何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

人生は自分と相手の関係だけではなく、すごくいろいろな人の思いで自分はできているということ。

あらかじめ書きますが、お酒を飲んでいます。

なので、いつも以上に乱文です。ごめんなさい。

でも、より感情がこもっているので、糞文章でもそれが私の本性ですから、ごめんなさい。

 

先日、田中泰延氏のコメントに無責任であるという趣旨の記事を書き、それはそれで個人の感情として本音を書きました。

で、ふと今日、妻と外食をし、男児置き去り(彼の人生は彼のものですのであえて氏名は書きません)の件について語る事があり、思い出したのですが、私も小学生の頃同じことを父親にされた事を思い出しました。

ただ、ぜんぜん境遇は違い、私の場合は、祖母の家からの帰り、兄と車の中で喧嘩をして、両親の注意も聞かず私と兄は喧嘩を続けたところ、確か、父から「そんなにおにいちゃんがいらないならお兄ちゃんすてるけどお前はそれいいのか?」と問われ、私は「いいよ、お兄ちゃんなんていらない」と答えたところ、暫く喧嘩を続けていると父が車を止め兄を車から降ろし、そして私に「お前は今日から一人っ子だな」といい、車を出しました。

はっきりとは覚えていませんが、私はそのとき珍しくおお泣きし「お兄ちゃんを捨てないで」と泣きじゃくり、父がそのまま車を戻し兄を拾い、その後ジュースか何かを飲みながら、父(母だったかも)から「お兄ちゃんと喧嘩してもいいけど、いらないって事はないだろ」見たいな説教をされた事を覚えています。

 

私の田舎は、基本長男が全ての優先権があり、次男は長男に従う的な感じがつよく、その分次男は甘やかされて育てらており、常に何があっても「お兄ちゃんが」的な展開で兄が責めれれ、兄が責任を取るという感じでした。

 

今思うと、私がそういった私に対する(喧嘩は両成敗ですが)戒めて的にその日の罰は行われたのではないかとも今は思います。

 

さて、前文が長くなりましたが、これは某事件はしつけでやむをえないという意見を述べる事が目的ではありません。

 

この話をしたあと、私がなぜ親を憎まず、どちらかというと親と仲良く今でも過ごし、関係を継続できているのかという事を考えたのですが、それは親と私以外の関係がすごく影響あるんだなぁと感じたのです。

 

私は、子供の頃から自分の意見をどちらかというとはっきり持ち、それを相手に伝える事が正しいと感じている子供でした。

なので、親とぶつかる事も少なくなく、確か小学生4年生ぐらい(5年生だったかな?)で全力で家出をした記憶があります。

そのとき、私は祖母の家まで自転車で向かったわけですが、母はその事を既に気づいており、後で祖母に聞いた話では事前に受け入れてほしいと連絡が合ったらしいです。

当然、私はそんな事も知らず、私の選択肢には祖母の言えば、隣の県のおばの家しかなく、自転車でいくなら、2時間でつけそうな祖母の家を選択肢し、山道をひたすら真っ暗ななかこいだ記憶があります。

 

そのとき、11時か、12時ごろだった気がするのですが、夜祖母の家に着くとおじがおり、笑いながら「おお、よくついたな~」的な感じで私の怒りや緊張感以上にあっさりと受け入れてくれて「自転車は来るまで持ってくからまぁ飯でも食え」的な感じでそのまま祖母の家で晩御飯を食べた記憶があります。

 

叔父とは今でも仲良く、私は帰省する都度お土産を持っていき、叔父も上京するつど、私と妻と一緒にご飯を食べたり、私の母と叔母がコンサートにいったり、母、叔母、私でコンサートに行くこともあるなど、本当に親のように接してくれています。

 

ふとおもったのは、私が親とうまくいかなかったとき、常に、叔父や叔母、祖母が間に入り、父や母とは違う見方で私と接し、もっと冷静に私と向き合ってくれて、そして私はその結果、父や母といろいろな視点で向き合えたのだと思えます。

 

どちらかというと私の家は、母は自由な育て方をする人(元保育士でもあるので、ある意味プロ)でしたが、父は教育者(代々地方の校長や学長を継ぐ家系。今はもう違いますが)一辺倒の家でしたので厳しい育て方をする人でした。

なので、ある意味場合によっては虐待では?と思えなくはないし、自分でもあれは微妙な対応されたなぁ、と思うし、あれは僕でなければ大丈夫だったのか?なんて思う事もあります。

 

でも、このあたりの話が、今、冷静に振り返れるのは、叔父や叔母、祖母などいろんな人がそういったことに一緒に向き合ってくれて、たぶん私に遠まわしに「お前ほんとわがままだなぁ」といった日に、たぶん父や母にも「あいつも大人になってきたんじゃないの?」みたいな話をしてくれてたんじゃないかなぁと思うんですよね。

 

2月に叔父が上京したとき、叔母の誕生日祝いをかねて食事会をしたのですが、「いやー、もう俺も退職だから、もうなにもできないな、これからはよろしくな」みたいな話を笑いながらしたのですが、叔父が退職するなんて考えた事もない自分は「あぁ、もうそんな年で、僕も叔父とお酒を飲みながら、叔父に『よろしくな』なんていわれる年になったんだなぁ」なんて思いましたが、今思うと、本当にいろにろ支えられてきたなぁと思います。

 

家出をしたときもそうですし、祖父がなくなった日、父が亡くなった日、母が倒れて緊急入院した日、私が結婚するといって予告もなく妻を実家に連れて行った日、本当にいろんなところ、私の周りの人間が、私たち家族を支えてくれていて、そして私は、やっとこの程度の人間になれたんだなぁと思います。

 

この事件や田中泰延氏の発言について記事を書きながら思う事は、親がやれる事、子がやったことなんて本当に一握りの事で、おそらく記憶に残らない以上に、たくさんの、たくさんの事があり、僕は今ここにたどり着いているという現実と向き合いました。

 

今親である人、今親とうまくいっていない人、いろんな人がいると思うのですが、親と自分、子と自分という閉鎖的な考えからもし少しでも抜けれ出られれば、もしかすると、今しょっている荷物のちょっとの部分を降ろすことができるかもしれません。

 

もう僕は35歳も超えました。

結婚もしました。

子供はまだいません。

 

でも、自分がこの年になって、こんな事件や記事をみて、書いて思うのは、まぁ、親と子が思う以上に、自分たち以外の人に支えられて、いや、いろんな人の方が親と子以上に実はすごく大事なところでいろいろと支えてくれていて、僕はその支えの結果、親ともうまくやっているし、おそらくは妻ともうまくやっているのだと思います。

 

あの両親がどんな人か私にはわかりませんし、詮索するつもりはありません。

田中泰延氏がどんな親であるかはわかりませんし、彼の子が彼の発言を見て将来どう感じるかもわかりません。

 

が、私が思うのは、まぁ、もし何かあれば、もっと周囲を頼ってもいいと思うし、頼られたときは、お前も昔通った道で、小さい事でも何かして上げられるんじゃないの?とは思います。

 

それは私の話でいえば、叔父や叔母、祖母は常に私には両親について否定的なことは言った気はしませんし、それは、関係について否定する気もなかったからかなぁとも思います。

大人になると、思いのほか叔父はいろいろな意見を持っており、実はちょっと尖ってるな、と思うのですが、小さいときの感じでは、子供の自分には拠り所的な雰囲気もありました。今でもそうですが。

それは叔父なりに、父と私の関係についてちょうどいい距離感で関与してくれていたのだなぁと感じますし、そのおかげで僕は父と最後はうまくやれたと思います。

 

私は小さい頃は父の仕事、つまり教育者としての道に進むつもりでいました、その後建築家を目指したいという夢もありましたが、教育者の道を進まなくなった切欠は、父の教育方針というか、家庭よりも、自分よりも児童、生徒の事を優先するという現実と向き合えず、その結果、教育者というのは家族を不幸にするのではないかという疑念で、いつからか今はっきりとは思い出せませんが、そんなことで教育者という夢を語らなくなりました。

 

が、年を重ねて、いろいろな人の話や、自分が仕事をしながら、家庭を支える立場になったとき、あぁ僕は子供がいない状況でこの有様で、子供がいるなかでどこまで自分は自分らしく、家族と向き合えるのだろうか、と考える事も増えました。

 

まぁ、父は亡くなってしまったのですが、その最後に、父が、母を幸せにしてほしいと残した遺言があり、母は十分幸せだったという言葉を発したとき、あぁ、父も完璧な人間でもなければ、自分の限界をわかっていて、人生の後悔として、母にもっと幸せになってほしいと遺言を残し、私たちにはありがとうと言ってくれたわけですが、自分が死ぬ間際に、最後の最後に妻にもっと幸せな残りの人生を送ってほしいと伝える余力と、妻から「十分幸せだった」といわれるだけの人生、それを枕元や遺品整理のときに遺言や最後の言葉(厳密には人は死ぬ間際は言葉は語れないので、最後より少し前ですが)として聞いた子として、あぁ、この人は僕や仕事と向き合う中で、マジで母に幸せになってほしいという事が常にあり、僕が大人になるなかで、いろいろといわれた事や、された事は、結局、貴方が死んだあと、母と僕が歩む道で貴方が判ってほしいとおもった事を伝えていたのだなぁ、と思えたのも、結局は、いろいろな局面で、周囲の人が、それをシコリとならないように、本当に上手に、対応してくれていたのだなと思います。

 

父の中でたぶん、優先順位は母、僕ら、自分だったんじゃないかなと思うんですよ。それが常に子育てにもでていて、死ぬ間際にもでていて。

でも今子の年になると、それってすごい事だなって思うし、その方針でお前よく子育てと夫婦両立してきたなって思うし、母もよく、父の相手と子供の相手をうまくやりぬいたなって思うし。

 

それが成立したのも、母、叔父、叔母、祖母みたいないろんな人がなんかその空気のなかでうまく立ち回ってくれたからだったんだなって思うんですよね。

 

そうかんがえると自分が思う以上に、僕はいろんな人の思いの結果(相手がそうおもっているかどうかしりませんが)で生かされていて、その影響で僕という人間なったんだなと。

 

だからこそ、まぁ、子育てって、本当に一人では無理で、どんな人でも、私の父のように周囲から見ればパーフェクト(家族から見れば欠点だらけですが・・・)みたいな人でも、結局はいろんな人の助け、支えがあって、なんとか成り立っていたのですから、子供とうまく向き合えないってことや、どう向き合えばわからないって事は、だれか、なんとかいろいろな人の力があれば、無責任ないいかたになるかもしれませんが、なんとかなるんじゃないかなと思います。

 

それでもなんとかならないこともあるかもしれません、でも、それは一人でできない時点で、周りの支援を受けるしかなく、それでもだめなら仕方がないと思います。

いや、子供には親しかいないだろう!という人もいますが、いや、でも、親は神様じゃないし、僕なんて甥っ子の面倒みるだけで、ぶっちゃけくたくたになることもあるわけで、本当に365日、背負い込まなくてもいいし、背負い込めない事をざんげする必要もないと思うんですよ。

 

心から「だれか助けて」っていっていいし、言う事は全然悪い事じゃないし。

 

僕の環境はたまたまいわなくても、いや、いっていたのかもしれないけど、うまく周りが対応してくれていて、なんとかなったんだと思うし、僕は結構面倒な子供だったという自覚もあるので、本当に回りは僕のために時間をつかってくれていたんだとも思うし、でも、僕みたいな糞ガキでもちゃんと大人になって結婚して、家庭をなんとかまわしているわけで、妻ともちゃんとコミュニケーションしているわけですから、誰かに支えられても、子供の将来はなんとかなるんですよ。

 

抱え込まなくても何とかなるんで、親も、子供も、本当に、なんとかなるんで、自分を、子供を追い込まなくても大丈夫だって知ってほしいなって思ったんですよ。

 

僕は親じゃないので、親の気持ちは全部はわからないけど、でもたぶん、僕ですら、いや大変そうだなと思うんだから、親経験者の人はきっとその気持ちはわかるだろうし、だからこそ、追い込むんじゃなくて、理解するって方向で、本当になんか、気持ち悪い方向で相手と向き合うんじゃなくて、なんか寄り添う感じで、少子化だし、なんとかならないのかなって思うんです。

 

というか、僕が親になるときには、本当に助けてほしいのです。

 

僕はパーフェクトな人間じゃないし、本当に周囲の支援がないと至らないところはたくさんあるんで。

 

自分が子供と向き合う事を考えると、ただびびってるだけかもしれないけど「どうすればいいの!」って思う事もあると思うんですよね。

そんな時、道で追い込むような事は言われたくないし、そもそもそのとき僕が子供を追い込んでいる事をいっているとしたら僕はたぶんかなり末期だと思うんで、僕がまっとうな子育てをできるように叱ってもほしいし、励ましてもほしい。

 

叔父はもう上京してまで僕の子育てを助けてはくれないと思うし、僕も叔父をこれからも頼ってはいけないと思うけど。

でもやっぱり完璧な人間じゃいられないので、本当に、いろいろな人にお世話になりながら、お世話してもらったのを返しながら、なんとかがんばれればいいなと思う。

 

人間完璧でいられないってことに、もっと寛容にならないといけないし、そうしてくれたほうが、たぶんみんな幸せになれるんじゃないかなと思う。

 

ブコメで勝手な事いってる僕が言うのは本当に無責任だけど、でも、その距離感とか状況とかいろんなことを加味して言葉や内容は選んでいるつもりなので、そのとき、その言葉を、その状況で、その人に伝えるべきなのか、それは考えているつもりです。

 

そんな事を、ちょっとお酒飲んで、コミコみながら思ったので書きなぐりました。