何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

第三者が介在しない「確認」とは

 

イケハヤ@仮想通貨大好き on Twitter: "「科学的とはどういうことか」を考えさせられますね~。ぼくは「外から流れてくる数字や言説を信じず、まずは自分の体で試して、確認すること」が科学的だと思うかな。そこから探求が始まるわけですから。自分のことばで語れるようになります。"

科学的の定義は別として、少なくとも科学においてはある事柄について立証するとき自己の経験については関係なく、その結果明らかとなった事実とその事実を第三者が客観的に評価する事で正しさを評価しているのですが

 

例えば「科学とは科学では無い」見たいな話しでちょっと混乱する。

 

なんというか、科学に限らず数学分野でも同様ですが、基本的に自己の意見や結果というもの事態はただの意見に過ぎなくて、それ自体が評価されることはない。

 

では、何をもってその正しさや主張は評価されるのかと言えば、第三者の評価によってのみ決まるわけです。

 

自己の理論や定義を第三者が客観的に評価、再現する事で、その理論や定義が正しいものなのか、それを幾人が行う事で、結果としてその理論や定義が正しい事が証明され、その時初めて自己の理論や定義に価値がつくわけです。

 

科学「的」という表現の妥当性については難しいですが、文中の「自分の体で試して、確認すること」というのは主体性の話しで、当然ですが、主体性と科学的であるかという議論に関係性はありません。

そして、少なくとも科学においては「外から流れてくる数字や言説を信じず」という部分も実は関係なく、例えばある理論や定義について評価に携わる学者がいたとして、それはその理論や定義に対して信憑性の是非を問わず、ただ客観的に事実を確認するという行為を実施しているに過ぎません。

 

なんというか、科学とか数学について議論できる人と、できない人でこの部分が理解できるかできないかは分かれるのですが、そこにある客観的事実については極論言えば信じるも信じないもないのです。それはただそこに事実としてあるだけなので。

で、それが事実であれば、事実である事が証明できるはずで、科学や数学においては、ただ単純にその事実を検証しているだけであって、その理由には信じるのか信じないのかという事は関係ありませんし、その数字や現象がどのようなものかという事すら関係ありません。

 

結果として立証できればそれは正しい事であり、立証できなかったとしてもそれは「正しさを立証できなかった」というだけの事で、科学や数学自体では正しさ自体を否定する事はありません。

 

正しさ自体を否定できないという事は重要な考え方です。

そもそも検証自体では正しい事は立証できても正しくない事は立証できないので。

 

仮に正しくない事を立証するとすれば、唯一根本の式が間違っていたり、証明に使用された資料自体が誤っている、そういったある特定の事象や固有の事実は否定できるが、仮にそれらが間違いがなかったときは、再現できないという事実が残るのみであり、それ自体は正しさを否定するものではないわけです。

 

そういった観点でこの”「外から流れてくる数字や言説を信じず、まずは自分の体で試して、確認すること」が科学的”という表現をふり返ると、やはりそれは科学的か否かの議論はみじんも含まれておらず、それは主体性の話しでしかないので、ちょっとしたパラドックスに陥ります。

 

科学的の定義に、科学の否定から入るというのはちょっとした謎かけかなと。