何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

個人の意見と組織や団体が持つ意思・意見の違い

 

【スピーチ全文掲載】SEALDsKANSAIともかさん「安倍総理。民主主義が生きている限り、私たちはあなたを権力の座から引きずり下ろす権利がある。私たちは来年、戦後71年目を無事に迎えるで

で、どうしたいのかね?日本が置かれている微妙な環境、状況、そしてこれから迎える難しい問題に対してただ「平和」の一言で乗り切ると。彼のやり方は間違っているものもあるが、対案なき批判はそれもまた罪だよ。

2015/07/20 12:21

 よんだ。

 

この意見が僕は彼女が個人で新聞に寄稿したものや、なにかを通じて発表されたものであれば何も言わない。

 

ただ、これはある団体に属する人間がその団体の意思(または意思の一部)として意見を表明しているものである以上、僕は対案なく意思表明は無責任に過ぎないと思う。

 

安保がらみでは何度も意見を書いてきましたが、様々な問題があるのは事実です。

 

一方で、その問題の中に日本が置かれている微妙な状況や周辺国のみならず世界が昔とは異なる秩序で動く始めており、戦後これほど変化している時はないでしょう。

 

その中で、日本だけが時を止め、何事もなく過ごすことができるはずはありません。

仮に安保法案でなかったとしても、何かしらそういった時代の変化に適切に対応する何かが求められており、その事に政治のみならず対峙する事は非常に重要です。

 

個人があることについて「反対である」と意見を述べる時に、僕は対案は不要だと思います。

それは個人とはその程度のもので、当然対案を出せる人間もいるでしょうが、多くの人は「不安である」「難得できない」等その程度の個人が感じた感情や感じる空気について意見を述べる程度で、それが本音であるからです。

 

一方で、それが組織や団体になるのであればそれはまた異なる結果や目的となり話は違ってきます。

 

組織や団体というものは、数の力を何かしらの目的の為に集結させます。

その目的がどんなものであれ、それは「力」をもって相手に対峙する事を一つの武器としています。

 

例えば、現政権が衆参における数の力で安保法案を押し切った事が暴力であるというならば、同じように数を集めて意見表明するだけであれば単なる暴力でしかありません。

 

もしそれを「暴力」でなく「秩序ある行動」であるといいたいのであれば、組織や団体として「対案」を出すべきです。

 

それを提示すべき相手は「現政権」に向けてではありません。

 

貴方たちが「数の力」を使って、少なくとも選挙という手段によって選ばれた代表が決めたものを覆すという事を宣言するわけですから、その「対案」はそれを選んだ民意に対して明確に示すべきです。

 

それを示さず、ただ片手落ちした意見を述べるだけというのは、あまりにも無責任で、それは私は民主党がやったことと全く同じだと言わざる得ません。

 

ある意味都合のよい意見だけを述べ民衆から支持を得る事は容易です。

但し、我々がこれからあゆむ10年、数十年という年月は我々だけでなく周辺国やすべての国の緊張、アメリカという大国と中国という大国の関係の変化や、資源エネルギーにより微妙に保たれてきた中東とのバランスの崩壊に起因する中東の本質的なリスク、ヨーロッパにくすぶり続ける主導国と参加国の問題、ロシアを中心とする旧東側諸国問題、中国が仕掛ける新シルクロード戦略に起因する課題等、上げればきりのない問題が政治的にも経済的にも軍事的にもそこには生じており、我々はこれらとこれから数十年辛抱強く対峙しなければなりません。

 

その現実を無視し、ただ、都合の良い事実のみで民衆を扇動し、その結果何が起きてもだれも責任を取らないなどという無責任な結果を押し付けるのであれば、私は現政権の強引な安保と何が変わるのか誰か説明していただきたい。

 

僕からみれば、きれいごとを言っているだけで、何も変わらないし、責任をぶつける相手がいない分たちが悪いと思いますがね。

 

組織・団体として活動しているのであれば、自分達だけでなく万人に向けて多くの人が納得する安全保障の対案を出すべきで、それが出せないというのは少なくとも組織や団体の意見としては、最低限のスタートラインにすら立っていないと私は思いますがね。