何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

昔が"よかった"わけではないけども

 

ばればれの匿名でネットをやることの意味 - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

結局のところ、いわゆるネットにかぎらず"世知辛い"という事の原因はこのあたりなんだろうね。昔は無秩序の中で、それぞれのローカルルールであったり、個々人の中のポリシーがあって成立していたわけだけど時代だね

2018/04/08 22:57

 

そうねー。

 

あらかじめ断っておけば、昔の方が正しいとかよかったなんてことはない。

確実に昔の方があたりもきついし、ローカルルールなんてのはたいていの場合特定の人を優遇していたし、何よりコミュニティはとても閉鎖的だった。

 

ただ、当時の僕たちには自由があった。

閉鎖的なコミュニティーはとても自由でコミュニティ同士はそれほどつながりもなく、稀にコミュニティ同士の対立があったとしても、それですら、辺境の紛争に過ぎず、ネットへの影響はほぼ皆無だった。

 

近年は多くの人にやさしいネットにはなった。

少なくとも正しさはそれほどないが、ただ、数の多さや一見すると正しいと思われることについて意見は偏りやすく、結果として本質的な議論はなされないものの、ただ、それ自体は、少なくともそれなりの人数のユーザーを不満にさせない程度の満足度は維持している。

 

結局、ネットの今の価値は、昔とは違う。

 

昔は、ネットの価値はネットでしか計れず、リアルの価値なんてものは意味はなかった。

例えば、私もある分野で師匠のような人がいたが、彼は大学を留年している人であったわけで、おそらくはリアルではかなりの問題のある(いわゆるニートに近く、そもそも親のスネカジリでもあった)人ではあったし、そういった事について師匠自身も言及することはあったが、正直、我々からするとそれはどうでもよい情報であった。

コミュニティの中で重要なのは、コミュニティ毎にあるテーマについて知見や情報をどの程度もっているのかという事が重要であって、それ以外の事についてはこちらもあちらも興味はなかった。

 

初期のネットゲームもそういった文化をある程度色濃く受け継いでいた。

いわゆる重課金プレイヤーや廃人というのは、大学生かまたは士業や個人事業主のような人が多く、弁護士のような人もいた。

だが、弁護士のような人がいたとしてもその人が尊重されるかといえばそんなこともなく、あくまでもプレイヤーとしての価値のみで序列は決まるわけで、これもリアルとネットはそれぞれ独立したものではあった。

 

この関係が崩れたのはいわゆるSNSが普及し始めたときであったと思う。

 

コミュニティやゲームというものは、多い場合でも数百人というつながりが限界で、孫程度であればつながりはまだまだある程度の独立・自治が可能な範囲ではある。

とはいえ、自治とはいっても、前述のとおり公平なものではなく、そのローカルな環境で定めた勝手ルールではあるが、それに理解が示せないのであれば他のコミュニティへ移るしかないし、移ればいいだけでもあった。

 

だが、SNSの成長によりそれは崩れる。

特に、日本でいえばmixi、海外でいえばFacebookといったリアルを前提としたコミュニティの形成により、ネットはリアルの一部になった。

 

僕はこの瞬間がネットver1.0の死期であったと思う。

 

はっきり言えば、今のネットというのは、未成熟な現代人には難しすぎる。

勘違いしてほしくないのは、未成熟な現代人というのは、私も含め現代人のすべてであり、今のところ適切に対応できている人などいないと思う。

 

それは仕方ない。

そもそも今のネットは、前述のとおりリアルな一部となりさがったわけで、現代人はそのリアルですら人間関係を万全にすることなどできない。

できると思っている人は、少なくとも何人かの犠牲の上に成り立っていること程度は理解すべきだろう。

その現代人が、リアルな関係を、ネットというリアルよりも手段が限定されている環境下で万全にこなせるわけなどない。

 

面白いのは、昨今のネット有名人の手法というのは、いわゆる昔のネットコミュニティの遊び方に近いものがあるということだ。

つまり、世の中のルールとは別の、彼らのコミュニティのルールを振りかざすことが可能という事。

なのでしばしば彼らのコミュニティが行っていることを、外の人間が見ると意味がわからないし、そのコミュニティに入っていくのは、基本そのコミュニティのローカルルールに理解を示せるものだけなわけで、結果、信者という構図が崩れることはない。

 

ただ、当時のネットと異なるのは、そのコミュニティの目的が何であるかという事はあるが、そこは本質ではないので、今回は触れない。

 

まぁ、心の隙間をうまく埋めてはいるな、とは思うが。

 

結局、ネットと人の関係はそれほど進展してない。

本来ネットを人が生かすべきであったものが、ネットに人が縛られる状況に陥っている。

 

リアルで縛られ、ネットで縛られ、何が楽しいのかわからないけれど。

 

ただ、僕は、本来組織人=その組織の責任を負うべきというのは違うとは思う。

例えば僕は、当時の貸金業という業種は、間違いなく糞であったと思う。その一方で、実際のところその業界に身を置いていた。

その時僕はすべての貸金業の問題を背負うべきと問われれば違うと思うし、僕の発言がすべての理解の基に行われているのか?と問われれば、それは確実にない。

そして、全てのことを理解できないなら発言するなと言われればもうそんなところに価値などないと思うし、そんな環境になればそもそもだれも発言などできないわけで。

 

せいぜい必要なのは、間違っていたら「間違っていた、ごめんね」と、素直にいうことであり、それを生かす事。そして、それを指摘する側もそれ以上を求めない事だ。

 

「誤れば済むことだと思ってるんですか?」みたいな話はある。

実際、誤っても許されないことはある。が、その場合、例えば職を辞したとして解決するのか?という話もある。

実際問題、頭のすげ替えなんてものはなんの役にも立たないし、ネットやめろなんていうのは、ただの感情論でしかない。

 

ここがネットの悪いところで、昔のローカルルールの名残でもある。

 

現代人にネットという道具は少し早すぎた。

おそらく、人間にとってネットという道具を使いこなせるようになるために必要な事は、技術革新ではなく、我々の成長いがいにはないのだが、少なくともそのことと向き合わない現代人がネットを使いこなす日は来ないだろう。

 

なんて、いってみる。