何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

そんな配慮はいらないし、意味が無い

 

〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。 - ヨッピーのブログ

それはダメ。リスクを背負って公表した、被害者であった、という事で全ての免罪符になるわけがないよ。当然、個々の事案で被害者である事実はかわらないが、同様に個々の事案で加害者である事実も決してかわらない。

 

「○○は嫌いだけど」云々の件については、あまり意味を理解できない(少なくとも、ボクサー云々で例えても的を得ていないと思う・・・)ので、スルーしますが、それ以前に記事中の以下の点はあまりにも誤認が過ぎると思う。

 

別に「被害者だから全て無罪」という事を言いたいわけではない。反論する機会、違うと思ったことを批判する権利は誰が相手であろうと保たれるべきだからだ。しかしながらタイミングが違うんじゃないですか、と思うわけです。今回の件で彼女が目立ち、彼女が視界に入ってきたからトラウマというか、文句のひとつも言ってみたくなる気持ちになることはわかる。まあわかるけど、それによって「お前の事は嫌いだけど」「お前の発言こそどうなんだ?」「自分の事を棚にあげて、よく他人の批判が出来るな」みたいな矢がバッスバス飛んでた。

 

勘違いしてはいけないのは、順序としては、公表が後、彼女の性的な話題で特定の属性を弄る表現が先なんですよ。

 

仰るように、もともと火の無かったところでこう話しがでてきた時に、突然過去の話題を掘り出してきて問題にするというケースは程度にも寄るけど「それ今重要なの?」というのはわかる。

 

が、彼女は、男性と女性という異性間のテーマの話題に何度も触れており、その都度、比較的特定の属性の人間を差別する発言を繰り返しているわけです。

で、比較的何度も炎上しているわけですが、本人は「これはハラスメントではない」という旨の発言で暖簾に腕押しだったわけですよ。

 

だとしても、その彼女が自分はハラスメント被害者であるというのは当然ですし、それ自体はなんの問題も当然ありません。

 

が、自分が過去にハラスメント行為ですよ、と指摘されたときには「受け手の問題」「私はそんな意図はないから問題ない」というような、言った側がハラスメントという意識がなければ問題ないという主張をしていたわけで、その人が「少なくとも私はハラスメントと感じた」という話しをすれば、その事実についてのその言葉を批判する事はなくても、彼女も自身の行動や発言には少なくとも同様の対応をすべきと言われるのは当然かと思いますよ。

 

別に聖人である必要も無いし、間違いや失敗、勘違いがあっても全然良いと思います。

 

ですが、同じテーマで、自分がされた場合と、自分が行った場合では違う事を仰れば、それは炎上します。

 

それも、別にそれ自体は「当時は受け手の気持ちがわからなかったです。ごめんなさい。」でいいと思うんですよ、それこそ「今回の公表と相手のリアクションを見て、言葉であっても自分を深く傷つけるものである事がわかりました」などとしてちゃんと謝罪すればそれで終わりだったと思うんです。

むしろ僕は、人間は完璧ではないからこそ、何かを切っ掛けに違う側面に気づき、その時に自分の失敗や間違いをちゃんと反省する人の方が信じられるし、応援したくなりますよ。

 

僕だって間違いは沢山あるし、失敗だって沢山ある。

恐らくは、僕が認識していない、僕の言葉に傷ついた人だって沢山いるだろうし、それはこれから先にも起きるのかもしれない。

だからこそ、そういった事は、気づいたとき、わかったときに都度謝罪するしかないし、それ以外に何も方法はないと思うんですよ。

 

それを受け入れない人もいるでしょうが、だからといって謝罪しないというのは違うし、受け入れるか受け入れないかは相手の問題であって僕が行動しない理由にはならないわけですからね。

 

でも彼女は今でも「そう感じる人もいるのでしょうね」というスタンスです。

 

もしも、事の大きい小さいであったり、リスクの背負い方の違いであったりで、このような問題の優先順位を論じるというならば、残念ながらこういった問題は無くなりません。

 

なぜならば、この問題の根底は途方もないような巨悪の存在ではなく、一人一人の本当に小さな思い込みや勘違い、身勝手な考えが積もって社会のダメな一面を形成しているものだからです。

 

だからこそ「ダメ」と気づいたとき、どれを論じるか、ではなく、それぞれにそれぞれの問題があり、その本質はなんなのか、その点をちゃんと見極めなければならないのです。

 

社会とは個人が集団となり形成されるものです。

セクハラは個人が起こすモノでありますが、基本的にはそれを生みだす文化が何かしらあるわけです。

そういった構図を利用するような人、そういった文化を悪用する人、そういった行為を傍観する人、それらをどうやってなくすかというのは、基本的には、一人一人がそいった事はダメだと認識し、そういった事がまかり通る組織、文化はダメだと理解し行動するところから変えていかなければならないのです。

 

ハラスメントは近年増えたわけではありません。

人間が経験を積み、社会が経験を積み、こう言った行為は良くない社会を作るよね、であったり、男性と女性は確かに違いはあるけどもそれは本質ではないよね、であったり、そういった社会が経験を積んで成長した結果として、今まで傍観・放置・容認されてしまっていたものが、社会として許さないというステージに徐々に上がってきているわけです。

言い換えれば、そういった社会のステージを一段上げるという行為を常に続けなければこういった行為は無くならず、ただ、ある事象を糾弾するだけではだめなんですよ。

 

確かに大きな問題と向き合う事も大事です。

社会的な影響、例えば法制度の整備などは、残念ながら小さな出来事の積み重ねよりも、大きな社会的に話題となった事象があるほうが取り上げられやすく、結果としてそれが社会を変える切っ掛けになるという事も否定はしません。

 

ですが、変える事が目的で手段は問わない、経過は問わないとしてしまえば、これは運動としても絶対に失敗におわります。

話しが進む、時間が進むほど、よりノイズが増え、所謂抵抗勢力となる人達が絶対にでてくるからです。

 

そういった環境になっても、運動を正しく進める為には、手段を問わない、経過は問わないではダメで、ちゃんとそういったモノとも向き合っていかなければ、揚げ足を取られておわってしまいます。

 

もしも彼女をそういった活動の一つの切っ掛けとして捉えるべきだというならば、だからこそ彼女はそういった事ともちゃんと向き合わないと、いつまでもこのような泥仕合が続きます。

 

誰だって過去には失敗や失言なんてものはあります。

言い換えれば、その事を謝罪してしまえばいいだけの事です。

 

順番が大事なわけでもありませんし、事の大きさ、影響度合いが大事なわけでもありません。

一人一人が気づいたときに気づいたところから変えていく、それが社会を一つ上のステージに上げる事につながって、次の被害者を出さない事になるわけです。

 

おおよそハラスメントを生まれてこの方絶対にしたことの無い人なんておそらくはいません。

小さいところではブラッドハラスメントであったり、現代では本当にあらゆるモノがハラスメントとして取り扱われています。

 

だからこそ、彼女の抱えるような、自己を中心とした問題というのは、別記事でも述べましたが曖昧にできず、まさに今日本抱える闇そのものなわけです。

 

誰しもが被害者であり加害者になる時代がなぜ生まれたのか、なぜなくならないのか、どうやって付き合っていくべきなのか。

 

それを考える上でも、彼女を中心とした問題は、ただ単なる「一人が受けたハラスメント事件」とするのではなく、「誰にでも起きうる、加害者と被害者という立場」としてちゃんと社会が付き合わなければならないと僕は思います。