何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

話しを複雑にする周囲が問題かと

 

批判の文化が日本を技術後進国にしているかもしれないという話 - メソッド屋のブログ

逆だろ。技術者としてで言えば単純に間違いは間違いで受け入れるそれだけ。人格攻撃がされたなら別だが、単純にテスト漏れや実装漏れがあったことが指摘された程度で「批判は慎め」とか言われるのはおそらく日本だけ

接触確認アプリの不具合という問題の所在は、OSSコミュニティではなくリリースプロセスの不備にあるのでは|Hal Seki|note

だからこそ不具合があり指摘されたら「おっと、すまん、修正するわ、指摘ありがとう」で終わる話。それを周囲が「社会的意義」とか「OSS活動云々」とか全く関係の無いワードで混乱させただけだと私は思うが。真逆かと

 

僕は先の記事でも述べたが、これは全く逆だと思う。

今回の件は、指摘された不具合が実際にあり、それ自体は事実であったわけで、技術的視点で言えば「指摘ありがとう。直しておくね」程度で終わる話。

 

確かに高木氏の指摘の方法が正しいのかという評価は人に寄ることは私も認めるが、それ自体は事の本質だとは思わない。

 

一番の問題は、ただ単純な不具合の指摘が、アプリの社会的意義であったり、活動の価値であったりと、本来のコードの品質や技術的視点とは全く関係のない話しにそれ、それ自体が本質であるかのようになった事だと私は思う。

 

なぜ、たかが指摘が活動の批判と捉えられたのか私にはわからないし、逆に、今日本の技術界隈が単純な不具合に対して公に指摘する事が問題であると断定するのであれば、もう日本の技術界隈は終わりだろう。

「このアプリは意義があるから、文句を言わずに使うべき」等と、どの国でそんな議論がまかり通っているだろうか。

 

前提として人は間違うし、コードのミス、実装の問題、設計の矛盾などいくらでも問題はでてくるわけで、それはOSSだからではない。

だからこそ間違いを認める事を容易とするべきで、間違いが起きてしてきされたら「ありがとう」で済ます事のできる環境が技術者には必要。それこそが技術者が常に新しい事にどんどんチャレンジできる環境で、批判はあるべきではないというのは私は全く本質を得てはいないと思う。

 

技術者は「間違いが内包されている前提」で、テストを行ったり、そもそも設計段階からどのような方法によりそういった内包された不具合を限りなくゼロにできるのかという事を常に目指している。

 

それは手法という技術的な面もあれば、レビューのような比較的薄い情報も含まれ、極論いえばエクスペリエンスという事ですら不具合という一つの事象の手がかりにすらなり得る。

 

そういった様々な情報を受け止める必要はないとすれば、もう技術が高まる事はないだろう。

 

別に暴言や批判を一方的に受け入れろ、といっているのではない。

事実は事実として受け入れる、これはコードと自分の考えのどちらが正しいのかという視点でみれば、単純な話しで基本的にはコードが正しい。

そこに事実として不具合があればそれは事実として受け入れ、単純にそれを改善するだけの事に過ぎない。

そしてその不具合からは点の問題なのか、線なのか面なのかという様々な情報が得られるわけで、それを生かす事が技術革新だと私は思う。

 

その循環を否定すれば、有るべき姿、到達すべき所、より良い形、それらを否定する事と同義だと私は思う。

 

技術の話しに政治的な議論や社会意義などを持ち込むべきではない。

ただ単純に、コードや仕様は正しかったのかどうか。

間違っていたのであれば修正する。

ただそれだけで良い。

 

当然その裏には人間的な感情や活動に対する思いもあるとは思う。

が、それとコード、仕様、アプリの正しさは関係ない。

 

この話はOSSであったかどうかではなく、単純に技術的議論がいつの間にか政治的な議論や社会意義のような議論で混乱させられた結果、謎の到達点に到った非常に良くない事例だと私は思う。