何気ない記録

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音楽業界の衰退は価値観の画一化の影響じゃないかなぁ

新聞が終わる前に音楽業界が先に終わりそうな件 | More Access! More Fun!

価値観の画一化が問題なんじゃないかな。昔は趣味というと個人的・個性的なものが多かった気がするけど今は趣味ですら雑誌や媒体の情報を元に選ぶ時代。価値観が画一化する世界で音楽が縮小するのはやむを得ないかと

 

よんだ。

 

というか、本文よりぶコメの方が面白いので、そっち読んでの意見ですね。

 

個人的には、音楽自体が面白い・面白くないとか、ミュージシャンのプロ意識が云々とかはあんまり関係ないかなと感じています。

 

どちらかというと、現代病である価値観の画一化の方が問題なんじゃないかなと。

 

例えば、どのミュージシャンが好きであるかという事と、どのミュージシャンが売れているかという事に本来は関係性はないんですが、現代では売る為にはそこを連動させてマーケティングするのが常識になっている。

その為、知名度=露出度=販売数というある程度の図式があって、それだけでは当然うれないので、売れている感を出さざる得ない。

 

で、昔はこの手の話はそんなに魔法の杖にはならなかったんだけど、今は、基本的に私の好きなものはあなたも好きよね?と問われて、いいえ?なんていうのが難しい時代なので、結果的に前述の構図に引きずられてしまうのかなぁと。

 

ただ、それ自体は以前から変化のあった部分で、ここ数年急激な変化という話にもつながらないのですが、この価値観の画一化というのは、例えば、趣味や浪費の世界にも影響を及ぼしているのだと思う。

 

最近、山水さんの破綻の話題がありましたが、音楽好きな人は実際のところケーブル一本までこだわるのが多かった。僕の周りにもお前そのケーブルで何が変わるんだよ、と突っ込むと、その違いが判らないお前は音楽を聴く資格はないとまで言いはる人もいるような時代で、音楽というのは、一般教養というよりも一つの趣味のジャンルであったと思う。

 

趣味のジャンルなんで、個性にすごく引っ張られるんですが、歌い手の方もかなり個性が出ていたと思う。

決して商業主義で無かったとは言わないけど、それなりに音楽というものに作り手や歌い手としての何か思いがあったように思うし、商業主義オンリーというものでもなかったのじゃないかなと。

 

それは、まさに歌い手自身が趣味の延長線上でプロ化したというようなものかと。

 

今はそれが、商業主義が前提で、その先に歌い手が準備されるような形が多いように感じる。その結果、趣味としての音楽業界は衰退し、ある種教養に近いレベルの音楽業界のみが残ってしまったと。

(歌い手が悪いというよりも、歌い手を商業主義が包み込んでいるような状況)

 

趣味という分野はそこそこ高付加価値ビジネスとして成り立つのですが、常識であったり一般教養と思われるようなレベルとなると、差別化は成立しないので、基本は価格戦略やバリュー戦略にしかならない。

何れの場合も、損益分岐点との勝負でしかないから、音楽そのものの戦いからどんどん遠ざかってしまう。そうすると余計に趣味として音楽業界の世界は衰退するという負のスパイラルに入ってしまうのかなと。

 

ちょっと分かりにくい説明でしたが、まとめると、ミュージシャンや発せられる音楽の質が下がった云々よりも、受け手である我々視聴者側が音楽というものに対する価値観が変わってしまっていて、その価値観が変わらない限りはこのまま音楽業界は衰退するしかないのかなと。

 

あのアーティストにはお金が払えないという次元ではなくて、音楽そのものにお金を払いたいと思うほどの価値観がもはや存在していないという事ですね。

(正しくは、音楽関連に払える相対的価値が著しく低下しているという事ですね)

 

もしも音楽業界を再生させるとする為にあなたはどんな一手を打ちますか?と問われるなら、僕だったら、業界全体(これは、レーベルとかそんなレベルではなく、メディアを含めてすべての係る団体)で、音楽というものの価値を、昔のように一つの文化として視聴者がとらえられるように価値観の変化をもたらすようなプロジェクトとして取り組みませんか?というのが僕の提案ですかね。

 

恐らくそれは、なんとなく商業主義によって大きく影響を受けるような何とか大賞の廃止又は視聴者を置き去りにしない選考(少なくとも、視聴者がこの大賞の曲なんの曲?なんて言っているようではぜんぜんだめ)であったり、押し紙同様の売上ランキングの廃止であったり、どう考えても、それ、新人売り出しの為のタイアップよね、というような無茶なプロモーションの禁止であったりと、結構厳しい事をやらないといけないかなと。

 

誰が歌おうが、アイドルでも演歌歌手でも、おそらく万人が「あー、この曲いい曲だよね。」と、素直にいえたり、数年たっても曲自体が持つ伝える感動が色あせないようなものであれば僕はそういった曲が視聴者に届けばいいと思う。

それが記憶であったり、思い出であったりと重なって、価値を高める事になるのではと。

 

一番分かりやすい例でいうと、最近話題のアナと雪の女王でいえば、確かにMay Jさんの歌唱力や歌声は毎度すばらしいんだけど、劇中歌である松たか子の歌声の方が、正直、感情移入しやすいし、メディアもそっちをもっと子供たちに届けるべき話であったりだと思うんですよ。

にもかかわらず、おそらくキャスティングや販売(主題歌はあくまでもMay Jさんバージョンなので)とかいろいろ係るようで、アナと雪の女王の歌い手といえばMay Jさんという風にメディアが猛烈にプッシュしていると、映画をみて感動している人からすると正直ギャップが生まれるんですよ。

このギャップが受け手の価値観にズレを生じさせて、徐々に興味をそいでしまうという感じ。

(この話題は結構記事にされている人も多かったですから分かり易いかと)

 

ただ、ここに画一化の話が絡んで、その状況に疑問を感じるよりもアナ雪ブームに遅れないようにという方向性の動きのみが追従するので、結果、ただのブームで終わってしまう。

 

折角曲や作品の持つ多大な魅力があるにも関わらずね。

 

僕の中では、3年たっても5年たっても、劇中の松たか子さんの歌声の価値は変わらないし、10年後に聞いても、やっぱいいね!となると思う。

その一方で、May Jさんのバージョンを聞いたとすると、おそらく僕がやる事は、この時の感覚を思い出し松たか子さんバージョンをやっぱり聞きたいとなって、とはいえ市販はされていないから、YouTubeとかで探すような感じ。

 

残念ながら個人の記憶や感動はマーケティングやそれらの手法では作れないからね。

 

まぁ、即時効果がでて、売上が回復するような提案ではないので、非現実的ではあるのですが、5年~10年というスパンで取り組めば、僕は音楽というものが受け手にとってどの程度大切になるものかという価値観を変える事はできるんじゃないかなと思う。