何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

寧ろあのインシデントはベッテルの才能があったからの事

昨晩のF1カナダGPは物議を醸す結果となり、ベッテルは当然の事としてハミルトンにも不本意な後味となったことでしょう。

 

さて、個人的な意見として述べるなら、あのインシデントは仮にベッテルではないドライバーでれば寧ろ大変な事故に発展していた可能性が高く、寧ろ安全措置としてもベッテルは最善の操作を行ったと考えています。

 

オンボード映像含め沢山の映像、写真が出回っているので参考資料集めには事欠きませんが、私が最初に感じた事は「よくこれ2台が絡む大事故にならなかったな・・・」という事です。

 

インシデントとしてみれば、ベッテルがコースオフして、その後のコースへ復帰する時にハミルトンの進行を妨げた、その程度の議論になってしまいますが、実際はもっと危ない状況で、そんな単純な話しではなかったと思います。

 

言うまでも無く、F1の速度で車を安全に停止させるというのは相当難しく、さらに芝生やグラベル上ではコントロールする事すらままなりません。

もしあの芝生の上でベッテルが全力でブレーキングを行っていれば、おそらくマシンは挙動を乱し、ハミルトンがインシデント発生時と同様の走行をしたならば確実に接触しレッドフラッグの対象となるインシデントが発生していたでしょう。

 

あの時ベッテルが行っていたのは、まず第1にマシンのコントロールを失わない事。

カナダGPのコースは所謂公道コースである為、ランオフエリアも狭く、且つそもそものコース幅が非常に狭いことが特徴です。

その為、映像を見てもわかるように、ベッテルがランオフエリアからコースインした際、クラッシュを誘発せずに安全に走行するには、逆側のコースラインに到達する前にコントロールを回復し、且つ、後方車両との接触を起こさないという事が必要となります。

 

仮にベッテルがコントロールを失い、コースイン後も逆側のコースラインを超え壁に激突していれば確実にハミルトンと共に多重クラッシュとなってしまっていたでしょう。

 

その為、兎に角ベッテルがやるべき事は、何が何でもコントロールを失わないという事だけで、それはF1規則でも定めている安全規則にも準拠した行動であると考えます。

 

 

おそらく、あれがベッテルでないドライバーであった場合、本当に同様の操作ができたか?と問われれば私はトップクラスのドライバーでも難しいと考えますし、仮にそれができずに多重クラッシュとなってしまっても、回避できないよなぁ・・・としか思わないでしょう。

それ以前の原因となったミスは責められるとしても。

寧ろ、中途半端なドライバーであれば、反対側の壁が怖くなり無理なブレーキングを行った結果、コントロールを失いそれが原因で多重クラッシュに至る事の方が可能性としては高く、あの結果は明らかに「彼だからただのインシデントでおわる事ができた」としかいえないものです。

 

ですので、ベッテルが無線などで再三訴えていた「あの状況ではあれ以外の操作は選択する事はできなかった」というのはその通りだと思います。

 

その他、気になる点としてはFIAの裁定理由と裁定結果です。

FIAが公開しているドキュメントでは「危険な方法で強引にトラックへ戻った結果、カーナンバー44をコース外へ押し出した為、カーナンバー44はそれを回避する事を強いられた」とあります。

 

まず、映像などを見る限りベッテルは強引に戻ったというよりも「最も安全な方法を選択した結果」マシンをコントロール下に置くためにあのような走行となった、と考えるのが妥当でしょう。

 

私の見落としがなければベッテルオンボード映像ではアクセルを踏んでいるランプ(変速指示のランプ)は確認できておらず、少なくとも無理矢理突っ切る為に強引な走行を目指した行為はなかったと考えます。

 

また、コース復帰後のハンドル操作を見ても、かなり左右にハンドルが振られており、いわゆる芝生のようなグリップの低い路面からグリップの高いコース上への復帰により後輪のパワーが暴れた部分を強引なブレーキングを使わずになんとか壁への接触を避ける為にコントロールした結果の操作であると見受けられます。

分かり難いのですが、F1マシンのタイヤは主にタイヤ自体の粘着性とダウンフォースを利用してあれだけのパワーを後輪駆動という仕組みで安定的に稼働させています。

その為、速度の安定性を欠いた状態であったり、ダウンフォースが抜けている状態であると後輪に偏ったとてつもないパワーを正しく前方に向けるだけでも非常に難しく、少しでもブレればそこに一気に大きな力が働き、ハンドルが暴れ出してしまいます。

最近でいえば中国GPでアルボンがクラッシュした映像がわかりやすいと思いますが、たったコースオフ後、ランオフエリアの芝生の中にあった数十センチ幅のアスファルトの路面を走行した瞬間にグリップの違いからマシンが暴れ、あれだけの事故を起こしてしまうわけです。

 

それと同じ状況がコース復帰時、厳密にはコースオフからコースへ復帰し、姿勢が正しく戻るまでの間ずっとマシンをコントロール下に置くために必死に操作した事が、映像からもマシンの挙動からも判ります。

 

その結果については見てわかるように、車両自体の接触はなく、結果として後続車であるハミルトンの進行を妨げたという事実のみ残りました。

 

結局の所、裁定すべきはこの部分のみであるべきで、ベッテルは意図的にハミルトンの進行を妨げたのか?という事がペナルティの審議になるのが妥当でしょう。

 

 

あくまでも個人的見解ですが、私が見る限りはあれはレーシングインシデントであり、寧ろベッテルは多重クラッシュを発生させなかったわけであって、それ以外の何物でも無い結果であったと思います。

但し、自身がコースオフしたという事実はかわりませんし、その点については当然ドライバーとしての責任を負うべきところでしょう。

 

当然、ハミルトンが悪いわけでもありませんし、なぜ彼にブーイングを浴びせるのか?という話しはあります。

そもそもコースオフしたはベッテルなので、それが原因である以上、FIAの裁定がどうであれ、原因は彼にあるのであって、ハミルトンにはないですからね。

 

ただ、そういった後味の悪いものにした原因は明らかにFIAにあると思いますので、FIAはあのブーイングは自分達の行動の結果、本来批難されるべきではないハミルトンというトップドライバーに対してファンのヘイトを集めたという点を十分理解してほしいものです。

 

それは年金制度の問題ではなく、実質賃金の伸びの問題

 

金融庁が年金給付水準の維持は困難と明言 国民に「自助」呼びかけ - ライブドアニュース

一応マジレスしておくと、仮に年金制度を完全廃止しても大凡貯金する人は全体の半数にも遠く及ばないので、結局公的補助の負担は現状と変わりなく労働世代にのし掛かる上、計画的な備えがないので加速度的に破綻する

 

最近忙しくてコメントへの返信も滞っています。

週末にでも時間ができたらまとめて行う予定です。

 

ちょっと気になったのが、この記事、基本あまり意味はないのですが、ただ、解釈を勘違いしている人もいそうなので、ちょっとだけ。

 

そもそも年金制度が負担を次の世代に肩代わりさせているだけの代物と成り果てたのは、設計した時からの問題であって今更議論する必要はありません。

ただ、当時は基本は実質給与も労働人口も少なくとも横ばい、または一定の増加をすることを想定した設計であったため、単純に段階的に支援の規模は膨らむ為、現状危惧されているような状況には陥らないという想定(希望的観測?)でした。

 

一方で、実際には少子化は当然の事として、人口構成の歪みや、都市部と地方の不均衡、世界的経済の影響、そして実質賃金の伸びの問題と、根本的にねじれる原因がありすぎて如何ともし難い状況であるわけです。

 

人口問題も致命的ではあるのですが、それ以上に厳しいのが物価と賃金の不均衡な状態です。

特に、日本は言うまでも無く見かけ上は輸出により外貨を稼いでいますが、その源泉は輸入により支えられています。

 

輸出入は当然外貨を基準として行われますので、外貨と自国通貨の関係が正常なものでなければなりません。

ここでいう「正常」とは、単純な為替レートの話しではなく、物価と所得を総合的に勘案した通貨間のバランスという話しです。

 

海外でも物価は一定の割合で右肩上がりなわけですが、一方で給与支給額も一定の伸びを示しています。

当然と言えば当然なのですが、物価が上がる以上は企業の売上にも一定の寄与がなされるわけで、それが労働者へ還元されて初めて市況をした支えできるわけですから。

 

所が日本ではこのバランスが全て崩壊しています。

実質賃金は基本的にマイナス成長であるため、物価が上がっても結果的な購買意欲は上がりません。

さらに、前述のとおり国内景気は自律的なものではなく、輸出入を中心とする諸外国との関係に大きな影響を及ぼされるものの、外貨と自国通貨の関係も正常な状態ではありません。

留めに米中貿易摩擦は激化しており、ここも諸外国との取引においての一定の影響を及ぼす事から、そういった事も今後の国内景気や労働者への賃金への影響を及ぼすでしょう。

 

結局のところ、自国で管理できるもっとも単純な指標としては、実は実質賃金でしかなく、それ以外のものは自国だけでは到底コントロールできないわけです。

しかし日本はその点すらコントロールできておらず、日本以外の国でもそうですが、この部分をコントロールできない国は基本的に詰みます。

いや、資源国だけは除かれますが、中東を見てわかるように、彼らですらその限界がある事を理解しており、経済の柱を作る事に躍起なわけで・・・。

 

では年金制度は即刻廃しすべきかと言えば、私はそうは思いません。

 

金融事業に携わるとはっきりわかる事は、基本的に現代の労働者は貯金・貯蓄は行えていないという事です。

純粋に資産がプラスである人は、おそらく政府の統計よりも少ないでしょう。

これは、例えば50万の貯金がある一方で、カード利用額の残高が50万円ある人は、これは(暴論ですが)実質的には貯金は存在しない事と同義です。

確かに将来的な負債を現時点で償還すべき想定というのはおかしな話しですが、ではその状態が5年後に貯金250万円のカード利用残高が0円となっているかといえば、多くの場合でそうではありません。

貯金額は増加する事はありえますが、ライフスタイルが変わらない限り、カード払い、リボルビング払いを使う人は使い続けますし、分割払やボーナス払いを使う人も同様にライフスタイルの変化が訪れない限りは基本的にその構造に変化はありません。

 

ここで考えるべきは、例えば年金制度を廃止し、仮に掛け金の支払い額相当額が労働者にそのまま支給されている状況になったとして、労働者はその掛け金を元に年金制度以上の運用実績を上げることができるのか?という事です。

 

基本的に投資は少額投資での勝率よりも、一定額単位での管理の方が圧倒的に高くなります。

理由は単純でポートフォリオが組みやすくなるためであり、一定の仕組みの分散投資を多重に組み合わせることで、安全性を高めることができます。

 

多くの労働者は個人で資産形成を進めるという事は難しく、所謂年金制度で得られるような期待利回りを得ることはできないでしょう。

 

さらに問題なのは、強制徴収される年金とは異なる為、自律的にそういった行動、つまり給与支給額から自ら判断して固い意思を持ち金融資産を積み上げるという努力ができないと、将来的には完全に詰む事になります。

 

おそらくその時点で利用されるものは低所得者向けの支援制度となるわけですが、これは年金とは違い政府も即時対応可能な資金により運営しますから、年金とは異なり運用利回りにより将来分をまかなうような事はできません。

 

その為、結果として現役世代から徴収する金額を別な名目で拵えるか、または低所得者支援自体を廃止するかの二択になります。

(流石に年齢上限の存在する低所得者支援制度は国際常識的にも不可能でしょう)

 

こういった事情もあり、無茶である事はわかっても、如何にソフトランディングさせるかというのが腕の見せ所でありつつ、もう一つは何れ破綻する可能性のある年金制度、厳密には高齢者の所得獲得という問題について段階的に手を打つ必要があります。

 

その為、兎に角高齢者には働いて欲しいし、現役世代には資産を積み上げて欲しいし、というアピールを政府としては必死に行うしかないのが現状です。

 

これは政権交代しても如何ともし難いことです。

 

ただ、改善できる部分は明確であり、実質賃金部分はコントローラブルなわけですから、ここを管理できるか、できないのか、というのは与党や政府の通信簿となるといってもいいでしょう。

 

もっとも、統計問題があれなので、通信簿を正しくつける事自体があれなので、それ以前の状態である事はいうまでもありませんが。

 

なので、まぁ、年金制度を廃止する意見を検討するときはそういった連帯する問題についても結論をだす必要があるという事と、根本的には年金制度の問題というよりも、足下では実質賃金(給与)の伸びを適正にする事が第一歩で、どのみちそこが適正化できないなら、年金制度を廃止しようがしまいまいが、詰んでいる事に変わりはありません。

結局両方とも共同生活に向いていないのではないかと思うが

 

食卓で箸が度々準備されないことに旦那がキレて箸立てをゴミ箱に投げつけて嫁が家出する事態に - Togetter

旦那は化石的な思考であるとは思うし、実際箸なんて無ければとれば良いだけだとは思う。ただ、相手が気にかけるポイントについて、どうするかという事を何度も起きている事案なのに解決できないのは双方の問題かと。

 

実際起きている事はどうしようもない細かい話しではあるし、そんなの自分でとればいいだろ、と思う。

 

が、本質的にはそういう話しでもないのが、こういった問題。

 

人間は大抵だれしも、こだわるポイントはあるし、それは他人からみたら、本当にどうしようもない事で、理解もできない事も多い、というか、大抵は出来ない。

 

そして、夫婦というのは元々他人であって、どんなに長く連れ添ったとしても、まだまだ知らない事や、理解仕切れていない事などいくらでもあるし、それは永遠に続く問題でもある。

 

実際我が家でも最近起きた話しでいえば、妻がYouTubeにはまっているのだが、その中で大食い動画を見ている。

それは別にかまわないのだが、咀嚼音をそこそこの音量で流されて、私はそれが非常に気持ち悪い・・・、もっとも、私は自分の書斎(書斎ではあるが、実際はリビングと半分繋がっている)で多くの時間を過ごすので、距離をとるなり、音楽を流す成りである程度は回避できるが、寝室などはなかなかクレイジーなシチュエーションも起きる。

突然妻が寝れないときにYouTubeを見ていると自動的にお勧め動画で咀嚼音のする動画が流れたり、見ながら寝てしまい、寝室から延々と咀嚼音が流れ続けている等がそれだ。

 

こういった事も、妻からすれば楽しい出来事の延長線上にある事だが、私からすると他人の咀嚼音をわざわざ聞くという事を理解することはできない。

 

が、ここで「理解できない」という話しで終えたり、逆に「寝落ちは仕方ない」としてしまえば、どちらかが不満をため込むこととなるのは言うまでも無い。

 

結局のところ、こういったことが起きた場合、どのようなものであれちゃんと話し合って解決であったり、回避策を検討するしかない。

 

多くの夫対妻の言い争いの話題では「夫が無能すぎる」であったり、「妻が鬼嫁だから」であったり、そういった結論を出しがちなわけだが、それは単純に、自分の家族や家庭がそういった解決できない問題を抱えており、また、自分もそれの被害者であるから何れかの偏った問題であるとする事に共感を覚えるのではないかと感じる。

 

もっとも、実際に極端な例も多くあるが、それでも「離婚」という選択肢を選ぶつもりがないのであれば、結局は相手に対して「無能な夫」「鬼嫁」等と言っても解決しないことは言うまでも無い。

 

件の話しも同じだと思う。

 

妻からすれば「箸がない事がそれほど大きな事とは思わない」「人間なんだから忘れるのは仕方ない」という意見を全く疑わず相手にぶつけているようだが、それを善とするならば、逆に自分にとっては常識でも相手にとっては非常識と思われる事を受け入れなければならない。

なぜなら、相手にとって「食事についての順番にこだわる」という事や「箸が最初に準備されているべき」という事は拘りのポイントである事は疑いはないわけだから、それは非常識なので従ういわれはないとするならば、当然そうなる。

 

そもそも常識や正解などというのは、大抵の場合、多くの人が正しいと信じたものや、過去の歴史によりそうであると決められている程度の事で、極論言えば、そうでないとすること自体に何らおかしな事はない。

 

箸がない事が当然であるという常識もあるだろうし、逆に、箸がないという事が当然ではないという常識もあるだろう。

そして、それが受け入れられるレベルの問題であるという事もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。

 

その違いが人が個人として自己を表すものであって、その個性を全否定するような話しはこの多様化の時代にどうなのかなとは思う。

 

少なくとも夫のコミュニケーションに問題はあったと思う。

夫からすれば、何度もその点について自分はこだわっているという事を話していたのかもしれないし、もしかするとどうしてそこにこだわっているのかという事も話したのかもしれない。

それでも相手には気遣ってもらえなかったという、もしかすると絶望感があったのかもしれないし、単純に怒りが爆発したのかもしれない。

だが、箸立てをぶん投げて相手がその点を理解する程度の問題であれば、おそらくそこに至っていないし、それで解決しないという事を理解できていない点や、結局その時点で怒りをぶつけるという事自体は自己の感情を一方的にぶつけているだけである点も含め、夫の選択、行動について間違っていたことは言うまでも無い。

 

が、それと同様に、妻に何ら非がないとは私は思わない。

前述のように、箸の順番にこだわるというのは、私からしてもなかなか拘りがあるのだろうと感じるし、正直理解もしがたいものがある。

が、言い換えれば、それだけ特徴的な要望であって、私が妻からそういった相談をされれば、これは中々ちゃんと向き合わないといけないな、となるポイントであると理解するものであって、何となくという対応はしないだろう。

 

相手がこだわっている事、それについて理解し、その事を一緒に向き合って考え、できる事から改善するという手順を、単純にこの夫婦は共同作業として行えなかっただけだと私は思う。

 

ともすれば「家事に理解のない夫」のような意見が飛び交うだろうが、そういう話しはあまり価値がない。

 

なぜなら我々はその夫がどのような夫であるかほとんど知らないし、前述のように、なぜ箸にこだわっているのかも何もしらないのだから。

 

その時点で我々はどちらが正しいかもわからないし、どちらがモラハラであるのかも判定はできない。

 

ただ、少なくとも書かれている事実だけを読めば、何もその過程にについては触れておらず、結論在りきの文章である点や、逆になぜ相手の拘りについて親身になってあげられなかったのかという点が置き去りになっている事だけが私には目立っている。ただそれだけの話題だと思う。

 

食事の面で言えば、結構夫婦に異なる文化的違いが生じる事は多い。

先の咀嚼音の件以外にも、単純に我が家でも食の好みから食べ方まで様々な違いがあるし、それは面白がって話題にできるものもあれば、ちゃんと理解してあげなければならない問題もある。

 

都度、我が家ではそういった点は食事をしながらであったり、雑談の中であったり、いろいろな場で話し合いながら、その中で、これはもっと深く考える問題、これは覚えておけば良い問題、これはあまり気にしなくてもよい問題と割り振りながら、それぞれ向き合っていっているわけで、おそらくそれはどの家庭でも同じだと思う。

 

結局、それが機能不全になっていただけであって、結末だけで夫や妻を短絡的に批判するというのは、もしかするとそう考えた人自身も同様に、機能不全に陥った環境にいるのかもしれないと思う。

 

その点に考えが至れないという事であれば、恐らくは当事者の夫婦は双方共に、あまり共同生活というものに向かないのかな、と私は思います。

初心者やWindowsかMacで明確な理由もなく迷うレベルのユーザーはMacを買ってはならない

 

【超初心者向け】WindowsとMacの違いをまとめてみた【令和版】 - kotablog

いろいろと酷い。例えば無料ソフトでの比較でいえば、圧倒的にWindowsの方が選択肢が多い。プリインストールソフトだけで比較するというなら多少の優位性もあるだろうが、使えばわかるがMacで無料ソフトはほぼ壊滅状態

 

高校生が趣味で書いているという前提であっても、ちょっと雑過ぎかと。

特に、初心者向けの記事としても雑過ぎると思う。

 

まず、パソコンやコンピューターの初心者がいきなりMacを買う事はおすすめしない。

特に何のために買うのか、という点が明らかでない人は絶対にMacを買ってはならない。

 

なぜかというと、MacWindowsとは違い、多くの場合で無料ソフトで解決するという事が難しいことが多い。

Windowsの場合、大抵のソフトは無料版があったり、一部の機能が有料、または体験版が提供されるなどでわからないままお金を払うような事はないが、Macではなかなかそうはならない。

どのようなソフトであるか、自分が必要とする機能が全て網羅されているかを調べても、有名ソフト以外は情報も少なく、特に想像以上に皆他人の情報を元にしか利用していないのか、古いメンテナンスもされていないようなソフトの情報しか出てこない事も多い。

結果として何をやるにも自力で解決できる程度の情報収集能力や解決能力がなければならない。

 

より具体的に言えば、例えばMacのソフトでは簡単に導入するのであればストアから検索してインストールするという方法があるが、その方法では大抵の便利なソフトは有料となっている。

一方で一部のソフトは同じソフトであるものの、自分でコンパイルして利用するなら無料としているケースもある。

そういったケースでも自分でコンパイルする環境を構築し、コンパイルし、必要な設定を施すことができれば無料となるが、そうでない場合はお金を払う事でその手間を解決できるわけだが、当然だれでもミスなくできるわけでもない。

 

他にもそもそもOSバージョンが上がった場合、互換性を担保するという操作についてもWindowsと比較して最近は難しいケースが多い。

極論言えば、突然エラーで起動しなくなるという事も普通にあり、Windowsのように、とりあえず互換設定しとけばなんとか動くというケースや、管理者権限で実行すればとりあえずOKのような単純な解決ができない事も多い。

 

Windowsはある意味理解するとジレンマが生まれることが多いが、逆にわからない間はなんとなくでも大抵の事をある程度は可能とできる環境であるといえる。

 

それ以外にもハード周りもなかなか気難しい。

例えば、4Kディスプレイを繋ごうとするとなかなかの確立で相性問題が出たり、仕様はあっているケーブルを使っても正常に表示されなかったり、ケーブル一つ選ぶにもある意味ばくちを打つ必要がある。

いや、正しくは、Appleのいう他社に通じない細かい仕様を理解し、質問しても回答を得られない他社のサポートと根気強く交渉すれば何とか仕様通りであるかどうかは確認できるのだが、多くの場合、Appleの細かく難解な仕様について質問しても「保証できません」という結論に至る事が多い。

なお、私がLGと議論した際は、アップルの公式サイトで取り扱っている商品ですら「細かい仕様については当社では保証しかねる」という回答であったりするレベルであり、基本的には自己責任で調査して進めるしかない。

 

USB関連も実に奥深い。

MacといえばTimeMachineという便利なバックアップ機能があるわけだが、これを利用するときも注意が必要だ。

例えばMacBookであったりすると左右のUSBで仕様が異なることもある。型式によるが、たいていの場合、いずれかのボードの電圧や安定性は逆のポートよりも劣る事が多い。

これは基盤の実装方法による問題で、アップルのサポートと話すと丁寧に説明してくれるが、そういった点も含め、例えば右ではエラーとなるので左を使ってくれ、という話であったり、いやいやこの型番では左の方が安定性が高いので左を使ってくれと言われたりする。

なお、大容量のバックアップを取りたい場合はもっと致命的で、アップル純正のディスクストレージでは日次的に使う事は現実的でなく、一方で、アップル純正品以外の場合で、ストレージ関連のエラーが出た場合は原則ストレージメーカー側に聞いてくれという話になるのだが、大抵の場合は、もっともよいサポートで返金対応してくれるケースで、最悪は相性という事でサポートすらまっとうに受けられないケースがある。

当然、ストレージサイズやバックアップサイクルを事前に理解し、適切な頻度、使い方、パーティション割りなどを行えばよいが、まず初心者がそんな事まで考えて使うとは思えない。

使い始めてしばらくして、ちょっとこれは困ったぞ?となった時には戻れない道となっているケースも少なくない。

 

なお、USBに限らずインターフェース周りで言えば、最近のAppleは頻繁に仕様を変更するため、今買っている機器が次に買い替えたときに使える保証はないという事も理解しておくべきだろう。

私はディスプレイ接続ケーブルから、USB周りに至るまですべて買い直したし、出先と自宅用の電源についてもすべて買い直しとなった。

 

細かい事を言えばいろいろ出てくる、よくわからないが、大抵突然調子がわるくなった際におすすめされる操作はSMCリセットの実行で、なぜそうなるのか説明を求めても何も具体的な説明はされないし、実際それで解決したりするわけだが、それを予防するすべはない。

 

さらに突っ込みを入れれば「コストパフォーマンス」という点で言えば、必ずしもMacは低いわけではない。

恐らく元記事の言いたいことは「安い」という事だが、それはパフォーマンスは含まない。

SSD搭載機のノートで、メモリを大量に積み、そしてあれだけの解像度を出せるマシンはおそらく海外版の某ノートPCだけなのだが、あれを普通に買うとMacBookProのフルスペック並みの金額であるため、決して高くもない。

結局、Windows機でもノート、と言ってしまうとあまり差はなくなる。

一方で、ディスクトップとなる場合は単価の分安く調達することも可能だが、それでも圧倒的に勝るかと問われればそれほどでもない。

結局、Windowsは安くてスペックの低い機種が普通に売っているので、大した用途に用いないのであればMacを買う必要がないというだけだが、その場合、昨今では大抵はタブレットで間に合う事が多いので、そもそもWindowsマシンですら買う必要がない。

 

例えば、ちょっとした文章を書きたいというならもはやパソコンはいらない。

動画の再生にも必要ないし、動画の編集ですらよほど高度な事をしない限りは必要ない。

ちょっとした動画配信程度ならスマホアプリで十分だし、逆にWindows版やMac版のソフトを使って編集する必要がある人はもはや初心者ではないだろう。

 

その他、デザインで言えば、ここ数年に発売された海外メーカーのマシンは少なくともノートに関して言えばMacBookと外見上の差異はそれほどない。

OS上のデザインの違いはあるものの、他人のパソコンのOSをのぞき込む事などほぼないわけで、基本デザイン云々でいうなら外形程度しか初心者は気にしないと思われるので、それであれば別に似たような製品は沢山あるので、お好きなものを選べばいい。

 

結局、どこをとっても初心者があえてMacを選ぶ必要はない。

逆に、Macを欲しいと思うのであれば初心者か否かに関わらず殉教する意気込みで買うべきだし、それができていれば何か壁にぶつかった時も「これがAppleの洗礼か…」と割り切る事ができるだろう。

 

別にWindowsが優れているわけではない。

が、逆にMacが優れているわけでもない。

 

何のためにパソコンが必要なのか?

それはそもそもパソコンでやるべきことなのか?

 

 

そういった事をちゃんと考え、必要な事は自分で調べる、手順を理解して操作できる、それでもダメなら時間を使ってでもサポートと対話できる、そういった人であれば何となくMacという選択もありだと思うが、そこまでの手間はかけられないという人であれば、素直に安価なWindowsマシンをメーカーサポート付きで買う方がよいだろう。

 

なお、開発者ですら今は無理にMacを選ばない時代だ。

大抵の事はWindows環境でもできるし、そうなった時点で冒頭に書いたようにソフトウェア資産の多さからWindowsというか環境はいろいろと便利であり、あえてMacを使う必要もなくなった。

 

Macのソフトは便利なものもあるが、間違いなくまだまだ世の中はWindowsの方が多く、圧縮ファイル一つ、ウェブサイトの閲覧やウェブアプリのサポートなども含め、大抵の場合でWindowsは標準的にサポートされており、それは相手もまたWindowsを使っている確率が高いという事だ。

自分が相手に合わせて行動できるならよいが、それができないなら、相手と同じ環境を使うという事は合理的な判断といえる。

 

つまりは、初心者に対して見栄や酔狂以外でわざわざMacを買う事をお勧めする理由は、(平成の前半にはまだまだそういった理由が存在していたものの)少なくとも令和時代には存在しないという事だ。

是非メルカリで

 

「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」斬新な罵倒に様々な反応が集まる - Togetter

働いている人間に対して、古来の価値観に倣い「家庭の中にいるべき人」という表現を用いて侮蔑する行為は世界中にあります。もっとも、日本では専業主婦という独特の価値観があるので成立し辛いのが味わい深いですが

 

いや、結局差別的であることにはかわらないのですが、なぜ日本では成立し辛いかというと、専業主婦という界隈が一つの市場であるためです。

 

海外ですと、男女がそれぞれ働くと言うことはそれほど違和感がない(当然、昔の日本のようにそうでない国もありますが)ので、そもそも家庭に入るという表現そのものが差別的であるわけです。

 

一方で、以前の日本や今の日本の一部でもまだまだ専業主婦という価値観が残っている為、その価値観を持つ界隈というものが一つの市場となっています。

特に、専業主婦がどう考えるか、という点については、そうでない人とはなかなか単純には理解できないという課題もあり、そうなるとそれこそ専業主婦自身のアイデアや考えが価値を持つ市場であるともいえます。

 

その為「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という、いわゆるお前はその場にいる事がふさわしくない、という趣旨の発言に対して、実際に異なる市場でチャレンジしたら、案外それで成功しちゃう事例というのはあります。

 

所謂主婦/主夫起業家とかそういったものですね。

ただ、一般的な主婦/主婦起業家は、やはり専業主婦/主婦層向けのマネタイズに特化している事もあるので、規模を拡大すると死ぬ事が多いのも特徴です。

近年でも幾つか象徴的な起業家が破産したケースは報じられており、あくまでもその手法や考え方がその市場固有のものであるという事の認識は重要であると考えられます。

 

まぁ、何れにせよ、差別的な表現であることは揺るぎないわけですが、昨今ある「差別に対してユーモアで返す」という大人な対応をする場合、案外そういった事で意趣返しをするもの面白いかもしれません。

 

ちなみに「家庭にいるもの」とするのは差別的である一方で、それと同時に「家庭にいる人は価値がないのか」というジレンマも生まれるわけですが、これは性による役割の固定化と役割に対する価値の付け方の話しで、実際には別物です。

 

まぁ、意図的な表現ではあると思いますね。

そもそも理解できる人に向けて行う意味はない

 

両親学級で男性がお腹に7キロの重りを付けて「楽勝じゃん」と言って腹筋までしてしまう - Togetter

確かにどうかとは思うが、ただ、こういった個性による違いを配慮せずに、ただ「わかるでしょ?」という一方的な決めつけで意見を押しつけるのは、所謂小学校などの教育でもある問題点なんだが。もう少し改善すべき。

 

自分の目論見が外れたのにシームレスに説教に移行する人間てどうなの

極論言えばこれは小学生の算数の計算の順番の議論と同じなのよ。いわゆる空気読めという圧力で異なる考え方に対して「わからないお前がわるい」という論調ね。別に件の人が正しいわけではないが、逆も正しくはないよ

 

この話で思い出したのは、私の父が校長時代に話していたことで、教員ができない生徒を「ダメな生徒」として評価してしまう事をどうすれば改善できるか、という話だった。

 

当時はまだ差別であったり、体罰というものが今よりも激しく、下手をすれば子供の両親ですら、学校に対してそれを求める事すらあった。特に田舎では。

 

どのクラスであっても、何かしら不得手な子供や、いわゆる空気が読めない子供はいくらでもいる。

そういった子供と向き合ったとき、教員は短絡的に「ダメな生徒」としてはならないのだが、当然教員も人間なので、何度教えても理解できない生徒や、どうしてもほかの生徒と違う考え方をする生徒に対して「ダメだこの子は」という価値観に至ってしまう事がある。

 

ある事柄について、人と異なる価値観を持ってしまうのはなにも子供だけではない。

私たちだってある人からすれば異なった価値観を持っている人間かもしれないし、実は相手ではなく自分がズレている可能性もある。

 

ここで大事なのは「他人とずれている」時、周りはどうすべきか?という事だ。

 

例えば、低学年の算数の授業の例で話したと記憶しているが、「1+1は?」と問うとどういった答えが正解になるのか?という話だった。

 

多くの生徒は「2」と答えるが、実はこういったケースでは「たんぼのた」と答えるような生徒も昔はいたし、「11」と答える生徒もいる。

 

この時、教員はどうすることが正しいのか、という話だ。

 

当然ながら、本当に大抵の生徒は「2」と答える。

そういった中で異なる答えを出す生徒は、一歩間違えば虐めの対象となってしまう事もあるし、対応を間違えば算数が嫌いになる可能性や、生徒の個性をつぶしてしまう恐れがある。

だが、ここでは算数の授業として「1+1」の答えは「2」であるという事に納得してもらわなければならない事も事実で、全てを成立させることが求められる。

 

まず議論したのは、否定はしないという話だった(と思う)。

いずれの答えも、そう考えるに至る理由があるはずで、人と違うという事は、その発想や理解には他の人は至っていないという事だ。

いや、正しくは、知っていてもそのほかの生徒はその選択をしなかったという事が大抵の場合の事実で、それも含めて理解/納得させてあげる必要があり、もしも中途半端な理解であったり、一方的に「間違ってるよ」という結論をぶつけ、その子の考え方をそのままにすれば「間違い」という結論で終わってしまい、失敗体験となってしまう。

なのでまず教員がやるべき事は、単なる失敗体験としない事が求められる。

例えば「たんぼのた」と答えられたら「なんでそうなるか、みんなはわかるかな?」と例えばクラスの子に問いてみる。もしもそこで至る理由がわからなければ、本人に説明をさせる。その上で、それ自体は確かにそうなるという理解を示す。

「縦棒があって、十字があって、横棒が2本だと…本当だね!これはたんぼの田だね」と理解を示すことは大事な手順だ。

 

だが、これは算数の時間であることもわすれてはならない。

ではどうするか?

 

例えばと話した内容では「たんぼの田は数字かな?」と聞きき、それは数字ではなく漢字だよね、という話をする。

確かに「1+1」という計算式をくみ上げると「たんぼの田」になるのだけれど、算数の時間では漢字の勉強はしないよね?という話から、では数字だと何になる?という問いに転換する。

こうすることで、ここで行っているのは数字を使った勉強なんだよ、という事を理解してもらい、その場合の答えは「2」になるよね?という理解に進める。

これは複数の選択肢や正解がある場合に、なぜそれを選ぶのか?という整理の話もたしかあったが、詳細は覚えていない…。

 

「11」のケースも何かあった気がするが思い出せない。何か道具を例にしてくっつkる云々の話で説明していたような気もするが、なんだったかわからない…。

 

結局、教えるという事は当然なにか至るべき場所というか、理解してほしいものがあるわけだが、教わる側のスタートラインや姿勢、人間としての性格であったり、いろいろなもので必ずしも期待する状況にならない事はある。

だが、どんな状況であれ、課されたミッションとして「1+1=2」という事を理解してもらうという事に変わりはなく、同時に、教えるという事はある意味自信をつけるという事であったり、学ぶという事を理解してもらうという事なので、どのような状況でも、その本質は失わないように勧める必要があるという話であったと思う。

 

両親学級の件に戻せば、これも同じ話だと思う。

 

 

正しい答えや、期待する応えがくる時、教える側にはそれほどの負担や迷いはない。

が、実際にはわからない人や理解できていない人、理解できていても違う選択をする人もいるわけで、そういった事も含め、今ここで何を伝える事が大事なのか、その時に失敗体験ではなく、結果的には成功体験として記憶に残すにはどうするかという事が教える側の腕の見せ所でもあり、それが教員やコーチ、トレーナーであるわけだ。

 

が、結局、正解なんていつも違うから、常に考える、学ぶしかないよね、みたいな話でまとまった気がする。

それでいいんかい、という気もするが、教えるという事は教科書通りにいかないのだろうと今では理解している。

 

そんな話をしたな、という事を思い出した。

枚数を数える必要はないが、確認画面程度は見ておこう

 

コンビニATMで50万円入金したのに31万円しか反映されなかった - Togetter

絶対ないとは言わないが、基本残合わせの関係上仮にその時点で入金漏れが発生しても券種チェックで後にわかるはずなんだが。念のためセブン銀行に問合せてみたが入金確認でキャンセルすればそのまま戻るとの事だった

 

ATMとはいえ機械なので、絶対はない。

が、50万が31万というのは、仕組み上もなかなかありえないかと。

詳しくは書かないが、そこまで雑な仕組みではないので、19枚も誤差が出ることは、私が知る限りはなかなか起きえない。

恐らくは天文学的数値の奇跡の積み重ねでしかおきえないと認識している。

 

それでもゼロとは言わないが、まぁ、あり得るのは、綺麗なお金が重なって締まっているケース(ただ、この場合、比較的エラーとしてそもそもカウントされずに返却される。なぜならそういったチェックがあるので)なので、流石に19枚も、というのはちょっと原因がわからない。

 

私も全くセブン銀行のATMを使わないわけではないので、念のためセブン銀行に問い合わせてみたが、セブン銀行の電話担当者もとても困惑している状況だった。

 

お付き合いいただいた担当者の方、ご面倒をおかけしました。

 

その上で、まず入金時に仮に何らかの理由(エラー含む)で入金したい金額と確認されている金額が相違している場合、確認画面でキャンセルする事で入金した(する予定)お金をそのまま返金(受け取る)事が可能との事でした。

 

その上で、入金後であっても手続き上の問題があるのであれば備え付けのお問合せ用電話機でご相談いただければ確認させていただいているとの事。

 

もっとも、その確認がどのようなものであるかはご説明いただけなかったが。

 

元ネタを投下した主のいう「計算されない」というのがどの時点(確認前でズレていたのか、確認時点では合っていたのに入金金額はずれていたのか)はわかりませんが、前者であればなぜ確認しなかったのかという話しでしかなく、後者であればおそらくログ上から明らかに残が合わないのでむしろ銀行側が困る話しでしかないのです。

 

また・・・

 

これは勘違いでしょう。

まず大抵のATMは特注ではあるものの、別に銀行が作っているわけではありません。

それぞれの技術はそれを構成するメーカーがもっているので、材質の質感が安っぽいとかそういった違いはありますが、盗難や窃盗も含め対応できるように一定の品質を担保されています。

また、どちらかというとセブン銀行のATMの方が一般的な常識としては先進的で高性能であるとの話しなのです。

もともとセブン銀行は多数のATMを大量に稼働させる事を目的にしていただけでなく、その中で店舗の売り上げや、それに付帯するような法人向けサービスも見越した開発が行われていました。その上でnanacoのような電子マネーへの対応等も実現しており、中身としてはおそらく銀行等のATMよりも高性能で先進的なものでしょう。

 

もっとも、一台あたりの単価で言えば、逆に安いのではあろうと思います。

ただ、それは安物という話しでは無く、セブンイレブンに大量に設置する関係からコストダウンが図れたという事と、そもそも後発であったのでよりよい機材が使えたというだけの話しです。

 

事実、ATMの設置台数で言えば、ゆうちょ銀行が長らく圧倒的な1位でしたが、2018年時点ではもう既にセブン銀行がそれを射程に捉えた2位につけており約2万5千台が稼働しているわけですが、これがどれくらい異常が台数かというと、メガバンクで設置台数No1をうたうみずほ銀行の設置数は、約7200機、それもそのうち直営は約1900機程度に過ぎません。

 

何れにせよ、いろいろと詳細・真偽不明の話しではありますが、尾ひれがついてでている話しについては完全な思い込みでしかありません。

 

まぁ、本件に限らずですが、確認画面というものはちゃんと確認すべき話しで、大抵はそういった手続きをしていれば救われる(はず)という事です。