何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

それが許されないのが今であることを自覚する事が大事

 

『この幸せは母親の特権だ…』息子が作った切り絵作品が素敵すぎて商品化希望の声が集まる「展覧会開いてほしい」 - Togetter

"母親の特権"という表現は実際のところ"はだいろ"という表現と同じなんだよね。悪意はないと思うが、その権利は別に母親だから持っているものではないわけで。"母親"を神格化するような表現は同じ母親への呪いでもある

 

まぁ、私の子のコメントを批判する人間は大量に発生するだろうと思ったが、コメントしない事はそれこそ某騒動と同じで「無自覚な加害者」になるわけで、それはすべきではないかなと。

 

取り急ぎ最初についたコメントとしては以下のもの。

 

『この幸せは母親の特権だ…』息子が作った切り絵作品が素敵すぎて商品化希望の声が集まる「展覧会開いてほしい」 - Togetter

「母親の特権」って、このツイート主が自分が母親だからそう言ってるだけでしょ… 他人が言ったらそりゃ問題だけど。勝手に変な意図汲んでる人なんなの?

 

そんな事は当然判っている。

例えば例示した「はだいろ」という表現も同じ。

別に特定の色を侮辱する意図も差別する意図もない。

でも、実際に私たちがこれまで「はだいろ」と考えていた物以外にも「はだいろ」は存在するし、それは人によっては「黒」であったり、人によっては「白」であったりする。

私たちの肌の色が何色であるかという事と、肌の色として特定の色を定義をするという事が許容されるかという話しは別の問題で、その特定の色が「肌の色」であると定義する行為が今は許されない時代。

 

つまり発言者の「この幸せは母親の特権だ」という発言は、正しく解釈すれば「この体験を得る事ができたのは、彼の母親をやってきた私だけの特権だ」という意図であると仮定でき、おそらく悪意はない。

が「はだいろ」と同様に、悪意の有無が問題ではなく「子供から与えられる体験や感動は母親だけのもの」という表現をする事自体が問題なんですよ。

 

子育てという行為について、少なくとも日本では父親が中心になっている事は少数で、まさにマイノリティであるといえる。

これは、そういった状態が問題(つまり、父親が子育ての中心に不在である)事自体が問題ではあるが、それでも、父子家庭に限ったとしても父親として子育ての中心にいる人間は少なからず存在する。

そういった人間から見た場合「母親だけの特権」という表現を正しいものとするならば、その特権は父親には与えられない事であると受け入れるものであり、それは男・女や父親・母親という性別や境遇による違いにより権利が制限されるという事を許容する事になる。

 

これはめくじらを立てて議論する事ではないと感じるかもしれない。

でも、この小さな問題、小さな波紋を一つずつ向き合って、改善する事が大事で、今社会が向き合う事だと私は思う。

 

大事な事は、ある人にとっては当然の事が、違う人にとっては当然ではないという事。

今までの当然が、これからも当然ではないという事を自覚し、常に向き合うという事が大事で、間違う事そのものは何も問題はない。

 

だが、こういった小さな課題が見つかった時「いやいやこんなの悪意なんてないんだから問題ないでしょ」「何過剰反応してるの」「またミソジニーが」等と自分達の価値観を中心に少数意見、少数者の存在を否定していては何も変えられない。

 

私は「はだいろ」と言う表現同様に、こういった日常的で何気ない事ともちゃんと向き合う事が大事で、男性や女性という特定の属性に依存した表現であったり、ある役割を特定の属性の権利として主張する事は、もうすべきではないと思う。

 

この事が理解できるのか、できないのかというのは、ある意味大きな岐路だと思うし、自分は理解できる人間でありたいし、今まで私も理解できていない発言や行動は多々あったと自覚している分、今後はもっと向き合っていきたいと思う。