何気ない記録

なんとなく自分の意見を書き記すときにつかいます。つまり不定期更新です。

いろいろとジレンマがつきまとう表現の自由

『異世界居酒屋「のぶ」』の作者「『月曜日のたわわ』の広告を掲載する自由を守るためには、諷刺川柳を掲載する自由も同様に守らないといけない。」

まぁ、それはそうとしか。下品だと思う事も、朝日紙を取らない宣言する事も自由だが、それを表現する事を規制するのは適切ではない。まぁ、同様の話しとして、違う故人に対しても下品な投稿を許容する必要もあるが。

まぁ、そうとしか。

 

極論僕がどう思うかと、僕以外の誰かがどう思うかはほぼ確実に一致しないし、何かしら異なる処がある。それを言葉であったり何かしら表現する時、当然異なる結果を招くモノで、それに対して僕は同意しない自由もあるし、否定する自由もあるし、批判する自由もあるが、それを辞めさせる権利は僕個人にはない。

 

この辺りが表現の自由を守る意味でのジレンマなのかというと、そうではない。

 

この本題にある安倍氏に対しては、少なくとも評価は様々ある事は事実で、わかりやすく二分されている。どちらの勢力が多いかどうかはさておき、それは万人が理解する処かと。

 

こういった場合は非常にわかりやすく、寧ろジレンマはない。

単純に意見の対立が目立つだけであり、それは当然のことで、寧ろ当たり前なので。

 

ところが、例えば、志村けんさんに対して同様の表現をした場合や、例えば高倉健さんのような人物に対して行われた場合はどうであろうか。

 

こういった場合は非常に難しい。

まだ志村けんさんは晩年こそある一定の評価が定着したが、デビュー当時は肯定的な人や否定的な人、教育によろしくないという評価も含めいろいろと意見はあったので、まだ風刺的なもので弄られる事について一定の理解も得られるかもしれない。

が、例えば高倉健さんに対しても今回の安倍氏のような雰囲気で、弄る行為が一部の人から行われた時、私たちはそれを許容できるだろうか。

 

当然、故人に対する名誉毀損罪もある為、虚偽の事実により故人の名誉を毀損した場合は罪に問われる事もある。存命の個人の権利とは扱いが異なるので、あくまでも限定的ではあるが、故人相手であればサンドバッグにしてよいという事はない。

 

まぁ、僕個人はあの川柳は、下品だとは思うし、仮にそれが事実であろうが無かろうが、故人に対してあれやこれや言うのはあまり好きではない。

 

理由は単純で、そもそも僕はその故人に対して近親者ではないので、本当の意味で故人の事をしらない事もあり、少なくとも近親者や故人を理解する人に取っては故人を悼む時期でもあるので、そういった時期に故人を攻撃する事が僕の主義に反するという点や、そもそもそんな事を大々的に言い放つ必要もないなと、精々Twitterだったり個人のBlogだったりで、私はこう思いますよ、程度の意見表明が妥当なところで、それが本来の在り方だと考えている点、そして最後に、メディアが率先して党派性の偏った意見を媒体上にのせる事は、多くの場合ミスリードしがちなので、基本的に僕はメディアには(可能な限り)中立な立場であってほしいという願望があるからで、そういった考えからすると、肯定と否定は何れも大事な意見であると同時に、それを何れかに寄せてしまう事はもはやお抱えメディア(それこそ大本営発表をする某紙)と同じ次元に落ちているという事であり、それを受けいれるという事は、今後そういった行為、つまり大本営発表的なメディアの行動を批判する事の正当性を失う事を意味するのではないかと思うから。

 

そんな感じで、あの手の行動は基本的には否定的です。

が、否定的であるだけであって、それを咎める気もないですし、やりたいのであればどうぞご自由にと、思う程度です。

 

せいぜい、前述のような、このやり取りで行為を肯定するという事、少なくとも否定できないというのは、今後類似の例の時にも法律に反しない限りは、いわゆる「モラル」のような定義が難しいモノで縛る事はできない世の中になったのだなという程度ですかね。

若者も自民党を支持している、と、若者の支持率が40%を切る、は両立する事が理解できない人が多くて辛い

自民党の比例票、30歳未満で4割切る 変化求め分散

国民民主党はわかりやすく若者の思考に近いのかと。他者を拒絶や排除するよりも譲歩できるところは譲歩し、譲れないところは議論するそんな感じ。どっちつかずと評するのは簡単だが、結局は否定は議論にも繋がらない

なんというか、熱狂的な自民党支持者もトンデモ理論を出してきて辛い事が多いが、野党の熱狂的な支持者も同じレベルでトンデモ理論を出してくるので、本当に辛い。

 

私は別な記事で、そもそも世代間の対立なんて存在しておらず、全年齢で自民党がほぼ一番に支持されている、というコメントを投稿しているのだが、それは若者でも同様で、若い人でも普通に自民党を支持している。

Torishima on Twitter: "これ、いくら10代20代が頑張って選挙投票したとしても、どうあがいても老人(60代/70代)の人口には勝てない事が明確な図で大変アレな気持ちに…… https://t.co/fSupBaYg8I"

完全な間違い。そもそも世代別でも自民党が獲得票数はトップなので、極論言えば、全世代を同数の投票数としても、結果的には自民党が第一党になるわけで、別に人口の差異により結果が左右されてるわけではないかと。

参議院選挙の投票率、52.16% 前回上回る

投票率が上がっても基本的に野党が利する事はほとんどないよ。逆の場合は支持票が固いところが勝つけどね。投票率が高くあるべきなのは政治への関心が低い事が問題であるだけであり、得票数には影響云々はお門違い。

 

これは、以下の子育て世代と思われる方の発言にも同様のコメントをさせていただいており、そもそも女性においては確かに有意な差で与党支持者が減っている部分はあるが、それでも著しく女性支持者が少ないわけでもない。

さた☺︎ 🍦7m⋆͛🦖⋆͛ on Twitter: "政治のことあまり強めに発言するとあれだからあれするけど、子育て世代が必死になって自民党以外に投票しても、お爺お婆に母数で勝てるわけないよな… でも妊婦さんが命を守りながら入れた1票、ママ達が我が子を抱きながら入れた1票、絶対絶対無駄じゃない1票だったと願いたい…"

この手の認識は根本が間違ってるのよ。高齢世帯に限らず自民党の支持層は若者から高齢者、男女では若干男性が多い程度で現実的にはほぼ全ての年代や世代から得票しているのでどちらかという野党の支持が低すぎなのよ

《反ポリコレたる護憲派》は《左派たる自民党》に勝てない|女子大生起業家|note

選挙後からで回る「若者世代と高齢者世代の対立」とか「子育て世代は高齢者世代の犠牲」という謎理論も基本的にはこの類いよね。そもそも自民党が全世代的に支持されている時点で国民の中に主要な対立軸は別にない。

 

で、今回の記事ですが、これも同じで、確かに自民党の若者の支持率が若干低下傾向にあるのは数字の上から事実であるわけですが、それは別に若者が支持していないわけでもありません。

というか、未だに、いやむしろこの状況でもまだ4割程度の若者の支持を得ているという事の方が驚異の支持率で、普通に考えて4割近い支持がある事に驚くべきかと。

 

現実的には特定政党が全世代で30%程度の支持率があれば、おそらくは単独過半数は難しくとも、安定した連立政権を維持する程度の勢力は持ちますので、ぶっちゃけいまのままでは野党に勝ち目はないです。

まぁ、あと数回は、仮に減少傾向であっても他政党を寄せ付けない程度には全世代で支持率があるわけでして、他人の世代別支持率を笑っているのはいいですが、その下がった支持率にすら届いていないようでは、永遠に勝てませんよ。

 

私は別記事でも述べましたが、野党が勝つにはまずは野党支持者がもう少し成長する必要があり、低次元の喧嘩をしている場合ではありません。

正直この手の記事に「あれ、若者は自民党を支持しているんじゃなかったの」とかその手の数字の読めないような投稿をしている暇があれば、もう少し若者世代の感性に理解を示す必要があります。

それこそ、立憲民主党共産党、そして公明党はそのあたりに敏感にならないとダメでそういった視点の改善ができないと、おそらく社民党と同じように、歴史上に存在した政党、と呼ばれる程度には衰退する可能性が高いです。

 

何度も言いますが、おそらく各政党はそういった類のことは理解しています。

が、ただでさえ支持率が低下している状況下で、今の支持者からの票を失えないという気持ちが強く、結果として、古い考えややり方、元々の支持層に遠慮した結果、特定の支持以外は得られないという負のスパイラルに入っているわけで。

 

こういった記事を読んだとき、数値から何を読み取るか、その数字が意味する事は何なのか、そういった事を支持者も理解し、足りない部分は貪欲に学び、その上で、各世代が求めている事は何なのか、今の時代は何が重視されているのか、そういった点にもっと理解を示す事が必要なのですよ。

 

特に、対立するというのは、あまり現代的ではなく、そもそもどちらも主張はあるのが当たり前ですから、その主張の違いについて議論する素地や機会を作る努力をする、そういった姿勢のない政党は、昭和であれば好まれましたが、平成の頃には徐々に敬遠される考え方になっており、令和の今では敬遠からご遠慮願う程度には関わらない扱いになっているわけで。

 

そういった感性に理解を示せるかどうか、そういったアンテナを政党側も支持者側も両方が持つ必要があるのが現代の選挙だと私は思います。

たぶん40年前に転移しても、さほど詰むこともないというお話

きしだൠ(K1S) on Twitter: "現代プログラマが40年前くらいに転移してしまうと「え?メモリ8KB?え?画面幅40文字?え?コードは紙に。。。え?」とかになってなんも無双できなそう"

乗り越えられない人も一定数はいるだろうが、別に制約が明確なら、その制約の中で何とかするのが技術であり経験なわけで、別にそれほどでもと。今はその制約や活用の領域が広大なだけで、実態は制約との闘いで同じ事

言いたいことはわかるが、現実は何もかわらないかと。

 

つまり、現代でもできない人は、過去でもできないし、現代でできる人は、おそらく過去にいってもできるだけの事。

 

私は高校時代にCOBOLプログラムを触っており、汎用機の操作もする程度にはよい環境で学んでいました。

その為、40年という程昔ではありませんが、それから少し過ぎた程度の時代のプログラムを触っていましたが、結論から言えば、現代と何も変わりません。

 

結局のところ、システム開発やプログラミングというのは、究極のところまで情報をそぎ落とすと、ただ只管目的を与えられた制約の中で達成するという事にすぎません。

 

この基本的な考え方は過去も現代も変わらず、永遠に技術者が向き合うべき性というものでしょう。

 

現代は通信というものを中心に、エクスペリエンスがかなり重視されており、如何に利用者によい体験を与えるかという点に注力しつつ、その目的を達成する為、様々な環境下での最適化を技術者は行います。

 

当然、使える言語、リソース量、処理完了までの時間、クロスブラウザ対応、安定性、そしてコストと利益、そういった様々な条件を満たし、最大化するという事が求められます。

 

一方で、昔はというとあまりそういった方向の制約はなく、逆にリソースの利用制限という概念が優先されていました。

 

そもそも当時はコンピューターを操作する人は、それぞれの役割を持っており、極端なことを言えば、磁気テープの差し替えも誰でも触っていいものではありませんでした。

当然、コンソール前で操作する人も、今のような一般の利用者ではなく、GUIすらない時代は、当然CUIベースで画面を見つつ処理を行うということが当然でした。

 

当時もっとも重要だった事は、何よりもリソースの制限で、例の投稿では画面幅やメモリーの話が例示されていますが、私の経験上、画面幅やメモリーが制約としてつらくなったのは、どちらかというと近代で、Windowsへの移行直前あたりでは確かにCUIといいつつ、事実上のGUIへの足場ができている時代で、例えばX68000のような機種ではなんちゃってOSを作るのが流行ったりするなど、与えられた制限の中でどうするかが議論となり、特にUI回りが劇的に進化し始めた時代でした。

その後の携帯電話が出始めるころからメモリとの闘いや、特に画面サイズとの闘いは激化するわけですが、正直それ以前は、印刷の時の1行のライン幅は気にするものの、画面についてはぶっちゃけそこまでの厳しさはありません。

 

というのも、そもそも画面サイズに対して表示できるデータ量に制限がありました。

CPUもメモリも、というか、グラフィカルなUIが想定されていないので、VRAMのような仕組みもありませんから、画面入出力=メモリとの闘いであり、別に画面の横幅なんて大した問題ではなく、そんな戦いができる程の余裕事態がありませんでした。

 

私が感じた一番の制約は、単純にCPUです。

アルゴリズムでいえば正しい処理方式であっても、そもそもそれを処理できるだけのCPUがあったかというと、正直厳しく、パソコンの類はまだいいのですが、汎用機に至っては、CPUの利用できる時間の総量が部署や企業で定められており、処理完了まで放置、という方法はとれません。

私はたまたま学校で占有できる機器があり、銀行への引き落とし処理だったり、なんちゃってゲームを勝手に作る程度には自由にできましたが、それらは大抵が、制約を無視した環境だからこそやれる事で、現実の技術者がそんな処理を実装しようものなら当然ですが、処理時間が足りるわけもなく、技術者失格の烙印をおされるわけです。

 

アルゴリズム自体は数学の延長線上ですので、ぶっちゃけ特定の名前がつく前から、そういった方法で処理できることは暗黙の了解がありました。

が、ソートアルゴリズム一つとっても、それをその量のデータに対して行う事が、現実的にできるのか、という問題とぶちあたるわけです。

 

メモリの制約、記憶容量の制約は確かに厳しいのですが、こちらは処理を分割したり、そもそも入出力をそれに最適化する事で乗り切ることは可能です。

機種依存文字の活用はこのあたりの最適化にはとても役に立っており、この考えは、ワープロの時代にも生きていました。

 

私が思うに、無駄に日本で機種依存文字や記号っぽいそれが発達したのは、汎用機からワープロの時代に無茶した結果だと思っている程度には、最適化は進んでいたと感じています。

 

このように、何かしらの制約と戦う、それを乗り越えるというのは、時代によって「何と戦うか」が違うだけで、さほどのハードルにはなりません。

 

1行の制約があるならそれに最適化すればいいだけの事ですし、逆に今のように1行の制約はないか、それを閲覧する端末は無数にあり、それぞれの利用者の環境で同等の条件で実行される事、むしろこの条件を40年前の技術者に提示すれば、失神するのでは、と思う程度に、現代の制約も非常に厳しいものがあります。

 

まぁ、そこはフレームワークを中心とした周辺技術が補ってはくれますが、むしろそういった知識、経験、流れ、そういったものは昔は必要なく、ある意味一本道ですからね。

 

コメントの中にあるエディタや開発環境は確かに影響は大きいかなとは思いますが、40年前ですと、おそらくいきなりマシンの前に座るということはありません。

私の学生の時代ですら、いったんは紙の上でコーディングし、それをデバッグ・レビューした後、基本的には完全に動くという条件下でタイピング(コードをコンピューターに登録する。なお、実行はまた別の段階)するので、ぶっちゃけエディタ云々以前の話ですので、発狂するかといえば、発狂するのではないかなと。

 

まぁ、とはいえ、当時私が書いたものでも数千行程度が最大だった気もするので、手で書いて、デバッグやレビューしてもさほどつらくはないですね。

 

ようは慣れです。

 

という感じで、冒頭に書いたとおりですが、現代でちゃんとやれている人は、その時代でも大丈夫ですから、万が一異世界転生的な何かでそういった時代に転移する事を恐れている人も安心していただければと思います。

 

今の時代ですらやれていない人は…まぁ、なるようになるでしょう。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

俺はアマ3段だからお前よりも将棋に詳しい、だから俺の意見が正しい

そもそも「男性向けの棋戦」自体が存在しない - 何気ない記録

また馬鹿がきた。俺はこいつよりよっぽど将棋界について詳しいんだが。ついでに言えばアマ三段なので多分こいつより強い。とりあえず俺が書いた将棋関係の記事を全部読んでからこい。 <a href="http://buu.blog.jp/archives/cat_68156.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://buu.blog.jp/archives/cat_68156.html

2022/07/14 20:53
そもそも「男性向けの棋戦」自体が存在しない - 何気ない記録

<a href="/buu/">id:buu</a> アマ三段ですらその程度の認識なのであれば、その程度のものなのでしょう。貴方自身が将棋に対してどのような思いがあるかは貴方の自由ですが、事実を曲げる事はどのような理由があれ、不適切な行為でしかない

まぁ、冒頭から謎理論で頭痛が痛いというアレですが。

 

そもそも仮にオープン棋戦で本戦まで進んだ強者であったとしても、事実を覆したいのであれば、事実で反論すればよいだけの事です。

 

貴方が仮に私より将棋に強かったとしても、それは、将棋で強いという事実を証明するものであって、貴方の発言を補強するものではありません。

 

残念ながら、足が速ければ正義、力が強ければ正義というのは、小学生やゲームの中でしか通じる理論ではありません。

 

なお、記事を読めという話しでしたが、リンク先の記事を頑張って2011年10月07日あたりまでは遡り、途中では私の記事のように無駄に長い貴方のLPSAに対するご意見も読ませていただいたが、特段どこにも具体的な事実を覆す話しは書かれておりませんでした。

 

残念です。

てっきり、ご自身の記事を読めと胸を張られていたので期待して読ませていただきましたが、ただ単純に貴方の将棋や女流棋士制度に対する思いが書かれているだけであって、それ以上のモノはありませんでしたし、半分以上は貴方個人の気持ちや感想であって、事実となるものは精々引用した部分だけかと思いますが。

 

せめて他人に対して自己の意見を正当か又は補強するために記事を読むことを勧めるのであれば、具体的にその意見を補足または補強する根拠を示した記事が掲載されている事をご自身で確認し、その上でご提示いただきたく。

 

お互い無駄な時間を過ごす必要もありませんので。

 

 

 

 

 

 

そもそも「男性向けの棋戦」自体が存在しない

女性の将棋競技人口は実際どれくらい少ないのか

いつも言ってるけど、男女の棋戦数と賞金総額を同額にすれば良い。

2022/07/14 19:34
女性の将棋競技人口は実際どれくらい少ないのか

<a href="/buu/">id:buu</a> そもそも将棋には男性・女性のカテゴリーがなく、女性でも大会で優勝できれば男女問わず同等の扱いを受ける。そもそも他の競技と異なり、男女で最初から隔てがないのでその理屈は余りにも無理筋なんですけどね

定期的にこの手の謎理論の批判がでてくるのだが、将棋には男性・女性の区別はない。

 

他の競技の場合、大会自体が、男性向けの大会、女性向けの大会と区別されており、その上で、男性向けの大会の賞金総額が女性向け大会の賞金総額と異なる事はあるが、将棋では、そもそもその分類がないので、男であろうが、女であろうが、規定の棋戦で得られる報酬も賞金も一律同じでしかない。

 

現状、将棋界に関して言えば、女流棋戦という男性には参加する事ができないプロ(ここでのプロの表現は、将棋連盟におけるプロの規定)ではない女性限定の大会があるように、むしろ男性の方が、同じ条件では扱われていないわけで。

 

サッカーやテニスなどであればまだ言い分については議論の余地があるが、少なくとも大会自体を性別に区別しておらず、一方で、女流棋士専用の棋戦がある時点で、実際には一定の女性優遇措置が採られているわけで、どの部分をさして女性が不当に扱われているのか甚だ理解に苦しむ。

 

批判したいのであればもう少し情報を集め、学んでから批判すべきかと。

国葬或いは国庫により一部を負担した葬儀の実施についての個人的な意見

さほどの意見でもありませんが、やるのであればやる客観的な基準を準備して欲しい。

 

個人的に「顕著な実績」とかそういった定量的でない軸は正直嫌いで、例えば首相経験者であれば、在職期間であったり、就任回数であったり、何かしら客観的に、誰がみてもわかる(納得という次元はどのような基準であれ反対・賛成が発生しうる)ものとして、その基準に達すれば、実施時点での与野党問わず、一律国葬又は国費により一部を負担した葬儀とすべきかと思う。

 

また、現与党だから閣議決定により国庫から費用の一部を支出するというのも基準ではなく、それは事実上、与党関係者しか国費により一部を負担した葬儀を行わないという事になり、例えば、本当に功績のあった方に対しては実施や支援が行われないリスクも伴うので、私は、その手の進め方には反対。

 

実施時点での与野党を問わず、一定の基準を満たした人に対しては国葬とすべきで、特に政治家、首相経験者、閣僚経験者のような基準を作りやすい職位においては、率先して適用基準を作るべきだと思う。

野党が勝てないのは高齢者の得票数が多いからではなく、根本的に野党の支持率が低いのが原因

【出口調査】比例投票先 全年代で自民が3割超 30~60代では自民に次いで維新(日テレNEWS) - Yahoo!ニュース

これが現実。野党が勝てない理由として野党支持者の最大の勘違いは若い世代の母数が少ない云々を嘆いているが、仮に世代が同数の票をもったとしても自民党が第一党である事に変わりが無いのが現実で認識を改めるべき

選挙結果がでました。

概ね私の予想どおり、自民は無難(私の予想よりも伸びた)、維新は伸びる(予想よりは控えめ)、立憲は現象(私の予想よりは踏みとどまった)という感じで、唯一は国民民主党の減少は明らかに予想を外しました。

 

立憲民主党、また共産党が伸びを欠くのはそもそも今回の選挙に限らない話しですが、特に立憲民主党はれいわの登場によりその個性も失いつつあり、今のままでは現実的には以前から述べているように社民党と同じ道、つまり役割を終え、緩やかに消滅する方向に舵が向かっているのが現実です。

共産党に関して言えば、特段なにかの登場により役割を奪われているわけではありませんが、こちらはそもそもそれ以前から比例票を見てもわかるように、緩やかに支持を失っており、恐らくは今後もその傾向には歯止めはかからないものと思われます。

共産党は局所的に伸びる事もあるのは事実ですが、党としての支持が拡大したというよりも野党の混乱や自民の大敗の結果での伸びと評価するのが現実で、且つ、共産党社民党同様に、一時期の勢力と比べると、今のそれは現実的には減少と評するのが妥当かと私は思います。

 

両党の何れにも言える事としては、おそらく党としてのあり方を変える必要がある事は党運営側としては理解しているものの、支持者がそれを許さないというジレンマがあるのだろうと思います。

 

その一つが若い世代の人口が少ないのだから高齢者の支持する政党が勝つ、という謎理論です。

 

そもそも出口調査にあるように、自民党支持者が多いのは高齢者に限りません。

これはここ数回の国政選挙におけるトレンドで、むしろ若い世代の自民党支持は依然より安定してきており、仮に全ての世代が均等に票を持ち投票を行ったとしても、現実的には大勝する事はないものの、第一党は自民党であり、あとはどこと連立を組みますか?という程度の差であって、別に若い世代が野党を積極的に支持しているわけでもありません。

 

おそらく運営サイドはそれを理解しており、ある程度舵取りに反映する必要があると理解していると思われますが、ここまで議席を減らし、支持層が偏ってしまうと今さらその支持層すら失う事は恐ろしい事であり、結果として、本来有るべき流れに戻せないまま、というジレンマに陥っているのが現状で、ぶっちゃけ支持者が現実を見つめ、どうあるべきかという事に気付けないと、冒頭に書いたように両党は緩やかに消滅する流れになるのではないかと思います。

 

私は、依然もNHK党に触れましたが、あの手の主張は兎に角に強く、別に野党第一党になれなかったとしても一定の得票を見込めるため、少なくとも国政選挙では現実的に議席を取ってしまうわけです。

特に今回東谷義和氏が当選しましたが、ああいった、極論言えば、政治にそれ程感心はないが、誰かに入れるなら、という選択肢を提示する事、そういった戦略は現代的であり、良く考えている戦略だと思います。

 

その他、れいわと参政党は支持者は否定するでしょうが、根幹の戦略は同じです。

どちらもいわゆるどの政党もそれ程踏み込めない(踏み込まない)領域に興味関心を持つ有権者に選択肢を与えるというもので、内容は違いますが、戦略的には全く同じです。

 

但し、私はれいわよりも参政党の方が恐らくは脅威で、れいわがいわゆる戦法としては自民と同じく知名度により得票を伸ばす作戦しか使えていない事に対して、参政党はそういった戦略がないまま議席を獲得するというところまで来ています。

なお、実際には知名度のある方も出ておられますが、れいわや自民程そこに頼っての得票というわけではないという意味

 

正直、現時点ではこのまま勢力が拡大するとは考え辛いのは事実ですが、今後政策の在り方や活動の進め方によっては、自民系、維新系支持者の獲得はあり得ない事ではありませんので、その場合、野党第一党になる可能性がゼロであるかというと、そこまで楽観視できるものでもないと考えます。

 

また、今回の選挙でも野党共闘をしなかったから、という理由を挙げている人もいますが、おそらくそれも絵に描いた餅です。

 

野党共闘をした場合、メリット・デメリットの両方が生まれます。

 

現実的には一定の効果があるのかもしれませんが、国政選挙という視点でみると、それは単純に一部の議席自民党から奪う程度のモノでしかなく、それにより野党の力を示せるものではありません。

 

この事実は皮肉な事に維新が一番理解しているようです。

維新は今回躍進したわけですが、その中でも「我々は力不足。負けを認めざるを得ない」と反省の弁を述べています。

これはとても正しい現状認識で、維新が躍進した事は事実ですが、その事実をもっても自民が堅実に得票している事実、特に全国且つ全世代でトップの得票をしている事実を見れば、局所的な勝利に浮かれる余裕はありません。

 

とても皮肉な事ですが、今立憲民主党共産党に必要なのはこの視点です。

選挙全体で何がおきているのか、何と戦っているのか、有権者は何に興味を持っているのか、特に自分達の支持者と競争相手(通常は自民党)の支持者の違いはなにか、何が得票に影響したのか、そういった視点を客観的に持ち、有権者に媚び諂う必要はありませんが、世の中が求めているもの、特により大きな集団がどのような視点を持っているのかを冷静に見つめる事が大事です。

 

一方、このような事を言うと「少数意見は蔑ろにされるのか」と謎な意見を持ち出す人もいますが、そうではありません。

 

その点については、私は連合の芳野会長の進め方はある意味現代的であると感じています。

つまり、別に敵を作る必要はなく、現実としてこれだけの支持者がいるという現実を盾に決定力のあるところとの交渉を進め、その中で、一つずつ要求をのませるという事も重要という事です。

 

現実問題、少数者の意見を真っ向勝負で通すのは至難の業で、国会という場で考えればよりその難しさは際立ちます。

 

確かに弱者の為に、と言えば聞こえは良いですが、連合がこの数年間野党を支持している間に、民主党の崩壊と共に経済界は一気に与党支持への傾き、同様に選挙のトレンドが企業支援により偏った(コロナ過という影響を考えてもより顕著になった)事を見ても、与党と明確に距離を置いた結果の反動は大きかったと思います。

 

特に、今国際社会を見ても、企業の活動は特定の国による規制や法律との戦いだけでなく、国際社会の中での在り方や規制、そういったモノとの戦いでもあります。

その中で現実的に方針策定に関与できるのは現状の与党系だけですので、必然的に企業サイドとしては与党に歩みよる必要があり、その両者の距離が近づいた分だけ、対労働者という視点では不利な局面が増える事は否定できません。

 

幸いにもコロナ過という事もあり、現時点で一足飛びに企業優位な何かを持ち込む事はない(まったく無いわけではないが)ですが、コロナが落ち着いた後に現状のままであれば、結局は企業主導でルール再編が行われる事は必至で、その状況でよいのか、というジレンマは残ります。

 

またこの進め方で有効なあり方としては今回自民党の比例で当選した赤松氏も良い事例だと思います。

確かに自民党という中で彼の存在がどの程度の影響があるかといえば、私は限定的であると思います。

が、彼は支持団体なく約53万票という得票をしており、これは無視できるものではありません。

単純に赤松氏が何を支持したいかは明確であり、極論言えば、彼が政党を移ると全てとは言いませんが、その支持者の一定の割合が他党に流れる上、彼の情報発信力の強さも明らかになりましたので、彼との対話は一定の配慮が必要という事も明らかになったと思います。

それでも、大きな自民党という中ではやれる事には限りが有りますが、全てを失うような選択をさせられる事は避ける事はできるでしょう。

そういった意味でも、清濁併せ呑む、ではありませんが、守るべき何かがある中で、幾つかの選択肢や条件の中で選択できる可能性を残すという事は非常に大切で、その選択肢の残し方、選び方というものを示したと私は思います。

 

一方、こう言ってしまうと、みんな与党にすり寄るしかないじゃないか、と、感じるかもしれませんが、そうではありません。

 

ここまでの話しで大事な事は全てそうですが、支持者がそういった現実をまずは理解する事です。

その上で、各党の主張は、どういったものであるか、何処は譲れないのか、そういったメリハリが大事で、そのメリハリを出す為には、支持者がそういった状況を理解し、妥協する事を許容する、そうやって戦う事が必要という事です。

 

正直、私から見て自民党の強みは2つあります。

 

1つは単純に与党であるという事です。

今のような変化が激しい状況下では、多くの人は荒波ではなく凪を求めます。

只でさえ厳しい現状を、より激しい波や流れで乱せば、耐えられないという感情を持つ事は決しておかしい事ではありません。

結果として変化よりも停滞を選択する人が一定数出てしまう事は想定され、それが一つは自民党の強み、というか、優位に働いているのは事実です。

 

もう1つは、政策が尖ってないと言うことです。

野党支持者からすると自民党はマイナスばかりの主張をしているように感じているのだと思いますが、客観的に見れば、どれもこれも大して尖った主張がなく、全年代に少しづず配慮しているのが現実です。

例えば、憲法改正一つとっても、それにより日本が戦争を仕掛けるなどと考えている人は明らかに少数派で、多くの人は、単純に今のままでは不安だ、という気持ちをもっており、そこに対して自民系は「だよね」という相づちを打っているだけの事に過ぎません。

なお、当然ですが、自民としてはその相づちの裏に、政党としての思惑は持っていますが、そういった事は皆同じです。

例えば先ほど述べた連合であっても同様で、労働者として求めるモノがあり、その条件とのトレードオフで何かしらの支持をするわけです。

こういった「ある人の不安や課題」に対して、満遍なく回答を準備するというのが自民党の政策であり、そして、マイナスについても満遍なく存在しているというのも特徴だと思います。

 

なお、あえて「満遍なく」と書きましたがこれはとても重要で、選挙で勝つという事を考えた場合、どうしても一定の対立が生じる事は避けられません。

 

例えば、高齢者福祉を優先するのか、子育て支援を優先するのかという議論一つとってもそうですが、実は両者に負担を強いているというのが現状です。

高齢者向けでも打ち切りや減額は普通に決定されており、特段高齢者だけが優遇されて増額等の決定がなされているわけではありません。

子育て世代から見ると自分達が高齢者支援の犠牲になっているように感じるでしょうが、事実は高齢者支援「も」削られているというのが実態で、実際にはこの両者に対立などありません。

同様に子育て支援を見ても、依然の在り方と変わっており、全体でマイナスとなっている人もいれば、純粋に増加した人もいるのが現実で、一方的なマイナス、一方的なプラスというわけでもありません。

これは高齢者と子育て世帯を対比しても、子育て世代同士を対比しても、一長一短があるというもので、簡単に言えば、最小限のマイナスで留めるように「見せかけている」という上手い戦略です。

もっとも「見せかけている」と書いているように、そのトリックで何かが何処かに流れているのはありますが、有権者同士が争っている状況ではそれ自体はあまり意味はありません。

だからこそ有権者、支持者はそういった事実を理解する必要があり、選挙の都度「若者の意見は無視された」とか「高齢者の人口が多いから勝てるわけがない」とか「子育て世代はまた高齢者支援の犠牲に」という、存在しない対立を煽るのではなく、今、それぞれが実は負わされている負担があり、それぞれの世代が、それぞれの課題を持っている事が現実で、その中で、実は取捨選択した結果が全世代で自民党が支持率が高い結果となっているという事実であって、それを理解した上で、では自民党に勝つためにはどの世代、どの属性のどの主張を上手く対応すべきなのか、その為にはどのような調整が必要なのか、そういった方針を積極的に支持する事が大事なのだと思います。

 

当然、既に存在するマイナスに対する対策が不足しているという現実はあります。

が、選挙という視点では、積み重ねを考えた場合、過去のマイナスは過去の選挙でも織り込まれているのが通常ですので、国際的な関心等の何か大きな影響が無い限りは、既に存在するマイナスにより得票数が大きく変動する事は通常ありません。

 

こういった「不合理な現実」をおそらく既に政党サイドは理解しており、それを生かす政党、生かせない政党、その差が今後はより顕著にでてくるものと思われます。

 

それを生かせるかどうかは、実は政党サイドではなく、支持者、有権者のサイドがボールを握っており、その決断を支持者や有権者ができるのかどうか、それが今後の選挙の行へ、日本の未来を握っているのだと私は思います。