何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

期待をされていないわけではないが、日本、とりわけ日本人の国際社会の認識は良くあらわされている

ゼレンスキー大統領の演説を受けて、様々な意見がでている。

 

例えば、以下のように日本には何も期待されていないと感じた人も一定の割合でいたようだ。

ゼレンスキーの演説から分かる事は、日本に大きな期待はしてない、だ

逆だろ。日本の事情を理解した上で直接的な軍隊を保有しているわけでもなく、核もなく、そしてNATOにも加盟していない日本に対して、核兵器原子力発電、津波等のワードで危機感の共有を求めたわけで。聞き直すべき

 

ただ、コメントのとおり、期待されていないわけではなかったし、実際の演説では、日本の具体的な歴史、被爆国、原子力発電所の被災、津波による被害、そして復興という話題だけでなく、サリンのような兵器への言及もあり、年代により何を思い出すかという点も含め比較的穏当でありながらも、ある程度、戦争というものを他人事としてとらえているであろう日本人に向けてイメージしやすい話題と上げており、よく考えたなと思えるものであった。

また、そこから日本に期待されるのは、今行うべき事と、これから行うべき事の両面が求められており、それは決して期待していないというわけではない。

 

ただ、相手の方が日本より、いや、日本人よりもより具体的な危機や競争にさらされているだけあり、日本にできる事の限界であったり、国際社会での日本/日本人の現実的な立場というものを理解しているため、他国のそれのような具体的な何かを指す話ではなく、当然欧米のキーマンを意識した上での、アクションを期待する内容とはなっている。

 

これは期待とは関係なく、単純に日本の立場の問題に過ぎない。

残念ながら日本は敗戦国であり、極論言えば、今回侵攻したロシアの未来の姿かもしれないわけで、日本人以外の多くの国では、少なくとも日本がただの優等生だとは思われておらず、それが現実で、それが日本人が向き合うべきものでもある。

 

また、以下のコメントにもあるが…

キエ夫🇺🇦 on Twitter: "どの国にどんなメッセージが受けると考えてるか比べるの興味深いな。 米英には「困難に立ち向かう勇気」 独には「真に歴史を省みるとは何か」 イスラエルには「ホロコーストを前に中立という選択肢は存在しない。」 日本には..「私達は親… https://t.co/z8LaBF0NjG"

日本が幼く見られているというのはその通りかと。実際国際社会での日本の立場は日本人が想像するよりも低い。でもそれは政治の問題ではなく、そもそも日本人の価値観や行動の結果であってその点については考えるべき

日本人は何か起きると大抵の場合は他人事として処理する。

一番身近な話でいえば政治の問題がそれで、改善されないのは政治家の問題であり、政治の在り方だと批判するが、そもそも変わってないのは国民であり、変えていないのも国民であって、政治家なんてものはその結果に過ぎない。

同様の話で、例えば自民党に問題があるとして、一方で現実は自民党が与党という状況に対しても「自民党に投票するのが悪い」という短絡的な思考を良しとする論評ばかりであり、こも他人事として物事を捉える例の一つでもある。

 

日本人が物事を捉える事、そしてそれを言語化し、意見を交わす事、これが絶望的に苦手であり、多くの場合でそれを避けるか、意見を交わすのではなく、文字通り意見を投げつける事しかできないというのは日本人と仕事をしている人は大抵理解していると思う。

当然それはすべての日本人ではないが、やはり全体を見た時に、そういった行動や思考が多く見受けられるのは現実で、それが結果的には世界からみた日本、日本人というもの価値を決めている。

 

私たちが戦うべきものは別に戦争だけではない。

日常の中にも大なり小なり様々な問題があり、その影響は人により、場合によってはウクライナ問題よりも重い事もある。

ただ、そういったものと向き合うときですら、日本人は自分の意見をどう表現するのか、なぜその環境にあるのか、何を、どのように変えなければならないのかなど、状況を理解し、それを整理、そしてそれを相手や周囲に伝え、そして変えていく、このステップを踏むことができないのが現実だ。

 

相手の意見を変えるには別に争う必要はない。

そもそも相手の意見を変えるという事は、同時に自分の意見も変えるという事でもある。

これは当然の事で、世の中の大半の事はゼロ百で善悪が決まる事はない。

絶対的に正しいとする自分の意見ですら、別な立場、視点からみれば、何かしら改善すべき点はあることが当たり前であり、議論とはそれをお互いが確認しあう行為なわけで、相手を自分の言葉でねじ伏せようとするのはおかしな行動であり、少なくともそれは議論とは言わない。

相手の意見が間違っているとしても、その意見の背景には相手の考え方があり、その考えに至る歴史や出来事、信念があり、それは紛れもない事実であり、それ自体を否定する事は議論ではない。

 

海外の事例が伝わってくるとき、日本ではデモをする映像や写真のような象徴的な映像ばかりが報じられるが、実際にはその裏で、様々な人が様々な議論を尽くしており、デモのような行動とは、実際にはその中の一部の表現でしかない。

 

実際、海外の事例でもデモで何かが変わるというのは大抵の場合で実現していない。

実際に影響を与えているのは、デモではなく、その周辺で行われている対話や議論であり、それがメディアで取り上げられることが少ないのは、単純に絵として面白みがないからであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

日本ではどうだろうか。

日本でも国会前のでデモや東京で言えば新宿や銀座でもデモをする姿は見受けるが、議論をする姿、本当の意味でも議論や意見交換がなされている姿はほぼ見かけない。

「いや、相手が聞く耳を持たないからだ」という声は良く聞こえるが、それをどう変えるかという事であったり、どう見方を増やすかというのが行動であって、極論言えば、それが全てで、デモや演説というのはその一つの現象でしかない。

 

が、日本人はそういった本質的なものと向き合う事が絶望的にできない。

 

それが国際社会でも表れており、例えば国際会議なんてものは、最終的な場でしかなく、実際にはそれ以前のロビー活動でほぼすべてが決まっている。

そういった活動について、恐らくアジアで一番弱いのが日本だ。

 

それでも今までは良かった。先進国という私たちが馬鹿にする世代の人たちが築いたモノ(こんなところですら、私たちは自分ではなく他人の功績にすがるしかないのが現実だ…)により、私たちはお金だけはあったから。

でも既にそれも中国やインド、韓国にすら抜かれつつある。

では私たちは国際社会で何を自分たちの価値として見せるのだろうか。

 

被爆国としての経験?

震災被災による経験?

 

それは相手が我々に共感を求めるときに使うものであって、私たちが相手に与えるものではない。

 

私たちは軍事力もなければ、中国のような圧倒的な資金力もない、ロシアのような資源国ですらない。

さらに言えば、欧州諸国のような歴史を含めた集団的な行動力もない。

 

日本人とは何なのか、私たちは国際社会に何を与える事ができるのか。

 

それを日本人は恐らく表現できないし、その事は、実はどうでもよいことではなく、その現状に陥っているのは、今、普通に生活している日常の、普段の行動や考え方、そういったものから生まれており、それは政治でもなく、政治家も関係なく、単純に自分たちの日常が生み出しているモノであると理解しなければならない。

 

その現実を受け入れることができるのか、できたとすれば、世界が日本に何を期待しているのか、そして日本は世界に何をできるのか、冷静に考える事がでるだろうし、あの演説から何を受け止めるべきか、また違った理解もできるのではないだろうかと私は思う。