまでもない。

 

この時「当然」と思う事が同じであれば問題はないが、それが違う時はどうするべきだろうか?

 

「私の当然を貴方は理解してくれないから貴方は不寛容な人間だ」

 

これは正しい評価だろうか。

私からすれば「どちらも不寛容」でありどちらも「自己中心的」なだけで、どちらも正しくない。

 

「寛容さ」という話しでいえば、昔は単純に「喫煙者が社会に多かったので非喫煙者が寛容な心で受け入れていた」という事を喫煙者が「そう思い込みたいだけ」の事で、実際は「そもそも非喫煙者は受け入れて等いなかったが社会で多数はであったり、家内で発言権の強かった人間が喫煙を当然のこととしたので受け入れざるを得なかった」という事が事実であって、昔から他人に影響を及ぼす喫煙は正しくなどなかったわけで。

 

他人に影響を及ぼす事が正しいのか、正しくないのかという事は多分に議論の余地を残すが、歴史を遡っても、その時代毎に少なくとも何を問題とするかという違いはあれ、他人や他家、他国に対する影響力の行使は侵害や侵略として問題視されている為、ここでの定義も問題ないだろうとは思うが。

 

何れにせよ「寛容さ」を「自分に都合の良い寛容さ」として使うのは適切ではないと思うし、そんな事を正しいとすればもはや国どころか人どうしも共存することはできないので、それこそどこか無人島で暮らすしかないのではないだろうか。

 

なお、「自分に都合の良い寛容さ」等と書くと記事主は「私はタバコは吸わないので私に都合がよいわけではないのだが・・・」等と明後日の意見がでてきそうなのであえてかけば、ここでいう「自分に都合が良い」の定義は「自己の主張に沿った」という解釈をして頂ければ論旨は伝わるものと考えていますのでよろしくお願いします。

 

社会が発展し、便利な世の中になると「できて当然」「理解されて当然」と人は思いがちだが、そもそも「当然」な事などないし、人が一人以上で生きている限りは「自分と異なる意見」がそこにあるわけで、そうである以上その「自分でないなにか」と対話するしかないわけで、そこで「相手が寛容であるべき」などと言い始めればもはやそれは「対話」ではなくただの「一方的な要求」でしかないことは理解すべきだと思う。